半魚人の食卓

水円 岳

第1話 アペリティーヴォ

「ふーっ」


 九月末。残暑の名残がやっと消えて、何とか汗まみれにならずに外回りから戻ってこれるようになった。それでもまだ、一日中ずっと背広を着ているのは暑くてしんどい。小脇に抱えていた背広を事務机の上にぽんと放って、さっき自販機で買った冷たさの残っている缶コーヒーを一気飲みする。げぷ。


「よう、魚地うおち。課長が朝からずっと探してたぜ」


 隣の席の河岸かし洋介ようすけから聞きたくもない情報を聞かされて、ライフゲージの残がテンパーを切る。


「ちぇー、まあたなんか雑用かなあ」

「しゃあねえよ。俺らぺーぺーはそれが仕事さ」

「まあなー」


 河岸の言うのはまさにその通りで、俺には異存も反論もない。


 どんなところにも新人と中堅とベテランてのがいて、その上にお殿様がいる。そして、新人から中堅、中堅からベテランには、黙っていてもそうなるよね。ただ年を食うだけで済むから。でもお殿様になりたいのなら、ものすごい幸運ととてつもない実力、努力が必要なんだろう。もっとも、お殿様になったら必ず素晴らしい未来が待っているかって言うと、決してそんなことはないと思うけど。


 俺も含めて今時の若いもんには、ぎらぎらした成り上り志向はそんなにないんじゃないかと思う。かといって、みんながすちゃらかってわけでもない。まあ、自分のポジションと能力に応じて、そこそこのところをくらげのようにふわふわ浮いたり沈んだりしてるってことなんだろう。

 俺的には、真ん中あたりのポジションがずっと保証されているならとてもありがたいんだけどさ。そうは行かないのが世の中ってやつだ。何か不具合や不都合があると、どうしても一番下っ端にしわ寄せがくるんだよなあ。ちぇ。


 俺がここ加直かじきテクノスに営業社員として入社して、三年経った。加直テクノスは、精密工具と中・小型工作機械を製作してる親会社、加直工機の外販を担っている販売子会社だけど、子会社と言っても規模はかなり大きい。工具や機械を扱うから営業社員にも専門知識を求められるし、アフターも手を抜けない。その分営業社員は簡単に差し替えられないから、売り上げ出せなきゃぽんぽんクビにするっていうのもない。営業っていう職種にしては、比較的落ち着いた職場だと思う。


 入社してから今までの間に、任された仕事はだいたい単独でこなせるようになり、得意先にも顔と名前を覚えてもらえて、徐々に新規の注文が取れるようになってきた。どうにかこうにか給料に見合った仕事が出来るようになってきたなあと、密かに自負してる。


 俺は対応力はあると思うよ。上司がいつも押し付けてくる無理難題はぶつくさ言いながらもちゃんとこなしてるし。お客さんからのきっついお叱りや理不尽なお願いもどうにかこうにかさばいてる。俺が一番言いたくないのは『出来ません』で、それを何とかするのがこういう仕事だと思ってるから。

 裏を返せば。俺をこき使う人たちにとっては、お人好しで押しに弱い俺はいいカモなんだろう。それでも、出来ませんと投げ出しちまうよりは、なんとかしますって言ってばたばたあがく方がスキルアップに繋がるはず。こき使われてる今のシチュエーションでも、俺的には特に嫌だと思ってなかったんだ。


 たださあ。ここんとこちょっとひどくないか? なんぼ俺が一番下っ端だからって、なんでもかんでも雑用を押し付けんでくれよって感じ。ふう……しんどいわ。


 俺を見つけた細貝ほそがい課長が椅子から立ち上がろうとしたから、先に俺の方から課長の席に向かった。


「なんですか? 課長」

「ああ、ちょっと込み入った相談があるんだ。一緒に来てくれ」

「はい」


 みんながいる前では話せないことか。もりもり食欲が湧くような食前酒的なもんならいいけど、どう見ても課長の話は毒ワインっぽいよな。げっそり。


◇ ◇ ◇


 広いミーティングルームに課長と二人っきりってのは、どうにも気持ち悪い。そしてもっと気持ち悪いのは、課長がどんなくそったれなことを切り出すのか全く見当がつかないってことだ。


「ええとね」

「はい」

「君がうちの課に来て三年。君のあとに誰も課員が入ってきてないだろ?」

「そうですね」

「中堅に厚い年齢構成になってるから、退職者や人事異動に伴う空きがなかなか出なくてね。一番若い君と河岸くんに大きな負担がかかっちゃってる」


 むぅ。あいつと一緒にせんでくれ。立場は俺と同じはずなのに、あいつは雑用からのらりくらりと逃げ回りやがる。ったく。

 ただ、下っ端の雑用ってのは責任が小さい。自分のクビをかけて全力でやれってわけじゃないんだ。あれしろこれやれはがんがん飛んでくるけど、気分的には楽。指令を体力任せにざばざばこなせばいいだけで、何も苦にならない。でもさ、それが本務を圧迫するってのは勘弁して欲しい。課長もそれを気にしてくれたんかな? それなら嬉しいんだけど、たぶん違うな。


「でな。若い営業職員が足らんから寄越せと部長に掛け合ったんだ。それが通って、時期外れだけど若い女子社員が一人うちの課に配属されることになった」

「え?」


 俺は平社員だから、新人さんが来ても部下が出来るってわけじゃない。ああ新しい人が来るのねって感じで、期待感も負担感もない。新人さんなら仕事に慣れるまでの間は大した戦力にならないから、スタッフが増えるって言っても俺が持ってる雑用が劇的に減ることはないね。研修はベテランの先輩が持つだろうし。俺にとってはしょせん他人事だ。そして、課長も当然そう考えるだろう。それなのに、なんで俺を個別に呼ぶわけ? 嫌な予感ばかりがぶくぶく膨らむ。


「なあ、魚地くん」

「はい?」


 課長の眉間に、ぎゅわわっと深いしわが何本も走った。俺はその瞬間、来やがったなと身構えた。


「今度うちに配属になる新人は、本当の意味での新人じゃないんだ」

「どういうことですか?」

「今年採用になって、配属されていたのは総務二課。今度のは、うちへの配置換えさ」

「ええと。総務二課っていうと、蟹江かにえさんとこですか?」

「そう。その蟹江さんが、彼女を放り出したんだよ」

「ぎょええええっ!?」


 し、信じられん。思わず聞き返した。


「課長、蟹江さんと言えば、うちの社の人なら誰でもよーく知ってる究極の穏健派ですよねえ」

「そう。その温厚な蟹江さんをとことん怒らせたんだ」

「普通、その時点で辞めろって話に……」

「ならないんだよ、それが」


 課長はがっくりと肩を落として、這い回るルンバを目で追いかけるみたいにフロアのあちこちに視線を彷徨わせた。


「その子は、藻原もばら専務の娘でね」


 そっか、コネ……か。確かに専務の娘なら、俺らの立場じゃ何も言えんよなあ。


「使えないから、ですか?」

「いや、仕事は出来る。大学までの成績はとても優秀で、今までもペーパーベースの仕事ならほぼ完璧にこなしてるんだ」


 おやあ? デスクワークはちゃんと出来るのに、なんで事務方を干されたんだろ? 首を傾げた俺を見て、課長がまた目を伏せた。


「自分の実力を鼻にかけて、新人のくせに威張りくさったとかですか?」

「そういう性格の角がはっきりしていれば、いかにコネ採用って言っても切るだろさ。そうじゃない。本人には悪気がないんだよ」

「天然系、ですか」

「悪い意味でな」


 はあああっ。課長の溜息は、ミーティングルームを埋め尽くすくらいにでかかった。


「彼女は、口の利き方がまるっきりなってないんだよ」

「げ」

「事務方は、社内社外の要人への電話連絡役も担ってる」

「もしかして……」

「そう。彼女には、上下とか階級を区別する意識がまるっきりない。ホームレスだろうが大統領だろうが、みんな同列なんだよ」


 なんだよそれ。呆れるなー。


「ええと、課長。僕も礼儀作法に関しては人のことをとやかく言えるほどしっかりしてるわけじゃないですけど、お客さんや上司を怒らせるような口の利き方はしないように、いつも気をつけてます」

「ああ、みんなそうだと思う」

「それが出来てないってことですか?」

「そう。誰に対してもタメ口なのさ」

「社会人止めた方が……」

「俺もそう思うんだがな。まあ、いろいろあってな」


 俺が課長と話し始めた時に感じていた嫌な予感は、どす黒い不安になって俺の足元にどろどろと流れ込み始めた。


「えと。まさかと思いますけど、僕が彼女の面倒を見ろってことじゃないすよね?」

「ぴんぽーん」


 課長の間抜けな口ぴんぽん。でもそれは、ヘルハウスのドアベルが鳴ったみたいに俺の耳底に焦げ付いた。


「うそ……でしょ」

「嘘なんかじゃない。イッツアリアルワールド」


 変な横文字使いやがって! ちっとも笑えんわ!


「勘弁じでぐだざいよう。それでなくても、ここんとこはんぱなく忙しいのに」

「まあな。今の君の業務量を鑑みて、とてもこんなことを頼める筋合いじゃないのは重々分かってる」


 分かってないっ! 俺は入社して初めて本気でぶち切れそうになった。


「てか、課長。そういうビジネスマナーに関することって、人事課でやる研修案件じゃないんですか」


 俺は必死だった。社内の厄介者として誰もが持て余しているしょうもない女とセットにされた日には、冗談抜きに俺が干上がってしまう。同列視されたもんなら、いっしょくたにクビだよ。そんなでたらめなやつの巻き添えなんか絶対に食らいたくない! 俺は徹底抗弁して、ペアにされるのを防ごうとした。


 でも課長は、つらっと俺を突き放した。


「人事の連中がマナー研修の効果ゼロって匙を投げたから、蟹江さんに押し付けたんだよ。事務なら外部接点が小さいからどうにかなると思ったんだろ」

「どうにもなってないんじゃ……」

「そりゃそうだよ。ロボットと一緒に仕事してるならともかく、事務屋だってチームプレーだ。他のメンバーを怒らせたら、生きていけない」

「生きてるじゃないすか」

「上が上だからな」


 課長が、天井灯を見上げて顔を歪めた。


「あれじゃ、ロボットだって腹を立てるだろ。時代が時代なら、その場で銃殺だ」


 つーことは、課長にもタメ口を利いたってことなんだろなあ。いやいや、そんなことを気にしてる場合じゃない!


「そんな無礼なやつを、なんで外回り部隊のうちに持ってくるんすか! 営業先でお客さん怒らしたら、まじ死活問題ですよ?」

「分かってる」

「ええー!?」

「飼い殺しにすんなら、社史編纂室とか用務室付けとか、置き場所はあるのさ。でも、それで藻原専務が黙ってるわけないだろ?」


 課長が、両足をでんと前に投げ出してふてくされた。


「人事が放り出し、総務で干した。もう社内に置き場所はないんだよ。でも本人も親もそれに納得していない以上、おおっぴらにクビにするなら、何かやらかしたっていう誰もが納得する『事実』が要るのさ」

「それは分かりますよ。分からないのは、それを引き受けるのがなんで最前線のうちで、しかもぺーぺーの僕を巻き添えにするのかってことですっ!」


 ぷっちーん! もう我慢出来ん! 穏健派の俺にしては精一杯の声のでかさと表情で、怒りを表した。でも……俺が派手にぶち切れて見せても事態が変わることはなさそうだった。


「済まん。俺の一存でどうにか出来ることなら、何か打てる手を考えるんだが……こいつは社命なんだよ」


 嘘つけっ! 社長の娘だっていうならともかく、しょせん専務のコネやんか。何か? 社長が専務に何か弱み握られてるとかか? ありえんだろ!

 課長が汚れ役を俺に押し付けようとしているように、課長も上層部から厄介者を押し付けられたんだろう。おまえのところは人を欲しがってたよなって。でも、それとこれとは話が違うよ! 課長は俺に丸投げすりゃいいんだろうけど、俺はその最悪のババをどこに持って行けばいいんだよ。俺は、産廃の最終処分場じゃねえぞっ! くそったれえ!


 と。一応ぶりぶり怒ってはみたものの、もうライフゲージの残はゼロだ。やる気も抵抗する気もこれっぽっちも湧いてこない。


「分かりました。引き受けますよ」


 おやっという表情をしながら、課長がふっと顔を上げた。その面を全力でぶん殴りたい衝動を必死に抑えつける。


「その代わり、どうなっても知りませんよ。僕は最悪辞めりゃ済むことですけど、その子のヘマで社がどんなどでかい損害を被っても、僕は一切知りません。責任も取りません」

「おいおい」

「そうじゃないすか。僕にだけだばだば雑用を垂れ流しといて、僕が文句を言わなきゃそれでなんでも結果オーライなんですか?」


 僕にしては精一杯の嫌味をぶちかます。でも、どんな嫌味をぶっ放したところで業務命令はくつがえらないだろう。くそっ!


「こんなことなら、余計な予備知識なしでいきなりそいつを押し付けられた方が、まだずーっとマシだったです。僕にとっても社に取ってもね。知らなきゃ、僕なりに一生懸命対応できますから」


 ばかばかしい。ここで自己保身しか頭にないおっさんと押し問答しても、ただ消耗するだけだ。細貝さんはもうちょい部下思いの人だと思ってたんだけどなあ。そういうところも、俺はお人好し過ぎたってことか……。


「いいです。もうこの話はこれで終わりにしましょう。その人が配属になった時に、どう対応するか考えます」

「分かった」

「お先に失礼します」


 ぐえええっ。ミーティングルームを出た途端に強い吐き気に襲われた。食事の前に、とんでもない毒ワインを飲まされた気分だよ。





(アペリティーヴォとは、イタリア語で食前酒のこと)


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