示された道
眠りから覚めるというのは、どんなときでも一瞬のことだ。
その刹那に己の意思は存在せず、否応無しに現実へと引き戻される。
それがたとえ制御の効かないほどの痛みが、心へ伴った後のことであっても…。
眼が覚めたとき俺は、木の幹に全身を預けるようにして、柔らかい地面の上に足を投げ出していた。
ぼやけている視界。その数歩先に小川が流れているのが見える。
辺りは薄暗く、明け方なのか夕刻なのかはよく分からない。
ただ目下を流れた涙の痕は、まだ残っていた。
するとそのとき、背後の木々がガサと揺れる。
「やぁ、眼は覚めたかい?」
聞き覚えのある声がして振り返ると、そこに人がいた。
それはまだ記憶に新しい、白い髪に蒼い瞳をした女の人。
背の低い枝木をかき分け、出てきたのはアリアだった。
その懐には何本も小さな枝を抱えている。
「俺は…眠ってたのか。」
何があったかは何となく覚えていた。
アリアは荷物を川の手前に下ろすと、両手のくるぶしを腰に宛てがいこちらを振り返る。
「そうだよ。私がキミを担いで、命もからがら逃げている間にね。」
どうしようもないんだから、と言いたげに口先を曲げている。
「そっか…。」
あんなのことがあっても眠れるのだから、俺の神経は結構図太いのかもしれない。
そんな傷心に気持ちを沈めていたとき。
「アル!」
呼ばれ目線を上げたその瞬間、アリアの手から何かが放り出された。
ゆっくり山なりの軌道を描いたそれを俺は両手で受け取る。
それは赤色の果実。以前村の近くに生えていた似たようなのを食べたことがあった。
「食べなよ。そのうちクザが何か持ってくると思うけど、お腹空いてるだろ?」
お腹は空いていた。でも、食べる気なんて起きない。
「もちろん食べたくなければ、それでいいんだけどさ。」
俺が手元の果実を見つめているとアリアは腰のポーチから見たことのある紅い石を取り出す。地に膝をつけ、それを既に繰べてあった枝の上でカチと打ち鳴らすアリア。しかし何も起こらなかった。
「あれぇ、おかしいな。」
その後何度も、アリアは両手に持ったそれを同じように打ち鳴らしている。
「なにしてるんだ?」
何やら苦戦しているアリアに俺は聞いた。するとアリアはその作業にとりかかったままで。
「なにって、火を起こそうとしてるんだよ。ごめんだけど今日はここで野宿だから、ね!」
アリアが最後に躍起にとなったそれで、枝に火の粉が飛沫する。
それが枝へと着火しパチパチと音を鳴らして燃え始めた。
「ふぅ、やっとついたー。」
アリアは袖で頭を拭うと、持っていた石を再びポーチへと戻して。
…そういえば村の人たちが使ってたところを見たことがあったな。
俺はそのときの光景を思い出す。だが立ちどころにかき消してしまった。
いまあの村のことを思い出したくない、考えたくない。
でも遅かった。
俺が眠ってしまう前に聞いてしまったあらゆる言葉が記憶に蘇る。
俺は売られた、そして買われたんだ。
目の前にいるこの人に…。
そのとき一瞬アリアと合ってしまった目線を俺は慌てて逸らした。それから何故か俺をまじまじと視線を投じるアリア。気が落ち着かなくて適当に話を振った。
「…まだそこまで暗くないだろ。」
そんな自分でも関心の薄いことを聞きながら、考えていたことは1つだけ。
俺はこれからどうなるのだろう。
「うん、その通りだね。」
アリアはそう短くそう返事を返すと、俺の方へ歩み寄り。
「でも移動するよりまず先に、キミは心の整理をつけなくちゃならない。」
俺が座っているすぐ隣に腰を下ろして、静かに言った。
「アル。いくつかキミに、言い訳をしてもいいかな。」
アリアはその蒼の瞳をまっすぐ俺に向けていた。
聞きたくない気持ちとの葛藤があり、俺が答えに迷っていると。
「何かを許して欲しいとか、そういうことじゃないんだ。だけど聞くだけでも聞いて欲しい。その方がもしかしたらキミも、今より少しだけ前を向けるかもしれないから。」
虫のさざめき。
小川の水が流れる音。
パチパチと音をたて揺らめく炎が、アリアの横顔を照らしている。
俺は無言のまま頷きを返した。
するとアリアは安心したように頬を緩ませる。そして優しい声で言った。
「ありがとう。」
それから俺と同じように背を木の幹にもたれると。
「隠さずに言ってしまうとね、さっきキミが聞いてしまった通りなんだよ。私はキミを、お金で買ったんだ。」
打ち明けるようにしてそう言ったあとに間をとった。まるで俺に罵倒する機会を与えるかのように。俺が小さく返事を返すと、アリアは言葉を続ける。斜め上を見上げ、何かに懺悔をするように呟いた。
「いつか…、キミの心の整理がついたときに打ち明けるつもりだったんだ。あんな形で知らせたくはなかった…。」
この人はきっともう何も偽ってはいないのだと、そう思った。
それくらい俺は彼女に対して、一種の信頼のようなものを抱いていた。
アリアが俺にかけてくれた言葉や行動に、彼女の心を感じていたから。
するとアリアは改まったようにもう一度身体を俺の方へ向ける。
「でもこれだけは信じて欲しい。私はこの先何があっても、キミを物として扱ったりはしない。私とキミの間に隷属的な主従もありえない。私はアリアでキミはアル。それ以上でも以下でもない。」
アリアはまっすぐに俺を見ていた。語りかけていた。
それなのに何も返すことのできない自分が情けなくて。
「俺はこれから、どうしたら…」
「そうじゃない。」
間髪入れずにアリアは否定し、首を横に振る。
「キミがこれからどうしたいかだよ。」
そのうえで更に問いを返した。
俺がどうしたいか…。
そんなの…、分からない。
「もしキミが帰りたいというのなら私はさっきキミとした約束を果たそう。だけど…、できればキミをあの村へは返したくないんだ。」
義を重んじた言い回しのあと、アリアはそう本音をこぼすように言う。
それから少し迷うようにしたあと、意を決したように口を開いて。
「だから思い出して欲しい、私がキミを連れだしたときに言った事を。 …覚えてるかな?」
覚えてる。
どん底にあった俺の心を、唯一震わせたアリアの言葉。
それだけは聞いたそのときに、忘れないよう記憶に刻んだから。
「夢を手伝うって…」
「そうさ…!」
アリアは安堵したような表情で浮かべると、その場を立ち上がった。
「私はいま、クザや他の仲間たちとある組織を立ち上げようとしている。私たち魔導師とそうじゃない人たちが、何の蟠りもなしに手を取り合えるんだってことを証明するためにね。その夢を、キミにも手伝ってほしいんだ!」
手を取り合う…。
「それはあの村の奴らとも…?」
「そういうことになる。」
躊躇することなくアリアは言い切った。
それがアリアの夢、実現したいと言っていた世界。
「俺は…。」
…俺にそんなことできるのだろうか。
それどころかこの先、誰かを信じることができるかどうかさえ…。
「答えは今直ぐじゃなくてもいい。もうキミが知っているように、この世界には私たちに対する偏見や差別がある。今日より辛いことだって起きるかもしれない。長く険しい道のりになることは、間違いない。」
正面から俺を見下ろすようにして、アリアは続ける。
「でもそうじゃない人たちも、外の世界にはたくさんいるんだよ。私はまずキミに、そのことも知ってほしいんだ。」
「外の世界…。」
俺が再び顔をあげると、アリアはにっこりと笑ってみせた。
そして片手を膝につき、それとは逆の手を俺に差し伸べて。
「だからアル。私と一緒に、来てみてはくれないかい?」
アリアは再び、俺に答えを求めた。
それに今度はしっかり応えたくて、俺は初めて彼女の名前を口にする。
「アリア。」
「なんだい?」
眼が合った。だけどもう、それを怖いとは思わなかった。
「俺、役に立てるかな。」
さっきと同じ事を聞いた俺に、アリアは一瞬キョトンとした顔をする。
でもすぐに嬉しそうに顔を歪めて。
「当たり前だろ? キミは私の役に立ちたいと、そう願ってくれてるんだから!」
上へ伸ばそうとした俺の手を、すぐに掴みとってくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます