第14話 再生(前)

 昏い沼の底からゆっくりと浮かび上がる様に目を覚ました。

 視界が徐々に、蜂蜜色の光に彩られてゆく。

 完全に目を開ける。そこに映る光景は、見慣れた納戸の天井だ。 


 頭が重い。体中が痺れる。胸から腹にかけてずきずきと痛む。体を少し動かしたら、その痛みは激痛に変わった。真っ直ぐ上を向いて寝ていると多少痛みが和らぐので、人形の様な姿勢のままなるべく体を動かさないようにする。


 私、死ななかったんだ。


 重く渦巻く脳味噌から浮かび上がった感情は、喜びや感激ではなかった。

 なぜ、という、困惑と混乱だった。


 えーと、何があったんだっけ。


 咄嗟にロンを庇って、鬼に胸から腹にかけて斬られた。それが朝の出来事。

 治療師が匙を投げていた。ああ、そういえば大量の痛み止めを塗られたんだっけ。体中が痺れるのはそのせいなのか。治療師が話しているのを聞いたのは、夕方だったのだろう。既に鬼退治は終わっていて、自警団員達が納戸に何人かいた。


 えーとそして、ロンと二人きりになった時、私は「死んでもいい」と言った。あの時、納戸の中は茜色の光に満ちていた。

 ロンの肌から光が消えた。彼が時折、仄かに発光して見えたのは、あの抜ける様な肌の白さのせいだと思っていたのだが、そうではなかったようだ。

 どことなく世界から浮いた雰囲気を纏っていたロンが、世界に馴染んだ。

 でも、あの時、世界自体が変わっていた。


 そして、ロンが椿の花の涙を流し、魚の目をした男が現れ、そして……。


 駄目だ、訳が分からない。

 そういえばあの時の私、なんであんなに冷静だったのだろう。冷静というより思考が停止していたのか。もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 兎に角、一命はとりとめた。けれども傷が治ったわけではない。

 あんなに酷かった寒気は嘘の様に消え去っている。いや、むしろ、陽だまりにも似た柔らかなぬくもりに包まれている。だがそれ以外は凄くつらい。硬直状態も結構つらい。せめて動かせる部分だけでも動かそうと、顔を左に向けた。


 ああ、そうか。

 だから、陽だまりにも似た……。


「うわっ!」


 思わず叫んだ途端に激痛が走る。慌てて元の体勢に戻ったがもう遅い。痛みに耐えながら、私は自分の左側に意識を集中した。


 どどどどどうして、どうしてロンが、隣で寝ているんだ。


 私の声でロンが目を覚ましたらしい。少し動く気配がする。


「おおはようございます」


 天井を見ながら口から零れた言葉は、そんなありきたりな挨拶だった。この反応は多分間違っている。だが、様々な想いが溢れすぎて、今、何を言うべきか、何をするべきか分からない。


 ロンが動いた。体を少し起こし、私の顔を覗き込む。

 切れ長の大きな目が私を見つめる。

 

「ユニ」


 擦れた声で、私の名前を囁く。

 彼の指先が、私の頬に触れる。

 ひびの入った硝子細工を慈しむ様に、優しく、優しく頬を撫で、唇に触れる。


 ああ、そうだ。

 何故彼が隣にいるのか、なんて、どうでもいい。

 もっと、もっと、大事な事がある。私は彼の瞳を見つめ返した。


「ごめんなさい、心配をかけてしまって」


 頭を下げられないので、軽く首を動かす。あまりうまくは出来なかったと思うが、口元に笑みをたたえてみる。 


 私に触れていたロンの手が止まる。

 無言で首を横に振る。

 私を見つめる目が潤む。

 彼は私から顔を逸らし、口元に左手を当てて何度も咳込んだ。

 涙を誤魔化す様に。


 彼の咳込む音を聞き、ぬくもりに触れ、胸の傷の痛みを感じる。

 あぁ、私は生きているんだ、と思う。


 あの、椿の花から生まれた赤ん坊――かつてロンがその身を食べた人魚の生まれ変わりか――が、助けてくれたのだろう。何故かは分からないが、赤ん坊に触れられたことによって、魂が身体から抜け出さずに済んだようだ。

 あの子は、私を見て微笑んでいた。


 「生きている」という実感が、寒い夜にあたる暖炉のぬくもりの様に、体の芯からじゅわりと湧き上がる。

 私は、生きているんだ。

 生きている。

 そして。


「ねえ、ロン。あの呪いは?」


 私が一命をとりとめた事によって、ロンの呪いが解けなかった、なんて事にはなっていないだろうか。私の言葉を聞き、ロンは自分の左腕の袖をまくった。

 腕に貼られた湿布の下には、昨日、私を庇って出来た傷があった。


「この傷、昨日の夕方に見た状態から殆ど変化していない」


 ロンは湿布と袖を戻し、私の額に手を置いた。


「一度怪我をしたらすぐには治らない。もう、無理をしたらだ」


 そして、柔らかく微笑む。


 この人は、八百年の呪いが解けたというのに、どうしてこんなに穏やかなのだろう。


 自分の額に置かれた手の感触を心に抱き締める。そして私もゆったりと微笑む。


 自分が死ななかった事も。

 ロンの呪いが解けた事も。

 すごく嬉しいのに、飛び上がって喜んだり、大声で騒いだりしない。

 ひたひたと魂が満ち、互いの間にあたたかな空気が巡る。私達はその中に身を浸し、静かに、でも貪るように味わい合った。


「体、動かせないのか」


 不自然な硬直状態が気になったのだろうか。私が頷くと、彼は体を起こし、私が真っ直ぐ彼の顔を見られるよう、腕を支えに覆いかぶさる様な体勢をとった。

 間近に迫る端整な顔やあたたかな体温に、心の臓が傷を突き破らんばかりに大きく動く。


「ユニ」


 ロンは懐から、血や泥で汚れた私の帯締めを取り出した。


「俺はいつも、ユニに支えられて、助けられて、生きている。そして今、『死ねる命』まで貰ってしまった」


 目を伏せる。すっきりと伸びた睫毛が揺れる。


「すまない」


 帯締めを持った手の指先が唇に触れる。


「ありがとう」


 触れられた唇が火照る。私は彼を見つめた後、そっと目を閉じた。

 彼の顔が近づく気配がする。


「んん」


 その時、納戸の入口から、野太いしわぶきが聞こえた。

 私の顔の前から、急速にロンの気配が遠ざかる。


「ロン、おめえにはつくづく幻滅したぞコラ。そりゃユニが無事だったのは良かったよ。お前らが惚れ合っているのは皆知っているよ。だけどよ、酷え怪我した女を押し倒して、朝っぱらから帯締め解く様な真似をするたぁ、どういう了見だ。おいロン、そこになおれ。天に代わって成敗してくれる」


 納戸の入口には、険しい形相をして剣に手を掛けたカンが立っていた。


 **


「いってえなあ畜生。俺が悪いのかよ。ちげえだろ。誤解をされる様な真似をしたお前が悪いんだろ。なんなんだよ一体。それにおぼこ娘じゃあるめえし、たかが接吻の現場を見られたくらいで平手打ちとか」

「黙れ!」


 ぶつぶつと余計な事を言うカンに向かってロンが怒鳴り散らしている間に、自警団員達が詰所に集まり出した。詰所の様子は見えないが、今日は常勤以外の団員達も来ているらしい。

 彼らの仕事が始まる前に、カンから少しだけ昨日の話を聞いた。


 昨日の夕方、納戸から私達の話し声が聞こえなくなり、不思議に思った団員の一人が覗いたところ、私達は揃って眠っていたそうだ。

 眠る、というより気絶していたらしい。声を掛けたり揺すったりしても全く起きなかったので、ロンを私の隣に寝かせたという。

 治療師は、脈も呼吸も落ち着いた私を見て、奇跡的に山を越えたと判断し、帰っていった。その後、団員達も帰り、一晩経った、という事のようだ。


「昨日は取り乱したり眠ったりして申し訳なかった」


 団員達が揃ったのか、ロンが話を始めた。


「皆、昨日の昼前まで続いた鬼退治で疲れていると思う。だが取り敢えず奴らを追い払うことは出来たが、これで終わったわけではない。犠牲になった方もいるし、村の被害は甚大だ。やらねばならない事は沢山ある。俺達の戦いはこれからだ」


 納戸の扉は開けられたままなので、詰所での話がそのまま聞こえる。私は寝床で昨日の顛末を聞いていた。


 事前の対策が功を奏し、私のミ村や隣村の様な事になるのは免れたが、やはり被害は大きかった。


 非常勤の団員や奉仕団員で数名、命を落とした人がいた。

 現在、重体の人もいる。今後、犠牲者が増えるかもしれない。

 常勤の団員で命を落とした人はいない。だがリクの腕の傷は深く、今後動かすことが出来ないらしい。

 彼はロンの引き留めを拒み、自警団を去ると決めた。


「ありがとうな、ロン。でも、親の店を継ぐっていうのは、昨日アイにも言ったんだ。確かに稼ぎは激減するけどよ、これじゃあ前みたいに剣や弓も使えねえ。ま、子供に『勇ましい自警団員の親父』の姿は見せられねえけど、『潔い呑屋の親父』の姿は見せられるからいいかなって」


 不自然に明るく一本調子なリクの言葉を受けて、更に引き留めをするような人はいなかった。

 自警団を去る。それが彼にとって、腕の傷以上に心を抉る決断であることは、皆、分かっているのだろう。


 **


 話題は犠牲者の件から、村の建物や土地の被害に移った。やはり一番被害が甚大だったのは、ユウの集落だ。


「当分普通の生活は出来ないよ。一応役所から再建に必要な金は用意してもらうことになっているけれど、俺が予測していたより大変な状態でさ。畑なんかめちゃくちゃで、農家の今後の生活どうしよう、って感じだ」


 ユウの話によると、集落は穴と瓦礫と鬼の死体で壊滅状態らしい。


「住民だけで集落を元に戻すのは無理だろう。役所とも相談して、被害の少ない集落から人を呼んで作業させよう。ユウ、賃金については役所と詰めてくれ。不足分は自警団でまかなう。我々側の金銭に関する事は、その他、村全体の犠牲者家族への弔慰金、避難場所として宿や家を解放してくれた人への謝礼、あとは……ああ、了解。ユウに任せるから早急に概算を。額は幾らになってもいいから足りなくなる事だけは避けろ。それと鬼の死体の処分だが」

「おー、大きく出たな。まさかド吝嗇ケチのロンの口から『額は幾らになってもいい』なんて言葉が出て来るとは思わなかったぜ」


 団員の一人が冗談めかした声でそう言うと、何人かの笑い声が聞こえた。


「俺は吝嗇じゃない。無駄遣いが嫌いなんだ」


 いつもの様にむきになるのでもなく、笑いに乗るでもなく、ロンは静かに言葉を返した。


「我々の地位と報酬は、村民の好意と信頼から成り立っている。であれば村に何かがあった時、彼らの為に働き、持てるものを還元する。それが我々のような立場の者の義務であり、責任だろう」


 へえ、なんだかちょっと意外だ、いい意味で。


 ロンが吝嗇なのは、単に、昔、経済的に苦しかったからだと思っていた。確かになかなかものを捨てない所などは、そのせいなのかもしれない。

 だが彼がいちいち「吝嗇じゃない、無駄遣いが嫌いなんだ」と言い返していたのは、からかわれるのが嫌だから、というだけではなかったのだろうか。


「俺らの立場の義務と責任、か。格好いいこと言うなおめえ

「別に俺が考えた訳じゃない」


 カンの言葉に、ロンは暫く間をあけ、低い声で答えた。


「子供の頃、父に、そう教わった」

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