第13話 椿
微かな
鈴の音が聞こえる。
暗闇に落ちかけた視界が少しずつ広がっていく。冷えや痛みは、体の少し離れた所で感じている。魂だけが薄紙一枚隔てた所に浮かんでいる様な、奇妙な感覚に襲われる。
茜色に染まった室内は、
仄かに発光していたロンの肌から光が失せる。白く滑らかな肌の質感はそのままだが、あの、どこかこの世から浮き上がった様な独特の光が消えたのだ。
「……そうか」
ロンは呟き、私を見た。そして頭を、そっと撫でる。
穏やかな微笑みを口元に、湖の底の様に揺れる涙を目元に
「俺も、いずれ後を追うからな」
語尾を震わせ、そう言って少し俯いた。
後を、追う?
口を動かそうとしたが、出来なかった。だが私の表情を見たのか、ロンには通じたようだ。私の頭を撫でながら、囁く様に語り掛ける。
「俺にかかった永遠の命の呪いを解く方法が、ひとつだけあった。それが」
頭を撫でる手が止まる。
俯き、体を震わせる。
何かに耐える様に。
「自らの愛する者から、命を犠牲にするほどの愛情を、受けること」
ロンは寝台に突っ伏し、拳を握り締めた。
拳に血管が浮き上がり、紅く染まってゆく。
また
微かな
鈴の音が聞こえる。
「この呪いは俺の愚かしい罪の報いだ。愛する者の命を犠牲にする位なら、永遠の命など、幾らでも受け入れる。そう、思っていたのに」
――呪いを解く術はなくはない。でもネ、それを望むということは、人であることを捨て、鬼になることを意味します。
以前、ロンが語っていた、魚の目をした男の言葉が甦る。あれは、そういう意味だったのか。
だとしたら。
ロンは、八百年にわたる地獄から、漸く抜け出せたのだ。
呪いが解けたのなら、これからは普通に老いていけるのだろう。だったらもう、この村から出る必要もない。
ロンには、この村の人達と一緒に、残りの人生を歩んでいって欲しい。
もしそれが叶うのならば、それこそ、私の命が犠牲になっても構わない……。
「死ねない事は苦しかった。だが、俺にとっての本当の地獄は」
握り締めた拳が震えている。
言葉に詰まる。
私を見据え、口を開く。
「ユニの命を犠牲にして、ユニのいない世界を、生き続ける事だ」
――
ああ。
私は、本当に愚かだ。
愛情を捧げる事ばかり考えて、自分に与えられた愛情に、深く想いを馳せる事が出来なかった。それがどんなに残酷な事なのか、分かっていなかった。
だが、もはやそれを伝える
**
気がつくと、納戸の中から書類棚や荷物が消えていた。あるのはただ、一面の茜色の光。その中で、ロンの姿だけがくっきりと見える。
私は、なぜかそれをごく自然に受け入れていた。
彼は私だけを見ている。もしかしたら、この光景の変化に気付いていないかも知れない。私は声を掛けようとしたが、やはり口を開く事が出来なかった。
「ユニ」
ロンが囁いた。澄んだ瞳は涙で滲み、すっきりと伸びた睫毛は濡れて揺れている。
「
右手が私の頬を撫でる。
私を見つめ、息を呑み、唇を開く。
だが、その言葉は喉に詰まり、私の耳には届かなかった。
彼の睫毛が震える。目を伏せた時、透き通った涙が一筋、頬を伝った。
零れた涙は頬を伝い、
寝台の端に
はらりと落ちた。
はらりと
落ちた。
彼の涙が落ちた所を見ようと顔を動かしたが、動かない。視線を下に向け、なんとか寝台の端を見た。
どういう、こと?
ロンは目を伏せたまま動かない。彼は気付いていないようだ。
再び涙が溢れる。その涙はロンの頬を伝い、雫となって滴り落ち、
白い
はらり、はらりと、涙は落ちる度に、厚みのある白い花弁に姿を変える。
二枚、三枚、四枚。
花弁は、仄かに発光している。
ロンは目を伏せて涙を流した後、両手で顔を覆って深く息をついた。
顔から両手を離す。そしてその時、初めて彼の視線が白い花弁に向いた。
濡れた瞳で花弁を見つめる。花弁にゆっくりと右手を伸ばす。
右手が花弁に触れかけた時、頬を伝っていた涙の一滴が、顎から寝台の端に滴った。
それは一枚の白い花弁に姿を変える。
ロンは驚いた様に手を引っ込めた。
花弁は、茜色の光の中、白い輝きを増してゆく。
花弁が震えながら立ち上がる。互いの体を重ねる様に寄り合い、纏まってゆく。
固く、ちいさなひとかたまりになる。それが軽く揺れたかと思うと、ほっと息をつく様に広がり、
一輪の、白い椿の花に姿を変えた。
**
「オヤ、こんなに早く、この日が来るとは思いませんでしたナ」
茜色の光の向こうから、誰かが歩いて来た。
ロンと私以外、一面の茜色だった世界の中に、もう一人、姿を現す。
それは、小柄な年配の男だった。「龍一郎さん」が着ていた様な、前合わせの長い服を着ている。後ろに手を組み、薄い笑みを浮かべて、ゆっくりと滑る様に歩いて来る。
初めて見る顔。だが、彼の魚の様な目と唇を見て、私は彼が誰なのかに気付いた。
「あなたは」
ロンは顔を上げ、男の姿を認めるや身を引いた。
男は寝台の傍らに立った。ロンの方に顔を向け、魚の様な唇を、にい、と広げる。
「お前さんは、とんだ果報者ですナ。供物を盗み食いする様な性根の持ち主の分際で、こんな綺麗な娘さんに、命を掛けてもらうなんて」
ホ、ホ、と嗤う。
男は、唇を噛んで俯くロンから、寝台の上で光る椿の花に視線を移した。
「長寿を乞う幾人もの体の中で、千年の時を経た後、生まれ変わる。それを台無しにされたと思ったんですがネ、こちらの娘さんの命と引き換えに、この子は二百年も早く生まれ変わる事が出来る。お前さんも、この子も、娘さんには頭が上がりませんナ」
男は身を屈め、椿の花を取って自分の掌の上に乗せた。彼が近づいた時、魚に似た独特の臭いがした。
「サア、
男はそう言って、両手で持った花の上に息を吹きかけた。
花は人間の赤ん坊に姿を変え、
男の腕の中で、ほぅあぁ、と泣いた。
昨夜見た、アイの子供と同じ位の大きさ。肌は赤く皺があり、手足が細い。
生まれたばかりの赤ん坊の姿だ。
「坊、どうかナ、二本の脚は」
赤ん坊はひとしきり泣いた後、少し体を動かし、男の方へ顔を向けた。
そして幼児の様な声で喋り出した。
「やっぱり良いよ。やっぱり良い。ぼくはにんげんになったんだね」
手足をぱたぱたさせて喋る赤ん坊を見て、男は少し眉を顰めた。
「本当に、いいのかい? 今ならまだ間に合うヨ。人間は数十年しか生きられない。しかも、坊、近くで嫌と言う程見ただロ? 人間という生き物は、この男の様に、生きる為なら罪を犯し、
「ううん、
赤ん坊は、ロンの方へ顔を向けた。目を閉じた顔で、ロンを見ている。
「このひとのたましいはきれいだよ。ただ、ぼろぼろにすり減っているだけさ」
赤ん坊は、
「ああ、どうしよう。この人のたましい、はんぶんくらい外に出ているよ」
男は私の胸元を見、愉快そうに魚の唇を吊り上げた。
「もう、無理だろうネ。可哀想に、あんな人間同士の諍いと、こんな男のせいで、花の盛りの命を散らしてしまうとは」
ホ、ホと嗤う。ロンが
「ねえ、爺。ぼくにはまだ、人魚の力はあるの?」
「ん? 坊はまだ人間として生まれていないから、姿が変わっただけでまだ人魚だヨ」
男の言葉を受けて、赤ん坊はぱたぱたと手足を動かした。
「よかったぁ。じゃあ、爺、最後にちょっとだけ、この人に恩返しをしたいんだ。ねえ、いいだろう? いいだろう?」
赤ん坊を見て、男は困ったように首を傾げた。
「坊は、優しい子だネ。人間なぞに情けをかけるとは」
「情けじゃないよ。恩返しだよ。ねえ、ちょっとだけなら、ぼくを供えたかみさまだって、赦してくださるよ」
ねえ、ねえ、と言いながら体を動かす。男はひとつ溜息をつくと、赤ん坊を私の方へ差し出した。
赤ん坊は目を閉じた顔をこちらに向け、細くてちいさな腕を私の方へ伸ばして来た。
ちいさなちいさな手が、私の胸元に触れる。
そして赤ん坊は目を開き、私を見て、微笑んだ。
「坊は、優しい子だネ」
男は、さっきと同じ言葉を赤ん坊に言った。
「サア、行こう。坊は八百日を経た後に、人間として生まれ変わるからネ。優しい子は人間の世では生き難い。だから少しでも生きやすいよう、良き
赤ん坊は、男の胸をぺちぺちと叩いた。男が赤ん坊に顔を近寄せると、何かを話す。
男は溜息をつき、微笑んだ。
「では、お二人さん、さようなら。儂と会う事は、二度とないでしょうナ」
赤ん坊を胸の前に抱き、軽く頭を下げる。魚の様な目を細め、私達を見、後ろを向く。ゆっくりと、滑る様に遠ざかっていく。
もどってきて。
赤ん坊の姿が男の背に隠れた時、私の心に、なぜかその言葉が浮かんだ。
男は滑る様に遠ざかっていく。
茜色の光の中に、溶け込んでいく。
男の服の長い裾の下で、蒼い尾鰭が、ぴちりと跳ねた。
**
私とロンは、遠ざかる二人の姿を、見えなくなるまで見つめていた。
そして二人の姿が消えると同時に、視界は一転、闇に閉ざされ、深い沼の底にゆっくりと落ちていく様な感覚を覚えた。
昏い沼に落ちる。
ゆっくりと、どこまでも。
闇の中に落ちながら、私はあの二人の姿を思い浮かべていた。
蒼い尾鰭を持った男。
菫色の瞳を持った赤ん坊の姿を。
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