第12話 地獄
納戸を出た途端、
詰所周辺だけでなく遠くの方でも鬼が暴れているのが見える。
何十頭いるのだろう。今、動ける自警団や奉仕団の人達は十人ちょっとだ。幾ら相手が手負いの鬼でも、明らかに不利なんじゃないか。
地下室に逃げようと戸のある床に屈んだ時、扉の壊れた入口に向かって鬼が走って来るのが見えた。
詰所の目の前まで来る。だがどこかから飛んできた矢に当たり、そいつは大きな音を立てて倒れた。
駄目だ、今、地下室に入れない。
扉のない入口から、詰所の中は丸見えだ。いつの間にか扉自体も壊れている。もし、私が地下室に入る所を鬼共に見られてしまったら、中に避難している人達が危ない。
耳を澄ます。微かに悲鳴や話し声、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
騒がしい外にいれば、それらの声が鬼共に聞こえないのは分かる。だが地下室内ではきっと、自分達が発する声で鬼共に見つからないかと怯えている事だろう。
けれども今の私にはそれにかまう余裕はない。納戸に取って返し、自分の刀を手に取る。
「何やっているんだよ、早く隠れて!」
ユウが叫び声を上げた時、入り口から一頭の鬼が入って来た。
巨大な体躯で室内を圧倒する。手にした鉄棒を振り回し、机の上に置かれたものを薙ぎ払う。面を被った顔をユウの方に向け、突進する。
ユウは鬼から顔を逸らして滅茶苦茶に刀を振るった。だが刀は鬼の鉄棒に当たって、あえなくユウの手から落ちた。
「てめえ、よくも!」
いつの間にか私の背後に回っていたユウのお父さんが、私の刀をひったくって鬼に突進した。ユウに気を取られていたらしい鬼が一瞬身を引く。刀身が閃き、鬼の腹を掠める。態勢を立て直した鬼は刀を
鬼が再びユウに顔を向ける。腰を抜かした彼は落とした刀を拾おうと床を這う。鬼が一歩前に出る。お父さんが鬼に当て身を食らわせる。びくともしない。鬼は何かを叫び、もう一歩前に出る。
だが、鬼はそこで歩を止め、ゆっくりと膝をつき、
鬼の背に刺した刀を、ロンはゆっくりと引き抜いた。
「ユニ! なんでまだここに」
ロンはそう言いかけ、詰所の入口に目をやって言葉を切った。地下室に隠れたくても隠れられない状況を察したのだろう。彼は腰を抜かしたままこちらを見ているユウに刀を渡して言った。
「これを持て。得手不得手を云々している場合ではない。何としてでもここを守り抜くんだ。分かっているだろう?」
ロンが地下室に続く戸に目を向ける。ユウとお父さんは顔を見合わせ、頷く。私はせめて少しの間隠れられればと、台所の方へ向かった。
この時、私は動転していて、自分の刀の事を忘れてしまっていた。
**
詰所の台所は、普通の民家より少し広い。その割に鍋釜や貯蔵品が少ないので、隠れられる場所があまりない。仕方がないので、勝手口の傍の調理台の下に潜る。
ふっと小さく息をつこうとしたが、上手く吐き出せない。
息を吸う。
吸い込んでも、吸い込んでも、空気が体に入って来ない。
胸が空気を求めてもがく。苦しい。苦しい。額に汗が浮かぶ。床に手をつき、体を丸める。
どうして。この一晩、ずっと大丈夫だったのに。落ち着いて。これは気のせいだ。ゆっくりと呼吸を整えて。出来ない。苦しい。どうして、どうして空気が入って来ないの。鬼が来る。怖い。怖い。胸が潰れる。燃え盛る詰所、のしかかる死体の重み、鬼の姿、叫び声、鬼の饐えた臭い、饐えた……。
近くに、鬼がいる。
鼻から僅かに入った空気が、鬼の臭いを私の鼻腔に運んで来た。胸を押さえ、顔を上げる。
開け放たれた勝手口から、鬼が一頭、屈みながら入って来るところだった。
面の奥の目と、目が合う。
潰れそうな胸を抱え、調理台から這い出す。
叫ぶ。背後で鬼が声を発する。台所から飛び出す。脚が
硬い革を何重にも巻き付けた、頑丈な深沓の足音。
後頭部に、飛沫が掛かる感触。
背後で、鬼が叫び声を上げた。
鬼は、自分を斬りつけたロンに向かって巨大な剣を振り上げた。ロンが私を突き飛ばす。私を突き飛ばした彼の左腕を鬼が斬りつける。腕を斬られながら、ロンは何事もなかったかのように刀を持ち直し、鬼に向かう。
目の前の鬼が斃れる。するとすぐにまた別の鬼が向かって来た。ロンは私を庇う様に立ち、雄叫びを上げて刀を振りかざす。
地獄、だ。
鬼の胸を斬りつけるロンを見て、思う。
ロンにとって、生き続けるこの世は地獄だ。
子供の頃に聞いたことがある。遠い昔の伝説。
地下の奥深くには、生きていた時に悪事を働いた者が行く、「地獄」という世界があるという。
そこに堕ちた者は、「鬼」と呼ばれるものに呵責を受ける。けれども体はすぐに再生し、再び呵責を受けることになる。それを、魂が生まれ変わるまで何度も繰り返すのだそうだ。
だが、ロンの生きる地獄には、終わりがない。
「ユニ!」
返り血と、自らの血で染め抜かれたロンが私に駆け寄り、地面に押し倒した。すぐ後ろに迫った鬼の鉄棒が彼の背中を掠める。私を地面に押し付け、自らの背中を盾にする様に覆いかぶさる。
乱れた呼吸が私の頬に掛かる。体中が裂け、
もう、やめて。
私達を襲っていた鬼は、誰かが射てくれた矢に斃れた。ロンは私の体の上からゆっくりと起き上がる。私の着物に、ロンの血が滲み込んでいる。
彼は荒い息の合間に、柔らかく微笑んだ。
もう、やめて。
私はいつも、あなたの流す血の下で生きている。
私はいつも、彼を苦しませる。守ってもらい、庇ってもらい、彼の流す血と汗の下で、毛織物の着物を纏い、生きている。
もう、彼を苦しませたくない。私のせいで、血を流させたくない。生き続ける地獄の中で、せめて少しでも、彼を苦しみから救う盾になりたい。
なのに私には、何も出来ない。
ロンと一緒に立ち上がる。彼は刀を杖にし、私の肩を借りて
肩を掴む彼の手が微かに震えている。苦痛のせいか、痛み止めの毒のせいか。この体で、尚も戦うつもりなのか。
一頭の鬼が正面から走って来た。ロンは私の肩から手を離し、刀を持ち直す。軽く顔を動かし、自分の背後に回れと促す。刀を構え、殺気を
その彼の背後から、別の鬼が迫って来た。
そいつが剣を振り上げる。ロンが半歩前に出る。
私は叫び声を上げ、咄嗟に彼の背中の前に、両手を広げて立ち塞がった。
体に
熱が走り
視界が
赤く染まる。
・・
・・
・・
あつい。
あつい。
いや、寒いのかもしれない。
体の表面に熱が走っているのに、体の奥はどんどんと冷えていく。
頭の中身が、ゆっくりと掻き混ぜられる。
どこかから、声が聞こえる。
――無理って どういう事だ!
――落ち着け 落ち着くんだ
――申し訳ない 本当に申し訳ない だが私の力ではもう どうにもならない
――血なら俺のを幾らでもやる だからユニの体の中に入れてくれ
――何を訳の分からない事を言っているんだ そんな事出来る訳ないだろう
――なんで又痛み止めを使うんだ そんなに塗ったらユニの体に悪いじゃないか
――あのな ロン 私の話を聞いてくれ
――ほら 聞いてくれって言っているだろロン 治療師に掴みかかるな
――あのな 私が今 出来るのは 痛み止めでユニの苦痛を取り去る事だけだ
――痛み止めは体に悪い だが 彼女はもう 長くはないんだよ
**
真綿の隙間からゆっくりと落ちる様に目が覚めた。
私は納戸の寝台に寝ていた。辺りには薬草の匂いが満ちている。視線を動かすと、私の周りに、治療師と自警団員数人、そしてロンがいた。
「ユニ」
ロンは震える声で私の名前を呼び、寝台の脇に屈みこんだ。口元だけの微笑を浮かべ、私の頬を撫でる。カンが治療師や自警団員達に何か声を掛けると、彼らは黙って納戸から出ていった。
「どうだ、傷は痛むか」
ロンは私の胸元のあたりに手をかざした。私は首を横に振り、微笑む。だが、首が振れたか、微笑めたかはよく分からない。
納戸の中は、深い茜色に染まっていた。
今は夕方なのだろうか。殆どの傷が癒えたロンの白い肌は茜色の光の中で仄かに発光している。彼は私の手を取り、大きな両手でそっと包み込んだ。
「すまなかった」
両手に力が入る。額に手を押し付け、俯く。私の手を包み込む彼の手は、微かに震えていた。
私は彼を見つめ、口を開いた。話をしようとするのだが、声が喉に引っかかってうまく発音が出来なかった。
「おには、たいじしたの?」
彼は私を見つめ、頷いた。
「よかった」
私が鬼に斬られた後、自警団員達は鬼を退治し終えたのだろう。私は微笑もうとしたが、頬がうまく動かなかった。
「ユニのおかげで、詰所に避難していた人達は全員無事だった。俺達は鬼に壊滅的な被害を与えることが出来た。恐らく、奴らは当分、この村を襲う事はないだろう」
ロンはそこまで一気に言うと、再び俯いた。
そして絞り出す様に言った。
「俺を、庇ってくれたのか」
胸元に手をかざす。彼の菫色の瞳が潤んで揺れている。
「何故だ。俺は、死ななかったのに」
首を横に振ってみる。手を伸ばし、彼の頬に触れる。
「ロンは、しねないから」
体がどんどん冷えていく。寒い。寒い。唇が、うまく動かない。
「くるしませたく、なかったの。だって、おににきられても、しねなくて、なんどもきられるのなんか、じごく、みたいで」
「斬られた傷は治る。怪我の苦しみはいずれ終わる。俺はこの地獄にはもう慣れたんだ。そうじゃない。そうじゃないんだ。俺にとっての本当の地獄は、ユニの」
彼はそこで言葉を切り、私を毛布の上からそっと抱き締めた。彼のぬくもりが、鬼に斬られた傷口からじゅわりと滲み渡る。
ふわり、と魂が幸せに満たされる。
「ねえ、ロン」
彼は私を抱きしめたまま顔を向けた。
「もう、けが、くるしくない?」
彼は何度も頷いた。それを見て、私の心があたたかくなる。
「よかった。あのね、ロンが、くるしまないですむんなら」
ああ、なのに、どうして私の体はこんなに冷えるんだろう。
視界が狭くなる。彼の顔がよく見えない。
もっとあなたが見たい。もっとあなたと一緒にいたい。でもどうやらそれは無理みたいだ。
でも、いい。もしも私の命が、彼を苦しみから救う役に少しでも立ったのなら。
だから。
「わたしね」
私は、暗くなる視界の中で、ロンの姿を目に焼き付け、ぬくもりを抱き締め、微笑んだ。
「しんでもいいわ……」
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