第11話 本心
窓の外を見ると、空の色が漆黒から深藍色に変わっていた。
少しずつ、この忌々しい夜が溶けて消えていく。
扉の壊れた詰所の中は、氷で覆われた様な冷気に包まれている。
自警団員や奉仕団員達がぱらぱらと持ち場から戻って来る。怪我をしている人は地下にいる治療師の世話になり、動ける人は詰所周辺の鬼退治に出掛けた。詰所に水がなかったので、私は隣家に水を貰いに走った。
外の様子が少し見える様になってきた。時折、通りを鬼が歩いている。
だが、奴らの足取りに力はない。水を取りに行った帰り、前屈みに歩いていた鬼が、道端で倒れてそのまま動かなくなったのを見た。
「枯れ井戸みたいな小さな出口を目の前で塞がれて、慌てて大きな出口から出ようとしたところを叩かれて、これで鬼共も懲りただろ。当分はこの村を襲う事はない、って信じたいね」
ユウは白い息を吐きながら、既に鬼退治が完了した様な口ぶりで、そんな事を言った。
「そう、ですね。明日からは、ユウ、大忙しですね。まずはユウの集落の穴を」
彼の口調に合わせて会話を進めようと思ったが、出来なかった。
カンの話によると、いつもの鬼の巣の入口は現在塞がれているから、そこから鬼が出て来ることはない。仕掛けの動かなかった枯れ井戸から出て来たとしたら、もっと威勢よく暴れ回っているだろう。
今ここを歩いている鬼共は、ユウの集落の穴から出て来て、自警団の攻撃を潜り抜けた、ということか。
頭を振り、ユウの視線を避け、水を持って地下室に戻ろうとした。
その時、窓に何かがぶつかる音がした。
窓の外を見る。面を被った鬼の顔がぼんやりと浮かび上がる。
ユウや詰所にいた団員が刀に手を掛けた。
だが、窓の外の鬼は、そのままずるずると崩れ落ち、窓に赤黒い血の筋をつけて視界から消えた。
ユウは長い溜息の後、窓の扉を閉じた。
「なん、っだよ。驚かせやがって。ユニ、この騒動は多分もうすぐ終わるから、地下室で待っていて」
**
地下室の中の空気は、苛立ちと籠った臭いで潰れそうに重かった。
目を覚ました村民達は、狭い地下室に押し込められているという心の負荷のせいで、皆、苛々していた。ちょっとしたことで罵り合い、小突き合う。
そこに傷を負った自警団員達の呻き声が被さる。彼らが横になることにより、室内は更に狭くなった。その事に、露骨に眉を
室内の雰囲気にいたたまれなくなって、私は治療師に声を掛けた。
「あの、上の詰所の部屋なんですけど、もう自警団の人達が出入りしていますので、怪我の軽い人は、上で私が手当てすることにしましょうか。傷口を切ったり縫ったりは出来ませんが、傷を洗って薬を塗る位なら私でいいかなあって」
命懸けで戦って傷を負って戻って来たのに、そこで村民に舌打ちをされたりしたら堪らないだろう。私は脚を痛めた非常勤団員に肩を貸して狭い階段を昇った。
「ユニ、一晩大変だっただろ」
団員の言葉に私は微笑んだ。
「そんな事ないです。皆さんのおかげで鬼の被害が殆どありませんでしたから。本当にありがとうございます」
私の言葉に、彼は何故か眉を顰めた。
「あのさ、俺、ユニと話すの初めてだけど、えーと、あの、あんた、いつもこんな感じなの?」
「こんな、って、あ、今、何か失礼な事言っちゃいましたか?」
「違うよ。なんつーのかな、いや悪いことじゃないんだろうけどさ」
彼は詰所の椅子に座り、傷ついた脚を押さえながら息をついた。
「さっきからあんたを見ているとなんか気が休まらない。一生懸命過ぎて、頑張り過ぎて、見ているこっちの肩が凝って来る。まあ、今はこんな状況だからそうなっちゃっているだけなんだろうけど、もしいつもこんな感じだったら、なんかなあ、って思う。あ、別にこれ、俺の個人的な好みだから気にしないで。ここまで良くしてもらっているのにごめん。ただ俺だったら、ちょっと我儘かなって位、自分に素直な奴の方が、一緒にいて楽なんだよね」
**
扉の隙間から覗く空が、少しずつ明るくなる。
雀が無邪気な声で啼いている。もうすぐ朝を迎える。
地下に棲んでいるせいなのかどうか分からないが、人間より鬼の方が暗がりに強い目を持っているのではないか、という説がある。
もしそうなら、夜という鬼にとって有利な時間が過ぎれば、その辺をうろついている傷ついた鬼共など、一網打尽に出来るのではないか。つい、そんな楽観的なことを考えてみる。
だが、それには、ある程度の人数の自警団員が必要だ。流石にその位は分かる。
ロン達は、まだ帰って来ない。
いくらなんでも、遅過ぎないか。
不安が魂を押し潰す。その不安を押し潰し、目の前にいる自警団員の手当てに集中する。
泣くな。動転するな。微笑を
地下室の様子を窺う。愚痴を言う人に耳を傾け、つらい思いをさせて申し訳ないと詫びる。子供をあやし、お年寄りの腰をさする。
詰所は私が守る。そう約束したんだもの。だから一生懸命頑張るのなんか、当たり前だ。
心配だよう。
早く帰って来てよう。
アイが私の顔を覗き込んだ。
「ユニ、泣いているの?」
私は自分の頬が濡れているのに気が付いた。慌てて両目を手で
「あ、ご、ごめんなさい。違うんです。今、
いけないいけない。アイに無駄に心配させてしまう所だった。私は汚れた
**
戸を開けた途端に、外から蹄の音が聞こえ、壊れた扉を倒してリクが転がり込んで来た。
「戦える奴は全員外に出ろ! 鬼が来るぞ!」
扉の上に転んだリクは、そう叫びながら立ち上がった。
左腕を押さえている。不自然に垂れ下がった左腕からは真っ赤な血が滴っている。
いつの間にか、血の色が赤く見える程、外は明るくなっていた。
「鬼!? 俺の集落をぶち壊した奴らの生き残りか」
「そうだ。取り逃がした奴らが、数十頭まとめてこっちに来る。あれを全部ぶっ殺して、この騒動をさっさと終わらせようぜ」
崩れ落ちる様に椅子に座り込んだリクは、肩で息をしている。腕の怪我が酷そうだ。
「いってぇ……。シュ、シュウや奉仕団の奴らなんかは、今、穴を壊す作業に入っている。で」
「分かった。取り敢えずお前、地下室行けよ。治療師もいるし、そんな傷の痛みなんか吹っ飛ぶのが待っている」
ユウに促され、リクが立ち上がった。
鬼が来る。なのにシュウ達は穴を壊す作業をしているのだから、ユウの集落から湧いて出て来た鬼の退治は、目途がついたのだろう。
それはなんとなく分かった。
だが。
シュウは無事らしい。
だが。
「……ン、は?」
リクに向かって声を掛ける。なのに私の声は、喉の奥に詰まって
リクが私を見て、目を細める。
周りの団員達も立ち止まった。
「あなを、こわしているの?」
私の言葉に、リクは俯いて首を横に振った。
ふっと膝の力が抜け、その場に座り込む。
頭の奥が、黒く冷たく冷えていく。なのに胸は激しい鼓動を繰り返し、体中の血をめちゃくちゃにかき乱す。
奉仕団員の一人が、
「ロンは、どうした」
リクは黙って顔を詰所の外に向けた。
するとほどなく蹄の音が聞こえ、詰所の前で止まった。誰かが馬から降りる音がする。
「今、戻って来たな」
リクの言葉で、皆一斉に扉の方を向く。
そして言葉を失う。
彼の姿を見て。
血と泥で固まった髪。
壊れた鎧、破れた着物。
その奥から、ぬらぬらと光る傷口が覗いている。
顔は赤黒く汚れ、瞳が見えなければ誰だか分からない。
「あいつ、俺より先に治療師に診て貰わないと」
壊れた扉を踏みつけ、刀を杖にして立つロンの姿を見て、リクは呟いた。
**
治療師を呼びに戸を開けたユウをロンは制した。
「治療師を呼ぶな」
私が駆け寄ると、ロンは私の肩に
のしかかる重みと、鼻に衝く血や泥、火薬の臭い。
汚れた顔の澄んだ菫色の瞳が私を見る。
「納戸の、寝台まで連れていけ」
「わ、分かりました。で、でも、ち治療師に」
「駄目だ。呼ぶんじゃない」
血で濡れた頬を寄せ、耳元で囁く。
「心の臓を貫かれている。この傷を診せる訳にいかない」
彼の囁きに、魂が声にならない悲鳴を上げる。私は黙って頷き、寝台にロンを横たえた。
「傷薬は、要らない。い痛み止めの膏薬を、あるだけ塗ってくれ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい。ちゃんと傷を洗って、薬つけなきゃ。痛み止めは、つけ過ぎると中毒になって体を壊すって治療師が」
「だから」
周りを見回す。私の首に手を回し、引き寄せる。
「傷は、放って、おいても、すぐに塞がる。俺は、死なない」
私の首から手を離す。そこへユウのお父さんが顔を出した。彼を見て、ロンは「無事だったか」と微笑んだ。
鎧を脱がせ、着物の前を開ける。帯に手を掛けた時に少し躊躇ったが、彼の胸や腹に受けた傷を見た途端に、羞恥心などというものはどこかに吹き飛んでしまった。
ああ、この人は、「死なない」んじゃなくて、「死ねない」んだ。
いくらすぐに傷が塞がるとはいえ、これだけの傷を受けたら苦しくない訳がない。既に塞がりかけている傷も幾つかあったが、真新しい傷からは真っ赤な命の源があとからあとから溢れてくる。水を絞った布巾で拭いても、すぐに真っ赤に汚れてしまう。
痛み止めは心身を壊す。分かっているが、塗るしかない。今の私には、それしか彼の苦痛を和らげる術がない。その上から
ロンは私に手当てをさせながら、昨夜の顛末を報告しに来たユウと話をした。
苦痛と、死に至る筈の傷を、隠しながら。
「――では、刀を使わずに鬼を追い払ったんだな」
報告を受け、ロンは満足げに頷いた。
「ああ。ここ何日かで叩き込まれた発音が役に立ったよ。逆に刀でのやり取りになっていたら駄目だったかも」
「そうか」
ロンは少し咳込み、ユウに向かって言った。
「soɾenaɾa , koɾekaɾa a/ɴɕiɴ‾ ɕi te kono mɯᵝ/ɾa\ o makase ɾaɾeɾɯᵝ na」(それなら、これから安心してこの村を任せられるな)
ロンの言葉に、ユウは「だから教わったやつ以外は聞き取れないって」と言って笑った。
「集落を襲った鬼の残党が、もうすぐこの辺りを目指して来る。動ける団員達は準備をして迎え撃て。ユウは引き続き詰所にいろ。俺もこの手当てが終わり次第すぐに行く」
「でも動けるのか。そんな」
「大丈夫だ。鬼の返り血も混じっている。見た目ほど酷い傷じゃない」
「ならいいんだけど。了解。伝えて来る」
ユウが納戸を出た途端、ロンは顔を歪めて体を屈めた。
「ロン、絶対無理です! 死ぬ死なないじゃなくて、こんな状態で刀なんか持てるわけないです!」
寝台から起き上がろうとしたロンを、私は無理矢理押しとどめた。
「大丈夫だ。これで、終わるから」
「駄目です! 痛いんでしょう? こんな、これ以上体を苛めちゃ」
寝台にロンを押し付け、私はいつの間にか自分の手や声が震えているのに気が付いた。
巻いたばかりの赤い晒の上に、私の涙が零れる。
自分の涙が彼の血の中に吸い込まれていく。
それを見た途端、私の魂のどこかがぷつりと切れた。
「やだ……」
ロンの肩を持つ手に力が入る。
「やだ! 私、これ以上ロンが傷つくのなんかやだ!」
私の声に、詰所の方の空気が動いたのが分かった。だが、一度切れた魂は、剥き出しの感情を次々と吐き出す。
「死なないから何よ! 死ななきゃいいってもんじゃないでしょ! ロンが傷ついて、苦しんで、こんなの私、見たくないもん! やだもん! だからやめてよ、行かないでよ、私、私」
感情が吐き出される。何を言っているのか分からない。言葉遣いなんか気にしていられない。騒いじゃいけない事なんか知らない。村の為とか、鬼退治とか、主従とか、我慢とか、もう、なにもかも知らない。次々溢れる涙が邪魔だ。私、きっと今、凄い顔だ。でも知らない。そんな事、どうだっていい。
私は、私は、ただ。
「だって、自分の、たったひとりの好きな人が、傷つくのなんか、やだもん……」
詰所の方から、「行くぞ!」という掛け声と、深沓を鳴らす音が聞こえて来る。
ロンは自分に
涙に
震える親指で、私の涙を拭う。人差し指で、そっと私の唇を撫でる。
その指を、私は軽く噛んで
ロンは少し驚いた様に私の目を見たが、私の口から指を離し、俯いた。
再び顔を上げ、囁く。
低く、穏やかな、「龍一郎さん」の声で。
「八百年の末に、ユニと出会えて、良かった」
寝台に置いておいた着物を着、傍らに落ちていた私の帯締めを拾い、懐にしまう。
「この騒動は、もうすぐ終わる。俺は、我が身を盾にしてでも、鬼を斃し、村を守る」
寝台から立ち上がる。
私の耳元で、吐息の様に囁く。
「自分の、たった一人の愛する人を、傷つけない為に」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます