第10話 地下室
角灯の灯りが不安げに揺れる。アイの周りを女達が囲み、さっき食べ物をねだった少年は、部屋の隅で壁に向かって蹲っていた。
ある者はアイの様子を伺い、ある者は天井を見上げて、不審な物音がしないか窺っている。
地下室の中は、押し潰されそうな空気に包まれていた。
「息
産婆の囁き声の合図でアイが力を籠める。私は彼女の頭の方に座り、両腕を前に出している。アイは歯を食いしばり、私の両腕を強く握りしめている。細い指先がぎりぎりと腕に食い込む。
無言の分娩が、もう随分長い時間続いている。
次々と汗の浮かぶアイの額を拭きながら、私は天井を見上げた。
納戸には、ユウとユウのお父さんがいる。
詳しい話は聞いていないが、お父さんは狼煙を上げた後、大挙して押し寄せる鬼共の間を潜り抜けながら
「もしここに鬼が入って来た時、追い払うのはユウと父ちゃんなんでしょ? 不安しかないんだけど」
アミの呟きに、皆、一斉に鋭い視線を投げた。
「二人を信じましょう。それに持ち場の鬼退治が終わった団員達は、ここに戻って来ます。外にいる鬼共の数もそんなじゃないですから、大丈夫です」
大丈夫だと思います、ではなく大丈夫です、と言ってみる。ただでさえ心に負荷のかかる環境なのだ。不安が爆発したら、どんな騒ぎになるか分からない。
アイの子供はなかなか産まれない。赤ん坊の姿勢が、通常の頭を下にしたものではなく尻が下になっているため、出て来にくいのだそうだ。
そんな、平和な時でも大変な状態なのに、今は鬼の襲撃の只中だ。産婆は目に入った汗を乱暴に拭った。
**
アイが再び力を籠めた時、頭上から何かがぶつかる様な音がした。
耳を澄ます。
扉の方だろうか。ごつ、ごつ、と低い音が何度か響く。暫く低い音が続いたかと思うと、どん、と大きな音がし、何かが倒れる音がした。
扉が、破られたのだろうか。
話し声の様なものが聞こえる。複数だ。
声が扉の外から詰所の中へと移動する。
詰所の中を移動する。
顔を歪ませ、叫びだしそうになる人々を身振りで制する。
首を横に振り、人差し指を口に当てる。少し笑ってみる。笑い顔になっていたかは分からないが。
「よし、吐いて、吐いて、吐いて、吐いて」
産婆の言葉に、傍らにいたおばさん達が目を見開いた。
「ちょ、ちょっと、今」
「静かに。しょうがないだろ、止まるもんでもなし」
アイの呼吸が、特徴的な「吐いて、吐いて、吐いてー」から、短く早いものに変わる。産婆の言葉に、おばさん達は顔を見合わせ、蹲って顔を手で覆ったり、子供を抱き寄せたりした。その空気は周囲にも伝わり、地下室の中を覆い尽した。理由は分からなくとも、自分達が絶望的な状況に置かれていることは、誰もが感じていた。
短く早い呼吸。
もうすぐ子供が産まれる。
産声と共に。
「殺せ……」
近くにいたおじいさんが、震える声で囁いて立ち上がった。
「泣かれちゃ困る。皆が犠牲になる位なら、そのガキを」
アイの方に手を差し出し向かって来る。私は咄嗟にアイの手を振りほどき、おじいさんの口に手を当てた。思い切り腕を振ったので、私に口を押さえられたおじいさんは、勢い余って尻餅をついた。
どし、という音と共に。
それとほぼ同時に、納戸から何かが落ちる様な大きな物音がした。
頭上の鬼の声色が変わる。微かな足音が納戸の方へ向かう。ユウかお父さんが何かを落としたのだろうか。地下室の人々の視線が納戸のある方向に向かっている。アミとアミのお母さんは、手を取り合って頭上を凝視している。
納戸から、ユウの声が聞こえた。
だが、
「ko\ko nʲi ɰa da\ɾe mo i nai 」
聞こえて来たのは、唇と舌を複雑に動かして発する、鬼の言葉だった。
何と言っているのか見当もつかない。ユウの声に、納戸の外の鬼が応じた。
「o/mae‾ ɰa na\nʲi o ɕi te iɾɯᵝ ɴ da 」(お前は何をしているんだ)
「kɯᵝ/imo\no o saŋaɕi te i ta ɴ da ɡa , mʲi tsɯᵝkaɾa nakaッ ta . ho/ka‾ o ataɾo ɯᵝ」(食い物を探していたんだが、見つからなかった。他を当たろう)
何かのやり取りをしている。どうやらユウの言葉は鬼共に通じているようだ。ユウは以前、「発音が難しくて話せない」と言っていたが、いつの間に話せるようになったのだろう。
鬼の言葉。
かつて、ここにあった国の言葉。
「龍一郎さん」や「加耶子さん」が使っていた、「にほんご」を。
納戸の扉を開けようとする音がした。鍵を掛けているのか、がち、がち、という音が響く。鬼共が小声で何かを言い合っている。すると詰所の外の方で、低い爆発音の様なものが聞こえた。
「dʑi/keː‾ daɴ ɡa kʲi ta dzo . ha\jakɯᵝ so\to nʲi dejo ɯᵝ」(自警団が来たぞ。早く外に出よう)
納戸のユウの声に応じたのか、鬼共は乱れた足音を鳴らして詰所の外に出ていった。
一瞬の沈黙ののち、力強い産声が地下室に響き渡った。
**
産声が止んだ後、地下室の入口の戸が開き、ユウが顔を覗かせた。
「詰所の扉は壊されたけど、取り敢えず鬼共はどこかへ行ったよ。そっちはどう?」
「大丈夫です。子供は無事に産まれました。アイは、
「話せるわけないって。もう最っ低限の言い回しだけを練習したんだ。あれ以上の会話が続いていたらもう駄目だったよ。でも父が、窓から屋根によじ登って、残っていた擲弾を放り投げたおかげで鬼の目が逸らせた。鬼が出ていった直後に産声が聞こえた時はもう、腰が抜けて動けなかったよ」
照れた様に笑うユウを見て、村民の何人かが「よくやった」と声を掛けた。
皆、安心したのか、話し声があちこちから聞こえる。緩んだ空気が地下室に広がる。
産まれて来る子を手に掛けようとしたおじいさんが、俯きながら部屋の隅に移動していたのが視界の端に見えたが、声は掛けなかった。
「ユウと、お父さんは、自分にしか出来ない事で鬼を追い払ってくれたんですね。もうこれで、他の団員達に力がないって言われても、言い返せますね」
鬼が去ったせいで気が楽になって、私はそんなことを言ったのだが、私の言葉に彼は俯き、何故かもじもじした様な変な仕草をした。
「それなんだけどさ」
私を軽く手招きする。
「一応、扉を立てかけておこうと思うんだけど、俺じゃ持ち上がらなくて。手伝ってくれるかな」
**
詰所の鬼騒ぎとアイの出産が終わった後、暫くは何事もなかった。
出産で出た汚れ物を持ち出したり子供の
一度、遠くから微かな悲鳴が聞こえた。民家に鬼が入ったのだろうか。その家のことを思うと胸が痛んだが、かつてのミ村の被害を考えると、この村の静かさは、「襲撃」が本当にあったのかどうかさえもあやしく感じられる位だ。
角灯の灯りを減らした地下室の中は暗く、人々の多くは眠りについている。横になる場所などないから、かがんだ状態で肩を寄せ合って眠る。
空気は澱み、どことなく生臭いが、暫く室内にいると慣れてしまう。
そんな「平和な」時間が、静かに過ぎていった。
私は部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。
勿論、眠れる訳なんかない。
詰所を預かっている以上、ここにいる人達を見守らないといけないし、後産の際に大量の出血があったアイの容体も気になる。
それに。
ロン。そして自警団員達。
今、この地下室がここまで静かなのは、彼らが鬼共を斃してくれているからだ。組織だった襲撃は、少なくとも詰所から分かる範囲では起きていない。だが、ユウのお父さんの話によると、鬼共は集落の地面を何箇所も
「自分達の住んでいる地面の下に、あんだけの大量の鬼が棲んでいたと思うとぞっとしたよ。次から次へと湧いて来て、奴らの臭いが儂のいた丘まで漂ってきてな……」
その最前線に、ロンがいるのだ。
自警団員の数は少ない。馬を持ち、武器が豊富にある、という点は有利だが、人数の少なさはどうしようもない。
ロンは一通りの武器を扱えるし、剣の腕も立つ。だが、特別力が強いとか、脚が速いとかいった事はない。
彼の「強さ」は、「死なない」体を酷使することによって成り立っているのだ。
きっと今、彼は、文字通り、何度も死ぬ思いをしているのだろう。
目に力を入れ、泣かない様に耐える。私が涙を見せるわけにはいかない。私は自警団の一員とみなされているのだし、大切な人を案じて待っているのは私だけではない。
アイの旦那のリクだって、ロンと同じ集落にいるのだ。
「ユニ」
赤ん坊に乳を含ませながら、アイは擦れた声で囁いた。
「お水、ちょうだい」
体中の水分が搾り取られたアイが、また水を望んだ。私は詰所に行き、
「すみません、詰所の飲み水が、もうこれで最後なんです」
アイは水を一気に煽った後、潤んだ瞳で私を見た。
「ねえ、こんなに静かなんだもん、鬼の襲撃なんか、なかったんじゃないの?」
「いえ、それはあったそうです。ユウのお父さんが言うには」
「『櫓の鐘が三回連打したら、俺は帰って来ないと思え』」
私の言葉を遮り、遠くを見て呟く。
赤ん坊を包み込む様に抱いたアイの両目から、涙が溢れているのが見えた。
「そう言われたの。でも違うよね。おじさんの見間違いで、本当はちょっとしか鬼は出てこなかったんだよね。だってこんなに静かなんだもん。きっといつもの鬼退治と同じよ。だからすぐに戻って来るよね。そうしたら」
俯き、しゃくりあげる。私はアイと赤ん坊を包み込む様に腕を回した。
「信じましょう。信じて待ちましょう。私も」
上を向き、両目に力を入れる。鼻の奥の痛みを
「帰りを、待っています」
**
どの位の時が経ったのだろう。
遠くから、足音の様なものが聞こえてきた。
いや、足音、ではなく、蹄の音だ。
やがて頭上から、ばん、と何かが倒れる音と、
「戻ったぞオイ、あ、なんだよ俺が一番乗りかよ」
威勢のいいカンの声がしたので、私は詰所に飛び出した。
「お疲れ様です。無事でよかった」
「おう、ユニ。お、ユウと、ああ、親父さん、無事だったのか。どうだ何かあったか、って、あったみたいだな。これ、鬼の野郎の仕業か。面倒臭えなあ、どうせまたあのド
カンは自分が倒した扉を軽々と入口に立てかけ、大声でまくし立てた。
威勢がいい、というより、極限状態の後で、気が異常に高揚しているのだろう。
「カン、お疲れ。どうだった巣の入口は」
「もうよ、出て来る鬼出て来る鬼待ち構えてバッタバッタぶち殺してきたぜ。あの状況じゃ、こっちが圧倒的に有利だったからな。んで鬼の湧くのが一段落してから、入り口ごと潰してやった。でな、生き残った奉仕団の奴らは帰して、自分らの家の近くの鬼共を退治しろって言っておいた」
椅子に踏ん反りがえって喋るカンの傍で、ユウが呟いた。
「『生き残った奉仕団』、か」
ユウの言葉に、カンは腕を組んで声を落とした。
「これが終わったら、犠牲になった人達の家族の所へ行って来る」
腕を組んで口を噤んだカンに、ユウも、私も、声を掛けることが出来なかった。
**
沈黙に支配された詰所に、微かな泣き声が響いた。
地下室で、アイの赤ん坊が泣きだしたようだ。
「あれ、もしかして」
「リクの子供だよ」
「ああ、今度こそ産まれたのか。って、まさか、ここで?」
「はい」
「ああ……」
カンは腕を組んだまま、上を向いて目を閉じた。
「あいつら、早く帰って来ねえかな」
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