第9話 救出

 陽が落ちた。

 既に月が顔を出している。満月にはまだ満たないその月は、怯える村を冷ややかに照らしている。


 外は静かだ。枯れ井戸の爆発する音も、鬼共の暴れ回る音もしない。この静けさは、自警団員達が、ユウの集落や鬼の巣の入口で戦い、結果を出しているからなのだ、彼らが鬼に勝っているからなのだ、と思うことにした。

 詰所に避難して来る人達は、もういないだろう。私は納戸に隠れているユウに声を掛け、地下室に潜る事にした。


 床の戸を開けるなり、むわっとした熱気とにおいが押し寄せる。結構な広さのはずの地下室の中は人で溢れている。体温と、体臭と、角灯の油のにおいで酔いそうだ。具合の悪くなる人が出なければいいのだけれど。


「今、村は静かです。狭くて申し訳ありませんが、ここで暫くお休み下さい」


 「自警団の仲間」として落ち着いた様子を装い、「買われた人間」として下手したてに出る。暫くすると、体格のいい少年が「腹減ったなあ」と大きな声を上げた。


「俺、夕飯食ってねえんだよ。喉も乾いたし。なんか食うもんねえのかよ」


 この状況で何を言うか、一食抜いたからってどうもならないよ、と思ったが勿論口には出せない。


「麦粉の餅や水を持って来ます。少ししかないので、皆さんで分けあって下さいね」

「えー、なんだよ、そんなの用意しといてくれよ。気が利かねえなあ」

「す、すみません。いつ襲撃があるか、分からなかったもので」

「気が利かねえ女はいい嫁になれないんだぞ。な、母ちゃん。ユニ、だからいつまで経ってもロンに嫁に貰ってもらえな」

「こらばかお前余計な事言うんじゃない! ごめんよ、ユニ」


 物凄く返答に困る事を言われたが、おかげで地下室の雰囲気が少し和らいだようだ。何人かがくすくす笑っている。まあいいや場が和んだから。私は「ユニ、顔真っ赤だぞぉ」というおじいさんの冷やかしを受け流しながら台所へ向かった。


 台所から戻り、戸を開けようと餅と水を床に置いた時、視界の端に違和感を覚えた。

 窓の外に目を向ける。

 詰所から少し離れた所を、何かが歩いているのが見える。

 この距離では、姿は分からない。だが、

 普通の人間よりも、明らかに大きい。


 胸の奥が、どろりと蠢く。

 鬼だ。


 今、見えたのは多分一頭だ。外は相変わらず静かだ。枯れ井戸の中で仕掛けの動かなかったものがあったか、自警団員達の刃の下を潜って来たか。だが、いずれにしろ大挙して押し寄せている訳ではない。


 落ち着け私。一頭二頭が外を歩いているなんて、今までだって何度もあったじゃないか。隠れていればどうという事はない。私が慌てたら、不安が地下室中に伝染する。


 納戸の扉が小さく開いた。ユウが手を振る気配がする。早く地下室へ行けの身振りだろう。私は軽く頭を下げ、餅と水を抱えて地下室に入った。


「お待たせしました。すみません、これしかないので、我慢出来る人は遠慮してもらえますか」


 なるべく冷静にそう言って見回すと、室内がさっきと明らかに違う空気に包まれている。

 なんだろう、この、重い感じ。

 部屋の中央から、産婆が私の所へ来た。


「リクは今、どこだい?」

「え、リ、リク? 村はずれの集落に行きましたけれど」


 私の言葉に、彼女は頭を抱えてうずくまった。傍らにいたおばさんが、産婆の背中を撫でる。産婆は蹲ったまま顔を上げ、私を見た。


「今朝、アイが腹痛はらいたを起こしたんだよ。だけどあれはいつものじゃない、前駆陣痛ぜんくじんつうだ。なのにまだ詰所ここに来ないんだよ。もし、今、家で産気づいちまったら……」


 **


 地下室を出、手探りで納戸の扉を開けると、刀を手にしたユウの姿がぼんやりと見えた。


「これからリクの家に行ってきます。アイの子供が生まれそうなんですって」

「今から外に? 駄目だよ危ないって。今、鬼がうろうろしているんだぜ。それに生まれそうって、あれ、しょっちゅう言っているじゃないか」


 案の定、ユウは鋭い声で反対した。


「えーと産婆が言うには、なんか違うんだそうです。いつものはナントカで今回のはナントカジンツーとかで、よく分かんないんですけど、本当に危ないんだそうです」

「そんな曖昧な情報だけで危険な事をさせられないよ。それにユニ、心に負荷がかかると呼吸が苦しくなるじゃないか。なのにアイをここまで連れて来られるの?」


 言われてみて初めて気が付いた。今、私の呼吸は正常だ。

 鼓動は早くなっているが、その他はおかしな所がない。胸に手を当てる。痛くない。

 私は今、気持ち悪い位に冷静だ。

 今ここで、何故か、などと考えるのはやめよう。私は笑顔を作って言った。


「大丈夫です。それにアイがそんな状態だって知って、黙っていられません。だって私が初めてここに来た時、ユウが言ってくれたんですよ。『ユニはもう、自警団の一員だよ』って」


 これが屁理屈なのは分かっている。私は何かを言おうと口を開けたユウに向かってもう一度微笑み、刀を握って詰所を出た。


 **


 扉を閉め、辺りを見回す。鬼の姿も臭いもない。私は裸足になり、足音を立てないように走った。

 足の裏が直接地面に触れる感触は久しぶりのものだ。冷たく凍りかけた地面から、痺れる様な冷気が這い上がって来る。

 リクの家はここからすぐだ。よし、今のうちに一気に走ろう。


 リクの家に着いた。辺りを見回す。少し離れた所に大きな人影の様なものが見える。壁に張り付いてやり過ごす。人影の様なものが視界から消える。息を吸い込む。臭いもしない。扉の方へ回り込み、扉を軽く叩く。なんの反応もない。小声で「アイ」と言ってみる。やはり反応がない。扉を開けてみると、あっさり開いた。


「アイ、ユニです。どこですか。一緒に詰所へ避難しましょう」


 返事がない。耳を澄ます。すると家の奥の方から、低い呻き声が聞こえた。

 勝手の分からない家の中を月明りだけで探る。扉があったので開ける。物置部屋なのか、その部屋に窓はなく真っ暗だ。扉を全開にして目を凝らすと、ぼんやりと人影が見えて来た。


 物置の隅で、アイは膝を折って座り込み、呻き声を上げていた。


「アイ、どうしました? まさか」


 私が声を掛けると、アイは呻き声を止め、軽く息をついて顔を上げた。


「なんで、よりにもよって今なのよ、って感じよ。もう結構痛む間隔が短くなっていてね、もうすぐみたいなの」


 今は痛みの波が引いているのか、一息にそう言って少し笑った。


「詰所に産婆が来ています。次の痛みの波をやり過ごしたら、一緒に逃げましょう。この辺、鬼がうろうろしていますから」


 私がそう言い終わらないうちに、アイがまた呻きだした。

 こういう時、確か腰の骨の下の所を押すといいと聞いたことがある。でも腰の骨の下ってどの辺だ。兎に角押してみよう。私はアイの肩に手を回し、腰の下の方を探った。

 腰に触れた途端、びしゃ、という感触に思わず手を引っ込める。

 もう一度探る。

 アイの着物の腰から下が、水に浸した様に濡れていた。


「破水、しちゃって」


 私の気配に気づいたのか、アイは呻き声の合間にそう言った。暫くして、波が去ったのかまたふっと息を吐く。私は彼女の肩に手を回したまま立ち上がった。


「今のうちです。急ぎましょう」


 持っていた刀を抜く。刀身が鈍く光る。アイが刀を凝視しているのが分かる。私はそれを無視し、アイを支えながら外に出た。


 **


 月明りが、憎らしいほどに明るく私達を照らしている。見回してみた限り、鬼の姿も臭いもない。さっきは一気に走って来られたが、今のアイの状態だとそれは無理だろう。建物の陰に隠れながら進むしかない。よし、まずはあの家までだ。

 アイを促し、歩く。歩けるか不安だったが、痛みの波が引いている時は結構普通に歩けるらしい。向かいの家まで歩き、壁に身を寄せた時、アイがまた蹲って呻きだした。


「アイ、あのね、声、出さない様にって出来ますか?」


 厳しい事を言っているのかもしれないが、仕方がない。アイは私の事を睨み付けたが、呻きを殺して蹲った。

 アイは確か、持病があると産婆が言っていた。羊水にまみれた華奢な体を折り曲げて蹲り、乱れた髪を頬に張り付かせて耐えている。呻き声の代わりに、歯ぎしりする音が聞こえた。

 辺りを見回す。壁の向こうに、何かがいる。アイを抱える様に蹲り、気配を窺う。暫くすると、抱えていたアイから力が抜けた。痛みの波が引いたらしい。急がなければ。


「私、支えますから走ってみましょう。無理なら言って」


 話しながらアイを支えて立ち上がった途端、視界が遮られる。


 饐えた臭いと、血の臭い。

 目の前に、面や服が赤黒い血に塗れた鬼が立っていた。


 何も、考えていなかった。

 怖いと思うよりも早く、私は刀を持った右手を振り上げた。


 自分の手にした刀が、鬼の服を破り、皮を裂き、弾力のある肉にめり込む。

 引き抜く。

 赤黒く変色した刀身が姿を現す。

 鬼が面の奥から呻き声を上げる。

 そいつの体が傾いた隙に、私はアイの体を掴んで走り出した。


「ユニ、今の鬼、死んだの」

「知らない!」


 運よく、と言うべきか、今の鬼は既にかなりの深手を負っていたようだった。だからなのか武器も持っていなそうだったし、動きも鈍かったから私でも刺せた。

 奴はもともと深手を負っていた。

 でも、だからなんだというんだ。


 鬼を斬った。

 今、私は、鬼を斬った。


 走れるところまで走ろうと、必死に脚を動かす。だが私の意識は、右手と、右手に握られた刀にばかり向かう。

 そして何度も同じ事を考える。


 鬼は私達の敵、家族の仇、村の仇。

 私は鬼を斬った。

 私は。

 人を、斬った。


 この世に「鬼退治」などない、というロンの声が脳裏に響く。 


 **


 詰所の扉まで来た時、アイがまた蹲った。扉を叩く。早く、早く出て来て。


 閂を外す音が聞こえ、扉が開いた途端に火薬の臭いが鼻に衝いた。

 中から、ユウのお父さんが煤だらけの黒い顔を出した。


「ご無事、だったんですね」

「まあ、それなりに怪我はしたがね。それよりその人」

「リクの女房です。破水しちゃっていて」

「よし、儂が地下室に連れていく。だからユニ、その間に」


 お父さんは傍らに立っていたユウに目くばせをして、アイを抱えて地下室に入った。


「ユニ、それ、もしかして」


 ユウは私の手から、抜身の刀を外した。刀がユウの手に渡る時、にちゃりとした感触が掌を襲った。


 その瞬間、激しい動悸に襲われ、その場に蹲った。


 手が気持ち悪い。この感触が気持ち悪い。何がついているんだ。鬼の血か。鬼の命か。鬼を斬った。私は鬼を斬った。私は。


「ユウ、私、途中で鬼に襲われて、そいつもともと怪我していて、私、そいつを、ねえ、ユウも言っていましたよね、鬼って、昔は、にんげ」

「鬼は化け物だ。俺らの敵だ。今まさに俺達を殺そうとしているんだ。今だって俺らの仲間が一生懸命退治している。ユニはそれを助けた。他に何がある?」


 私の言葉を強く遮り、ユウは言った。


「中途半端な感情に惑わされないで。自分を襲った対象を手に掛けたんでしょ。ユニはアイと、子供を守った。そういう事だ。さあ、手、気持ち悪いでしょ。向こうで丁寧に洗っておいで。丁寧にね」


 暗闇の中で、ユウが微笑む気配がした。


「子供、生まれそうなんでしょ。だったら産婆の手伝いしなきゃ。こればっかりは俺は手伝いようがない。『自警団の一員』の『ユニ』だから出来る事を、今、一生懸命やろうよ」


 ユウの言葉に、私は痛む胸を押さえて立ち上がった。その時、地下室からお父さんが出て来た。


「儂はユウと一緒にここの見張りをしているよ。それよりユニ、産婆が『たらいに入れた水と消毒薬か強い酒、大量の布巾』を持って来いとさ」


 開けられた戸の下から、アイの呻き声が聞こえる。私は頷き、手洗い場に向かった。

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