第5話 初雪の味
もう結構遅い時間だ。
今夜は星が見えない。窓から顔を出してみたら、外は頬が縮み上がる様な寒さだった。
その寒さの中に、微かな水の匂いを感じる。もしかしたら今夜は、この寒期初めての雪が降るかもしれない。
「閉めておけ」
背後から声を掛けられて慌てて窓を閉める。いけないいけない、折角の暖気が逃げる。私はお詫びを言おうと、書類仕事をしているロンの方を見た。
暖炉の灯りに照らされたロンは、私に柔らかな微笑みを向けていた。
何よその表情。卑怯過ぎる。
彼から目を逸らし、俯く。でもその微笑みに再び包まれたくなって、顔を上げる。なのに彼の目は既に書類の方に向いていた。
ほっとしたような、がっかりしたような、なんともいえない気持ちを抱えて、ロンを見つめる。
そして今日の夕方の出来事を思い返す。
**
ユウのお父さんも交えて、あの後、集落に鬼が出没した時の対応を話し合っていた。
私は話し合いに直接参加していないので完全には把握していないが、お父さんが狼煙を上げ、それを合図に自警団員達が鬼に反撃する、ということに決まったらしい。
いくら脚が速いとはいえ、一般の人にそんな事を任せていいんだろうか、と思ったが、口には出さなかった。
この作戦は賭けだ。
「世田谷中央口」は沢山の穴の集合体だ。どこにある穴が開くか分からない。先日ロンが偵察に行ったス村では、世田谷中央口に該当する穴の話はなかったらしい。私のミ村の情報だって、お父さんの友達の雑談が全てだ。私は実際その穴から鬼が出て来た様子を見た訳ではない。
それに世田谷中央口は、高度な技術を用いた昇降機械で地上と地下を行き来するのを前提に作られた穴らしく、現代の実用性に関しては非常にあやしい。だから鬼共は穴を掘り返すのを途中で諦めて、階段通路や枯れ井戸だけを使って出没することも可能性としてなくはない。
そこで集落周辺に待機するのは少人数の奉仕団員だけになったようだ。鬼の出没規模によって異なる数の狼煙を上げ、それをもとに後から攻撃に出る自警団員達の人数を決める事にしたらしい。
出没規模の判断は、お父さんに委ねられた。
「そんな、村の運命を左右する様な判断を父にさせるなんて出来ないよ! 無茶にも程がある。だって強盗の見張りすらまともに出来なかったんだぜ」
「なんだと! お前儂をばかにするのか!」
痣だらけの顔を突合せ、周囲にお構いなしで取っ組み合いを始めた二人の間に、ロンが手を差し入れた。
「鬼共は俺の殺害に失敗している事から、効率的な襲撃手段として、なんとしても世田谷中央口を利用しようとしていると思う。だからこの役割は危険だ。本来ならば自警団員が行うべきことをお任せして申し訳ない」
軽く頭を下げるロンを見て、お父さんは手を左右に振り、ユウは険しい顔をして顔を逸らした。
「狼煙の数は目視出来る範囲で判断すればいいし、
ロンの言葉を受けて、ユウのお父さんは布で覆われた額に手を当て、暫く俯いていた。
「本当はね、儂は曲がったことが大嫌いなんです」
布をずらし、額に刻まれた入墨に触れる。
「だけど一度曲がっちまったら、二度と真っ直ぐになれなくなっちまいました。だからユウには真っ直ぐな道を歩いて欲しくて、何かやらかすとすぐに折檻したりして。でも結局それは、儂が」
「『俺の為』っていうより、自分の歩きたかった道を代わりに俺に歩かせようとしているんだろ? 分かっているよ。そしてさ」
ユウは腫れ上がった頬を撫でた。
「今回の件で、真っ直ぐな道を歩く自分を、
口の中で何かを呟き、
顔立ちの似た、互いを殴り合い、想い合う親子の方へ、ロンは一歩踏み出した。
額に手を当てたお父さんを見つめる。
「飢えは人の判断力を狂わせる。だが、だからといって曲がった道を歩むのは誤りだ。一番身に染みているのはあなただろうが」
お父さんの目を真っ直ぐに見つめる。
「死んではならない。絶対に生きて家族のもとに戻ってくれ。そして今度こそ、真っ直ぐな道を歩む父親の背中を家族に見せろ」
そう淡々と話すロンは、自分のお父さんに背を向けられ、飢えで人生を狂わせたのだ。
私はその場に居続けるのがつらくなり、用事を思い出したふりをして詰所の外に出た。
**
「なにをそこでぼーっとしている」
ロンに声を掛けられ、我に返った。
やだもう私。夕方の出来事を思い出して、結構な時間、ぼーっとここに立っていたのだろう。大丈夫なんだろうかこんなことで。
「疲れたのか。早く休むといい」
「ごめんなさい、只ぼーっとしていただけです。それに今日は、申し訳ありませんでした。あんな我儘を言ってカンやユウについて行ったのに、結局、大してお役に立てませんでした」
私の言葉にロンは微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
「そんな事はない。地鳴りの情報は貴重だった。それにユニが女将に話したと言っていた事、あれで随分救われたと思う。女将も、女将の
「女将の旦那の魂、いるんですか?」
「女将が抱えている。だが多分、魂が残ってしまった原因は自警団への未練なんかじゃないだろう」
ロンは私を見、少しだけ目線を外した。
一瞬の沈黙が漂う。
暖炉の灯りが揺れる。
「愛する者を残して逝かねばならなくなった時、せめて魂だけでも
唇を噛み、目を伏せる。
強く噛まれたロンの唇は、雪の上に落ちた椿の花の様に紅く染まっている。
その唇を見た時、思わず私の唇から言葉が零れた。
「ロンがこの村を出る時、私も一緒について行きます」
ロンは伏せた目を上げ、眉間に皺を寄せて私を見た。
「駄目だ。言っただろう。彷徨は苛酷だ」
「でも、ついて行きたいんです。彷徨が苛酷なのは知っています。私だって、村を失って随分
主人が捨てると言ったら捨てられる。それに逆らってはいけない。
分かっている。分かってはいるんだ。
折角今まで抑えていたのに。諦めようとしていたのに。心は唇を押しとどめ、言葉を呑み込ませようとするが、幾度となく啼き、泣き疲れた魂が言葉となって零れ落ちる。
「ロンと一緒に、どんな苦労も分かち合いたいんです。お荷物にならないように、一生懸命頑張ります。歳を取って体が動かなくなったら、お役に立てるか分からないけれど……」
「頑張らなくても、役に立たなくてもいい。そんな事は何も望んでいない。俺だって、出来る事なら」
私の言葉を遮り、ロンは椅子から立ち上がった。
彼の細長い影が、詰所の壁に揺れる。
「老いて、天寿を全うするユニを、看取りたい。……その時の俺は」
右手を自分の胸の前に添える。
その右手で、心の臓を
「この姿のままだが」
そう、なのだ。
ロンに寄り添うという事は、いつまでも若く美しい姿の彼の傍で、自分だけが老いさらばえるという事なのだ。
その事に、耐えられるのか。
顔中に皺が刻まれ、腰が曲がり、歯の抜け落ちた姿で、二十歳の姿のロンに寄り添えるのか。
理性という名の心が私の魂にそう問いかけたが、私の中で、答えは既に出ていた。
着物の端を、強く握る。
「私のこの姿はいずれ変わり果てます。でも私は、老いた姿を晒してでも、お傍にいたいんです。だって、私は」
私の言葉は、ロンが机を強く叩く音で遮られた。その音に一瞬身を震わせる。彼は机を叩いた自らの手を睨み据えていた。
「駄目だ。連れて行かない」
机の上で拳を握る。
俯いた横顔に黒髪が掛かる。
擦れた声で、呟く。
「これ以上、もう、言わないでくれ」
俯いたまま彼は暫く沈黙し、やがて、すまん、と言った。
「申し訳ありません」
着物の端を握る手を緩め、私は頭を下げた。
「いつ、この村を出るつもりなんですか」
「今回の襲撃を乗り越え、村が少し落ち着いたら」
「それは、ひと月か、長くてふた月とか、その位でしょうか」
私の言葉に、ロンは黙って頷いた。
なんとなく、見当はついていた。
だが具体的に口に出し、それを肯定されると、残された日々の短さが心に迫る。
ロンが村を離れたら、私はもう傍にいることが出来ない。彼の果てのない流浪の日々を支えることも、彼の柔らかな微笑みを見ることも出来ない。
もう二度と、彼の胸のぬくもりに抱かれ、魂をひとつに重ねることが出来ない。
昏く冷たい床の上に、涙が一粒吸い込まれてゆく。
私はまともに挨拶もせず、頭を下げたまま詰所の外に出た。
**
体の芯が痺れる程の寒さに目を覚ました。
この寒期いちばんの寒さだ。私は泣き腫らした瞼をこじ開け、毛布を肩に掛けたまま窓の扉を開けた。
雪が、降っている。
窓硝子を開ける。途端に鋭い寒気が静かに頬を打つ。
外は淡い蒼色に乳白を溶かし込んだ光に包まれている。もう明け方の時刻なのだろう。雲に
外套をきっちり着込み、外に出た。
起きる時間としては、少し遅かったかも知れない。急いで水汲みをして、朝の支度をしなければ。それなのに私は軒下に立ち、空を見上げていた。
この雪景色を、ロンと一緒に見たい。
心の中に、そんな想いがよぎった。
大ぶりで華やかな姿なのに、土の上で儚く消え去る初雪。その姿の美しさ、趣を、彼と共に味わいたい。そう思って、視線を空から詰所の方へ移した。
視線の先に、ロンの姿があった。
紺色の外套を身につけた彼の白い肌は、空から舞い降りる雪の様に仄かに発光している。私と目が合った時、彼は一瞬だけ目を伏せた。
私も昨夜の事を思い出し、目を伏せる。
魂が苦しげに、きゅう、と啼く。
「おはようございます」
ロンは挨拶を会釈で返すと、私の方に近づいて来た。水と氷の混じった土が、彼の深沓の下で音を鳴らす。彼は私と並んで軒下に立った。
「昨夜は、すまなかった」
白い息を纏いながら、囁く様にそう言って頭を下げた。私は慌てて首を左右に振る。
「わ私こそ、申し訳ありませんでした。あんな、我儘を言ってしまって。その、私」
何を言ったらいいのか考える前に口を開いた私の言葉は、そこで途切れた。
ロンの指が、私の目元に触れる。あたたかな指が、私の目元を滑る。
泣き腫らして重たくなった私の目を見て、彼の菫色の瞳が揺れる。
その、大きな切れ長の目は、僅かに充血している。
涙を流した後の様に。
「もう、我儘は言いません」
潰れそうな胸の奥から何とかその言葉を引きずり出す。彼は私の目元に触れていた手を降ろした。
風が吹いた。雪は風に乗って身を翻した。
「ロン、どうしたんですか? こんな早い時間に」
彼が行動を起こすには、まだ少し早い時間だ。私は昨日の事を断ち切る為に、努めてはきはきと聞いてみた。
彼は視線を私から空に移した。
「雪が、降っていたから」
手を前に差し出す。彼の白く大きな掌の上に雪が舞い降りて、消える。
彼はそのさまを見た後、私の方に向いた。
「この雪景色を、ユニと一緒に見たかった」
また風が吹いた。雪が舞い、ロンの髪が揺れた。
「私も」
彼の、吸い込まれそうな程澄んだ瞳を見つめた。
朝の淡い光が、ひたひたと空に満ちはじめている。
彼の指先が私の手に触れた。互いを求めあう様に、どちらからともなく指を絡ませる。
指先の熱が、腕を通って体の奥を痺れさせる。
「雪が、とっても綺麗だったから」
彼が私を見つめている。
淡紅色の形のいい唇が開き、囁きが零れる。
「ああ」
絡められた指先に力が入る。
「とても、綺麗だ」
彼の言葉を受けて話をしようと唇を開きかけた時、風が私の前に雪を運んできた。
雪がひとひら、私の唇に舞い降りる。
雪は私の唇の上で、じゅわりと溶け崩れてゆく。
そこに、ロンの指が触れた。
雪の冷たい感触の上に、ロンの指先のぬくもりが重なる。
彼の顔が近づく。初雪の様に白く、端整な彼の顔を寄せられ、私は僅かに頬を火照らせ、そっと目を閉じた。
雪が降っている。
初雪の舞い降りた私の唇は、重ねられた彼の唇の上で、あつく溶け崩れてゆく。
この甘やかなひとときは、初雪の様に儚く消え去ると知っているのに。
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