第4話 「愛」の種類―主従或は恋人の手前
詰所に戻ると、扉に貼られていた「団員不在」の張り紙は剥がされており、中ではロンが揉め事を持って来た人達の話を聞いていた。
「てっめ、何働いているんだ。寝ろやコラ」
「詰所を閉めっぱなしにするわけにいかないだろう。俺なら大丈夫だ。年齢は若くないが体は若い」
「それ、諸々下り坂に差し掛かったオヤジがよく言う台詞だぜ」
ロンの言葉の真意など勿論知らないカンは、軽く鼻で笑った後、鍛錬の為に外へ出た。
**
詰所に村民がいなくなったのを見て、ユウが先程の報告をした。
ユウのお父さんの事も、私が気付いた地鳴りの事も。
ロンは地鳴りの話を聞いた時、僅かに眉を顰めて私を見た。
全ての話を聞き終わった後、ロンは顎に手を添えて、暫く何かを考えていた。
菫色の瞳が一点を見据え、彼の白い指先が淡紅色の唇をなぞるように触れる。
その姿を見て、思わずきゅうと啼く不謹慎な魂を、心の中で叱咤する。
「今日も子鬼が出たか」
「まあ、昨日のは単に遊びに来ただけみたいだけど、俺らが思う以上に、奴らは俺らの動きを把握しているんだろうな」
「女将の申し出は有難い。早速避難の対応に入ってくれ。あと、新入りの男の奉仕団加入手続きも」
「女将の所へ避難させるのは、逃げるのが遅くなりそうな家族が優先かな」
「それでもいいが、どのみち近日中にあの集落の人達全員を避難させる」
そこでユウは鼻の頭に皺を寄せた。
「それっていつあるか分からない襲撃の前に、って事? 朝の話じゃ、有事に避難する、みたいな感じだったじゃないか」
「朝はそのつもりだった。だが、他の団員達の同意を得てからだが、世田谷中央口が掘り返される前に、あの集落の人達全員を避難させようと思う。この際、避難の動き自体は鬼に知られても仕方がない」
詰所の扉が叩かれた。村人が来たようだ。ロンは声を落とした。
「詳細は後で。あの集落内で、鬼共に致命的な打撃を与える。その為に、ユウの父御の勇気と俊足を頼らせて貰う」
**
その後、団員全員を集めて報告と今後の話し合いが始まった。
「俺が話した非常勤団員の奴ら、話を聞いた途端に浮き足立っちまって大変だったな。この分じゃ明日には村中大騒ぎになるぜ」
「そうなったら、満月どころか上弦を待たずに襲ってくることもあるんじゃねえか? ユウの集落にあるっていう大穴を掘り返し次第、とか」
「その可能性はなくはない。そこで皆に相談があるんだが」
そこでロンは私の方を見た。
軽く頷き、視線を扉の方へ向ける。
その仕草を見て私は頷き、詰所の外に出た。
朝、我儘を聞いてもらったばかりだ。流石に今は素直に言いつけを聞かなければ。
心の中に湧いた重い石を呑み込み、昼の水汲みに向かった。
私はいつも守られている。魂が傷つかないように、鬼の手に掛からないようにと。
私はいつも大事にされている。買われた身でありながら、食事も着物もふんだんに与えられ、手を上げられた事も、怒りに任せて怒鳴られた事もない。
ロンが今、私を詰所から出したのも、これから始まる話の内容によって、私の魂が傷つかないようにだろう。
有難いと思う。ロンには心から感謝している。
でも、そうじゃないんだ、と、贅沢な私の魂は悶え叫ぶ。
強さが欲しい。
彼と同じ場所に立ち、共に苦しみ涙を流せる強さが欲しい。
たとえ残された時間が、僅かだとしても。
**
頃合いを見て詰所に戻ると、ロンとユウが書類を見て何かを話し込んでいた。他の団員達は全員出払っている。
「じゃあ、これで役所に掛け合って来る。観光目的の出国規制を緩和させる、って建前で。あとこの費用、試算してみたんだけど、これでいいかな」
「集落再建の為の費用、か。今の時点で役所に出すのか」
「そうだよ。俺らの仕事は鬼を追い払っておしまいじゃない。鬼を追い払ったら、その後又日常が始まるんだからさ。そこで混乱が生じたら、折角の平和が平和じゃなくなるだろ」
ユウは書類の束を持った手に力を入れた。
「自分の命を犠牲にして敵から人を守るのだけが英雄じゃない。自分の存在を忘れられる位の平和を作り出し、それを守るのだって英雄だろ」
書類はユウの手の中で潰され、震えていた。
「だから生きなきゃいけないんだ。俺の思う英雄は、絶対に、死ぬもんか」
**
ユウが外に出た。途端に詰所の中に静かで重い空気が充満する。
薪が軽く爆ぜる。
外からは、子供達の遊ぶ声が微かに聞こえてくる。
室内の空気に圧迫されていた時、ロンは机の上に置いてあった一振りの刀を手に取った。
「先刻、鍛冶屋が届けに来た。普通の刀剣は扱えなそうだから、これを使うといい」
手渡されたのは、ロンの持っているものと形が似ている、軽く弧を描いた細い刀だった。
だが、長さが全く違う。こちらはかなり寸詰まりの印象だ。そして一般的な剣に比べ軽い。技術云々を抜きにすれば、私でも扱えそうだ。
鞘を外す。中から、澄んだ光を放つ優雅な刀身が姿を現した。
「しまっておけ」
刀身に見惚れていた私の手から刀を取り上げ、ロンは鞘に納めた。
仇を見る様な目で刀を睨んでいる。
何かを呑み込む様な仕草をし、私に目を向ける。
「この世に、『鬼退治』などない」
薪が爆ぜる。ロンは刀を机の上に置いた。
「あるのは、殺人だ」
絞り出す様にそう言い、目を伏せた。
そのロンの言葉を聞き、ふと、昨日の子鬼の姿を思い浮かべた。
所々欠けた前歯を出して笑い、私に向かって「きれいですね」と言った子鬼、アイの姿を。
もし、数百年前、奴の先祖が別の道を歩んでいたら。
奴は今頃、詰所の外で遊んでいる子供達と一緒に、笑っていたかもしれないのだ。
「本当はユニにこんな物を持たせたくない。だから俺がユニの傍にいる時は、決してこの刀を抜かせない。俺が、ユニの盾になる」
「だが、これからもし、鬼の襲撃があったとしたら、その時俺はあの集落に向かうだろう」
分かっている。私は頷いた。僅かに顔を歪め、私を見つめるロンに向かって、微笑みかけてみる。
強さが欲しい、じゃない。今こそ、強くならなければ。
背筋を伸ばし、微笑みを湛え、彼に告げる。
「詳しいことは聞いていませんけれども、あの集落内で鬼に打撃を与えるんですよね。であれば、ロンは真っ先に集落に向かわなきゃ。だってロンは、自警団で一番強いんですから。そしてその時、この詰所は近隣の人達の避難場所になるんですよね」
「そうだ」
「ならば」
怯え、逃げ惑う魂を包み込み、前を向かせる。
苦しくなる息を止め、両脚に力を入れる。
彼は村の英雄だ。自警団は、この村を守るのが仕事だ。ならば。
「私は、この詰所を守ります。刀を使った戦いは多分無理だと思いますが、私は、ロンや、自警団の皆さんの帰って来るこの場所を、守ります。だから、その時が来たらどうか、私を忘れて戦って、そして勝ってここへ帰って来て下さい。私はここで、ロンの笑顔を待っていますから」
無理矢理作った笑顔のせいで、少し頬が痛くなってきた。
その頬に、ロンの指先が触れた。
「すまん」
彼の指先が私の頬の上を滑る。
頬を離れ、固く握りしめた私の拳を、大きな掌で包み込む。
菫色の瞳が、私の瞳を通って魂の奥深くを見つめる。
「俺は死なない。必ず帰って来る。そしてユニの笑顔を見る。だが」
淡紅色の唇から漏れる言葉は、微かに湿度を帯びている。
「俺は片時も、ユニを忘れない。忘れるわけがない」
私の体はロンの胸に引き寄せられた。彼の腕が、私をそっと包み込む。
着物を通して、彼の胸から温もりが伝わって来る。
私の耳元で、彼が囁く。
「ユニは、俺のものだ」
儚く消え去る運命を持ったその囁きを受けて、たった今まで怯え震えていた体の奥から、痺れる様な熱が湧き起こる。
**
夕方になって、ユウはお父さんと一緒に詰所に戻って来た。
「痛ってえ。ユニ、水と布巾と傷薬持って来て。あ、悪いけど父の分も一応」
「一応ってなんだ一応って。畜生、とんでもねえことしやがって。いてて」
ユウとお父さんは、顔中に傷と痣を作っていた。
どうしたんだ一体。取り敢えず薬だ。
自警団員達はしょっちゅう怪我や痣を作って帰って来るので、傷薬は常に大量に用意してある。
薬や水を卓に置き、さてどちらから手当てをしたらいいのだろうと考えていたら、二人は勝手に自分の傷を手当てし始めた。
「二人とも酷い顔だな。ユウ、父御に手を上げたのか」
「だから父御なんてかっこいいもんじゃないよ、いてて。先に手を上げたのは父だよ」
「お前が聞き訳のない事を言うからだ。折角ロンや自警団の皆さんがして下すった提案を、お前がひっくり返そうとするから」
「だって嫌に決まってんじゃんかよ。父ちゃんにそんな事させらんねえよ」
「なんだと! 儂には出来んって言いてえのかよ!」
「違えよ! 父ちゃんがやんねくたって」
「そこまで」
ロンの静かな一言で、二人は口を噤んだ。ロンはお父さんの方に向いた。
「我々の無理を、聞いて下さるのか」
お父さんは湿布を貼った頬を右手で押さえ、左手を振った。
「当たり前です。もとはといえば儂が言い出した事ですし。儂からしたら、こんな大役を任せて下さるなんて、有難い事ですわ」
お父さんの言葉を聞いて、ロンは姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「
頭を下げ続けるロンに向かって。お父さんは痣だらけの顔に笑みを浮かべた。
「忝いのは、こっちですわ。こんな儂を信用して下すって、感謝に堪えません。大丈夫です。儂、命を懸けてやり遂げます」
「命を懸けてはいけない。我々も全力で助ける」
ロンの言葉に、お父さんはぷっと軽く噴き出した。
「はは、そうですな。了解です。ユウも言っとりました。引き受ける以上、絶対死ぬな、そして生き延びたら、お前もちっとは働けとね」
大きな目に涙を浮かべて俯くユウの頭を、お父さんは軽く二度叩いた。
「ユウから聞きました。奉仕団も含め、集落の人を全員避難させる。儂だけが残る。鬼が湧いて出てきたら狼煙を上げる。んで爆弾投げて足止めさせて、自警団員が来る前に集落から逃げる。そんな感じでいいんですかね」
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