第5話 軌跡ー罪の理由
目が覚めた途端、俺の全身を激しい痛みが襲った。だが、その痛みの記憶は既に曖昧だ。
視界が塞がれている。息苦しい。全身を
水の流れる音がする。
俺は、どこかの川のほとりに捨てられていた。
既に夜は明け始めており、
そこがどこだったのか分からない。だが俺は、何かに追い立てられる様に歩き出した。
血と泥に
警察に保護されれば一番楽だったが、そうされるわけにはいかない。
警察が関われば、たとえ俺が口を閉ざしていたとしても、加耶子さんの父御が捕まる恐れがある。それだけは避けなければならなかった。
父に家を追われて以来、友人と思っていた人達は皆、去って行った。家柄を失った俺に用はなかったらしい。だから頼る人もいない。
無条件に俺を愛してくれていた人達も、もういない。
現在のトン国にあたる場所は、昔、「日本」の中の「東京」と呼ばれる一都市だった。
そこには現在の何倍もの人間が溢れていて、先進的な文明を持った遠い異国に追い付け追い越せと、街も人の数もどんどん膨れ上がっていた。
なのにその中で、俺は独りだった。
川沿いを歩き、海に出た。
海沿いを、ひたすら歩く。
何日も。
何日も。
下足を履いていない足は裂け、与太者に刺された傷は化膿していた。もはやどこがどう痛いのか分からなかった。
そして襲い掛かる強烈な飢餓感。
空腹感なら、常に抱えていた。だが「飢餓感」とは、単なる「腹が減った」状態とは別次元の状態だった。
ユニなら、分かるだろう。
足の痛みも、飢餓感も。
不思議なもので、思い出すのは血膿に
俺を刺した与太者は、経験が浅かったのか怖気づいたのか、心の臓とは全然関係のない場所を刺していた。だから自分の命を奪うのは、怪我よりも飢えだろうと思った。
何かを口にしなければ死ぬ。
時に子供達に石を投げられたりしながら海辺を歩き、考えていたのはその事ばかりだった。
あの時、何故あそこまで生きることに執着していたのか、未だに分からない。
生きていたって、いい事など一つもない。
あの時死んでおけば良かった、その思いはその後ずっと抱き続けていた。
つい最近までは。
随分と歩いた。
東京は、とっくに出ていた。……そう、只の一都市だったから出入りは自由だ。
そこは、誰もいない砂浜だった。俺は砂浜の真ん中で膝をつき、そのまま倒れ込んだ。
限界だった。
湿った砂の感触を頬と唇に感じながら、目を閉じた。
**
微かな、鈴の音が聞こえる。
目を覚ました。
誰もいない砂浜で倒れたと思っていたが、気が付くと、俺は民家の庭にいた。
庭に植えられた椿の木には、白い花が咲いていた。
どうしてこの時季に椿が咲いているのだろう。そんな疑問が頭を掠めたが、取り敢えずここを出ようと立ち上がった。
古い、小さな家だ。障子は開け放したままになっていた。
部屋の中には、見たことのない、一種の祭壇の様なものがあり、その前には大きな皿があった。
皿には、白く透き通る
途端に強烈な飢餓感が体の奥から突き上げて来る。
部屋には誰もいなかった。物音もしない。
俺は何かに手を引かれる様に家の中に入った。
祭壇らしきもののわきには小さな卓があり、汚れた
皿の中を覗き込む。
雰囲気からして、供物かなにかなのだろうか、白く透き通った刺身は、皿一面に
瑞々しく輝き、海の香りが漂う。
その姿が、その香りが、俺の目と鼻を通して飢えた体を責め苛んだ。
何も考えられなかった。
ただ、飢えていた。
俺は赤黒く汚れた手で皿の中身を掴み、貪った。
罪の意識など、なにもなかった。
ここがどこなのか、これが何の魚なのかなど、知った事ではなかった。
掴んでは、飲み下す。それだけをひたすら繰り返した。
この時の俺は、飢えに取り憑かれ、人の
**
刺身はあっという間になくなり、皿には俺の手についていた血と泥が僅かに付着しているだけになった。
途端に俺は、今、自分が何をしてしまったのかに気が付いた。
だが、罪悪感が湧き上がるのと同時に視界が揺れた。
吐き気と眩暈に襲われ、跪く。その拍子に卓の傍らにあった塵箱を倒し、中味を撒き散らしてしまった。
視界はどんどん狭くなり、俺はその場で気絶した。
塵箱の中には、先程盛り付けてあった刺身の、食べられない部分が捨ててあった。
骨。
身の残り滓。
尾鰭。
蒼い鱗。
そして、蒼い鱗にびっしりと覆われた、赤子程の大きさの
人型の頭。
**
目を覚ました。
庭に植えられた、白い花を咲かせた椿の木に目が行った。
「サテ、困ったものですナ」
甲高い男の声がしたので、起き上がって声のする方を向く。
その時、気が付いた。
与太者共から受けた傷や、逃げる時についた傷は跡形もなくなっていた。
それどころか今まで以上に肌は滑らかになっており、飢えは癒え、体中から生気が漲っていた。
「飯を乞いたければ、おもてから声を掛けてくれればよかったものを。よりにもよってマア、供物を食べてしまうとは」
俺は畳に額をつけて詫び、顔を上げた。
声の主は、小柄な年配の男だった。彼の魚の様な目と唇を見て、俺は先刻の、塵箱の中に捨てられていた頭を思い出した。
「今日は我が家でおまつりがありましてナ、だからとっておきのおさしみを用意しておったんです。あれをまずお供えして、それから今日ここに来る人達に食べて貰おうと。あれはネ、ホンの一切れ食べれば充分なんです。なのに全て食べてしまうとは」
男は腕を組んで溜息をついた。
そして俺を見下ろし、薄く嗤った。
「人魚の肉は、人間に長寿を
男は俯き、可笑しそうに喉を鳴らした。
「それはつまり、お前さんが不老不死になった事を意味します。つまりネ、お前さんは今後、刀で斬られようが火で炙られようが死ぬことはなく、その磁器人形の様な姿のまま老いることなく、やがてこの星が
背後で、小さな音がした。
振り返ると、白い椿の花が一輪、庭に落ちていた。
男は俺の前にかがみ込んだ。
男からは、古い魚の様な臭いが漂っていた。
「これはネ、供物となり、多くの人に長寿を齎す筈だったのに、たった一人のいっときの飢えを凌ぐためだけに死ぬことになってしまった、人魚の呪いです。供物を、己が欲望の為に盗み食べた罰です。呪いを解く術はなくはない。でもネ、それを望むということは、人であることを捨て、鬼になることを意味します。サテ、どうしますかナ?」
男は実現不可能な呪いを解く方法を言い、ホ、ホ、と嗤った。
「お前さんはこれから永劫の時をかけて罪を背負うことになる。だから儂はこれ以上お前さんを責めませんヨ。サア、お行きなさい」
俺は黙って頭を下げた。男は後ろを向き、部屋を出た。
「オ、そうだった。ひとつ、聞いてもいいですかナ?」
男は襖に手を掛け、振り向いた。
魚の様な目を細めて、微笑む。
「人魚は、旨かったですかナ?」
**
頬に水が掛かる感触。
目を覚ました。
俺は誰もいない海辺で倒れていた。
満ちかけた海が、頬を濡らしていた。
起き上がる。
あの家は、どこにもなかった。
傍らに落ちていた白い椿の花が、波に
**
最初、あの家での出来事は、只の夢だと思った。
だが、自分の体がそれを否定していた。
傷はどこにもなく、飢餓感もなかった。ぼろぼろの着物がなければ、それこそあの夜の出来事から全てが夢だったのではないかと思ってしまう位だった。
「人魚の肉を食べたせいで、並外れた長寿を得てしまった人」の伝説は昔からあり、なんとなく知ってはいた。だが、それが現実にあるなど、考えたこともなかった。
結局、何故あの家に迷い込んでしまったのか、何故魚の目をした男が、人々に人魚の肉を振る舞おうとしていたのかは、分からなかった。
俺は立ち上がり、再び歩き出した。
永遠に生きるかどうかは分からないが、少なくとも生き延びてしまった以上、生き続けなければならない。暫くして気付いたが、死なないとはいえ空腹や怪我、病気の苦しみは変わらない。死なないからと食べないでいると、飢餓感が果てしなく増大していくのだ。
言葉はおかしいが、死なない体を生かすために、俺は何でもやった。
どうやって生きて来たか、それは言えない。
人魚の肉を盗み食べた事は言えるが、糧を得るために何をしたかは言えない。
……ああ。そうだ。これだけは無理だ。
特に、ユニには。
**
その後、八百年の間、生き続けている。
その間に、世界規模の戦争を何度も経験した。
二度目の戦争の後、日本は平和と繁栄を手に入れた。前に少し話したが、この時の環境の変化が、人々の体格すらも変化させた。
その時の文明の話をしても、とても信じられないと思う。
……え、例えば? えーと。
何百人もの人間を乗せた鉄の塊が空を飛んだり。
人間が月に行ったり。
痛みを感じさせずに体を切り開いて、臓腑のできものを切り取り、又塞いで治したり。
……そうだな。夢みたいだ。
多少の波はあれ、この国は、この調子でずっと発展し続けると思っていた。
だが、それは続かなかった。
その後、三度目の戦争があった。
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