第4話 あなたが知りたい
温かい薬湯を口にした途端、体の中に滞っていた血が一気に巡りだすのが分かった。
「どんな重病人がいるかと思って来てみたら。ただの風邪だよ。大袈裟だなロンも」
ロンにどう言われてここへ来たのか、治療師は呆れたように溜息をついて帰って行った。
私が横になっている納戸の扉の向こうから、忙しい日常が伝わって来る。鬼による被害が減ったとはいえ、人間の犯罪や厄介事は相変わらず盛況だ。
納戸の中も静かなわけではない。ちょこちょこロンやユウが入って来て、書類棚を掻きまわし、出て行く。
まったく、紙を適当な所に斜めに押し込んだだけで片付けた気にならないで欲しい。今日は一日仕事をしてはならぬとロンに厳命されているが、これだけはどうしても気になって、こっそり直す。そうしてまた寝台に戻る。
**
見回りから帰って来た時のロンの様子は、当然と言えば当然だが、いつもと変わらなかった。
「診てもらったら薬飲んで寝ろ。今日は動くな。働くな」
私に向かっていつもの口調でそう言った後、仕事の波に飲み込まれて行った。
ユウの言うような変化など、何も感じられない。やっぱりあれは、ユウの考え過ぎなのだろう。
自分が叶わぬ恋に苦しんでいる時にふと目の前を見ると、ロンが私に優しくしている。アミは邪険にしていたのに。なんでだろう、そうだきっとロンはユニが好きなんだ、みたいな。
私の頭ではこの程度の想像しか出来ないが、ユウの頭なら少しの事実から壮大な恋愛絵巻を作り出すことが出来るのかも知れない。
そういう事にしておこう。あんな事を言われても、困る。
だからお願い、私の魂、もう、鎮まって頂戴。
**
気が付くと既に日は落ち、縁を僅かに茜に染めた藍色の空には、強い光の星が瞬いている。
そろそろ早番の人達が帰る時間だ。私はせめて挨拶だけでもしようと、納戸から顔を出した。
「お前、それ、よく言っているけど、あんまり大きな声で言わない方がいいぜ? 分かっているよな?」
リクがロンに向かって渋い顔をしている。リクは私の姿を認めると、ほっとしたように少し笑った。
「だが一番筋が通っているだろう。それにそう考えれば鬼なんか特別怖がるようなものではない」
「いや、怖えよ、
カンがいつもの説を唱えながら反論する。
「『怖い』とは『分からないもの』に対して抱く感情だ。だからカンが自分より力の弱い奥方を『怖い』と思うのは、彼女に対する理解が足りないからだ」
「捻じ曲げた屁理屈捏ねて誤魔化そうったってそうはいかねえよ!」
なんだか盛り上がっているが、一体何の話をしているのだろう。私は邪魔にならない様に少し離れた所で様子を窺った。
騒ぎが少し収まった時、ユウが躊躇いがちに声を上げた。
「あのな、本当の事を言うと、俺も、その説は筋が通っていると思う」
そこで小さく息を呑む。
「奴らの言葉を学んだ時にそう思ったよ。奴らの言葉と、俺らの言葉は根が一緒だ。あの複雑な言葉や文字を、奴らが一から作り上げた、と考えるのは不自然だよ。それに体のつくりだってそっくりだ。体格は全然違うけれど、臓腑の位置は多分俺らと一緒だ。だから、まあ、考えたくはないけど」
ロン以外の団員達の鋭い視線を受け、ユウは俯き、呟く様に言った。
「いつの頃からか見た目は違って来たけれど、人間も、鬼も、もとは同じ生き物で、遡れば、人間と鬼に、区別は、なかったのかな、って」
その説は、聞いたことがある。
人間と鬼は、もともと同じ生き物だった、という説。結構広く知られているものだ。
だが、それは「異端」の考えだ。確かに鬼は人間と見た目が似ているし、奴らも文字や言葉を持ち、服を着ている。だから物凄く遡れば一緒なのかもしれないが、その説のおかしな点は、人間と鬼が分かれたのは、たかだか数百年の間の出来事だ、とする所だ。
鬼は、昔からいた生き物ではないらしい。それはほぼ確実視されている。だから鬼がどの様に発生したのか、という説は色々ある。
だからといって、鬼が、ほんの数百年前まで人間だった、とは。
ということは、今ここに「人間」として生きている我々は、もしかしたらちょっとした加減で、「鬼」として生きていたかもしれない、ということなのだろうか。
そんな事、普通は考えたくない。自分達と鬼が、生き物として重なっているなんて気持ちが悪い。だから殆どの人が、この説を退けている。
だが、その説を唱えているのがロン、となれば、話は別だ。
彼の人生には、八百年の歴史が刻まれている。
「まあその話はともかくよ、巣の偵察はやっぱり反対だなあ。なんだかんだ言っても危険だ。元が人間だから怖くない、っていうのは違う気がする。って、もう結構な時間になったから俺今日は帰るわぁ」
リクの言葉を合図に、早番の人達は帰路についた。
**
早番の人達を見送った後、私はまたうとうとしていたようだ。少し前に遅番の人達が帰った気配がした。
起き上がり、寝台を整える。毛布を掛け直し、気が付く。
今夜、ここでロンが寝るんだ。
毛布を持ち上げ、ばさばさと振ってみる。敷布を何度も何度も引っ張って皺をなくし、毛布を掛け直す。
なるべく平行に、直角に、人工的に。
寝台についてしまったかもしれない、私の気配を消す様に。
だって、自分の気配の残った寝台をロンが使うと思うと恥ずかしいし。なんというか、気配を残したままにすると、私の魂の欠片が、一晩中ロンの傍に寄り添って眠る様な……。
無駄に頬を火照らせて納戸を出ると、ロンは机で何かを読んでいた。彼は私に気付くと顔を上げ、微笑んだ。
穏やかで柔らかな、「龍一郎さん」の表情で。
「大分良くなったようだな」
立ち上がり、私のもとへ歩み寄る。
目の前で止まり、右手を上げる。大きくて温かな手が、私の額に触れる。
「よし」
右手を離し、軽く頷く。
私の前髪が、彼の掌を名残惜しむ様に額の上を流れる。
「昨日から、色々ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。鬼に攫われかけたり、風邪を引いたり」
「どれも済んだことだ。明日からは今日の分を取り返す様に働け」
「ロン」の口調でそう言った後、「龍一郎さん」の表情で微笑んで、机に戻った。
「もう物置へ戻れ」
そう言われ、私は頭を下げて扉を開けようとして、立ち止まった。
ロンの方に向き直る。彼は読み始めていたものから目を離し、こちらを見た。
「あの」
聞いていいものなのか分からない。だが、さっきの話の事もあるし、出来る事なら聞いておきたいことがある。
今なら、聞ける気がする。
たとえ近々、彼に捨てられるにしても。
聞いておきたい。知りたい。全て。
「お聞きしたいことがあります。時間、頂けますか?」
ロンは怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げたが、頷いてくれた。
「さっき、鬼はもともと人間だった、っていう話が出ていましたよね。あれ、本当なんですか」
「ああ」
なんだそんな事か、とでも言わんばかりの簡単さでロンは答えた。
「ロンは、いつ頃から『人間』と『鬼』が分かれたか、知っているんですか?」
「大体は。俺が生まれてから数百年は確実にいなかった」
新しい仕事を教える時と同じ淡々とした口調で話す。
「『人間』の一部が『鬼』と呼ばれて大々的に暴れる様になったのは、せいぜい二~三百年位前からだ。どうせ信じて貰えないし、声高に主張して『あんなことを言うなんて、あいつ、やっぱり鬼の血を引いているんじゃないか』とかなんとか言われても嫌だから、詳しく語ったことはないが」
「だって、その説は異端ですから」
「人々の否定したい気持ちは分かるが、そう考えるのが自然だろう。ある日突然、地の底から新しい生き物が湧いてきたと考える方がおかしい。聞きたかったことは以上か」
彼の言葉に、私は首を大きく横に振った。
「なんだ、まだあるのか」
今度は首を大きく縦に振る。
今の鬼の話は、聞きたい話のごく一部、話のきっかけに聞いたようなものだ。だが、首を縦に振っておきながら、私の心の中に急に躊躇という名の糸が絡みついた。
聞くのは、失礼ではないか。
話させることは、彼を傷つけることに等しいのではないか。
聞いたところでどうなるのだ。私に救う方法が思いつくとでもいうのか。
このまま、知らないまま、別れた方がいいのではないか。
絡みつく糸に捕われ、困り果ててロンの方を見ると、彼は真っ直ぐに私を見つめていた。
よし。
「ロンは私の大切な主人です」
私の言葉に、彼は少し眉を顰めた。
「失礼な事は出来るだけしたくないし、傷つける気もありません。でも」
躊躇の糸を断ち切り、前を向いた。
「ロンが八百年生きているのを知っているのって、私だけですよね。であれば、教えて欲しいんです、ロンの八百年を。私が繰り返し夢に見ていたあの夜から今日までの、八百年を」
ロンは私の方を見ている。私は言葉を続けた。
「お話になりたくないっていうのでしたら、勿論無理は言いません。でも、知りたいんです。ロンの事が。ロンの苦しみも、悲しみも、そして、罪も。そして私は、その苦しみとかを、分かち合うことで、少しでも被りたいんです。……えーとなんといいますか、うまく言えないんですけれど、私にとって、ロンは大切で」
違う。
私にとって、ロンは「一番大切な人」だ。
ただ一人の、愛する人だ。
だから知りたいんだ。
その人生も。苦しみも。悲しみも。罪も。
そして私も共に苦しみたい。私にその苦しみを和らげることは出来ないかもしれないけれど、せめて共に苦しみを分かち合うことで、彼の魂に寄り添いたいんだ。
共に魂の涙を流し、そして頼りない事この上ないにしても、八百年という年月を耐えて来た魂を、支えたいんだ。
私は、あなたを愛しているから。
そう、言葉に出来たらどれだけいいだろう。
折角話せる様になったのに、肝心な事は声に出せない。
言い訳の様な
外は風が強いらしい。風は
「長くなるから座れ。信じられないなら信じなくて構わない。只のオヤジのおとぎ話だと思ってくれ。俺は――」
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