第2話 俺にとって、それは
遅番の最後の見回りが終わる時間になっても、ロンは帰って来なかった。
遅番の団員達は、ロンが帰ってくるまでここにいてやろうか、と言ってくれたが、断った。
彼らには、彼らの帰りを待つ、家族がいる。
**
私は詰所の
夜は静かに更けていく。
暖炉の火を消した詰所の中は、少しずつ寒気に満たされていく。角灯の灯りが、頼りなげに部屋の中を照らす。
今夜は雨が降るのだろう。空には月も星もなく、漂う空気は泣き出しそうに湿っている。
もうすぐ、ロンがいなくなる。
昨日の夜から、考えているのはその事ばかりだ。
外見と年齢の差。言われてみれば、今だってかなり無理がある。このまま十年二十年、今と同じ姿でいれば、人々は不審に思う。別の場所に移り住むにしても、往復が日帰りで出来てしまうような隣村あたりでは、知った顔に出会ってしまう可能性がある。
だから、ロンはもうすぐあてのない彷徨に出る。
この村と、私を置いて。
「私も行きます」
灯りの向こうの暗闇に向かって呟く。決して聞き入れてもらえない私の願いは、湿った暗闇の中に吸い込まれて、消える。
私も行きたい。たとえどんなに彷徨が苛酷であっても、あなたと離れるほうがつらい。そう、口に出して言いたい。
だが、無理だ。
買われた人間は、主人の決定に従う。
主人が捨てると言ったら、捨てられる。
そして、主人に恋をしたって、報われるわけがない。
**
窓辺に立つ。外をよく見ると、雨が降り出していた。
ロン、雨具を持っていなかったんじゃないか。こんな夜中、雨に打たれて馬に乗っていたりしたら大変だ。私は暖炉に再び火を入れ、ロンが帰って来た時に濡れた体を拭いてもらおうと、近くに手拭を置いて温めた。
ロンは幾度、夜の雨に打たれて独り彷徨ったのだろう。
暖炉の光を受ける手拭を見て、思った。
そもそもどうして、あんな呪いが掛かってしまったのだろう。「罪を犯した」と言っていたが、彼の事だ、きっと悪意があって犯した罪ではないのだろう。
そしてその呪いを、解く
そんな事を考えている時、詰所の扉を叩く音がした。
こんな夜中に、なんの用だ。ロンや他の自警団員ではないのは確実だ。私は扉の覗き窓をそっと開けた。
扉の向こうには、見た事があるようなないような男が二人、立っていた。
誰だっけ、名前は知らないけれど、なんか見た事がある。
えーと、あ、昨日の夜、窓から見かけたご機嫌な酔っ払いか。私は扉を閉めたまま声を掛けた。
「どうしましたか」
「おおぉい、ロンいないか、ロンー」
「はい。もうすぐ帰ってくると思いますが」
「もうすぐぅ? 雨寒いぃー」
このおじさん達、飲み過ぎてうっかり雨に降られたんだろうか。確かに寒いだろうが、自警団は酔っ払いの面倒まで見ていられない。私は扉を開けて顔を出した。
「寒いかもしれませんが、ここは」
扉を開けた瞬間、自分の犯した過ちに気が付いた。
だが、遅かった。
鼻につく、
「酔っ払い」達の間から、皮の面をつけた鬼が一頭、立ち上がる。
三頭は、私を見て、「ぐふ」と笑った。
**
私が叫び声を上げた直後、酔っ払い、いや、子鬼の一頭が私を羽交い絞めにし、もう一頭が猿轡を嵌めた。これ、前にアミが誘拐された時に使われていたものと同じだ。皮と鬼の臭いが混じった様な強烈な臭気が鼻を襲う。
「…………」
口を塞がれた私を見て、三頭が何か話している。
大人の鬼が私を担ぎ上げようとした時、子鬼の手が離れた。その隙を狙って暴れて逃げ出そうとしたが、子鬼に後頭部を叩かれ、私は地面に膝をついた。
雨でぬかるみ始めた地面が冷たく膝と掌を責める。後頭部が鈍く痛む。雨が襟足から背中に入り込んでくる。
「…………!」
子鬼が甲高い声で何かを叫び、私の背中を踏みつけた。同時に、びり、と腰のあたりに鋭い痛みが走る。背骨を踏まれ、腰に負荷が掛かったらしい。私が動けなくなったところを、大人の鬼が再び担ぎ上げた。
「…………」
大人の鬼に何か言われ、子鬼が懐から紙を出し、詰所の扉に貼る。うまく貼れないのか暫く手間取っていたが、やがて三頭は私を捕え、歩き出した。
多分、アミの時と同じだ。
鬼の肩に乗せられながら、そう思った。
扉に貼ったのは前と同じような脅迫状だろう。こいつらは、酔っ払いを装って詰所の様子を窺い、今日は私一人になると踏んだのかもしれない。
私の身柄と引き換えに、武器や食料、そしてロンの命を狙っている。
私に、そんな価値はないというのに。
霧の様に細かな雨は、知らぬ間に全身を冷たく濡らしていた。鬼共は厩の方へ向かっている。馬を盗んで逃げるつもりなのか。
後頭部が痛い。雨が冷たい。寒い。
怖い。
少し体を動かしたら、動きそうだった。さっきの腰の痛みは一時的なものだったのか。私は鬼の肩の上で体を捻って抵抗した。鬼がくぐもった声で何かを言い、手に力を入れる。だが私は首を振り、体を離そうともがいた。猿轡が苦しい。大して声は出ないが、それでもありったけの声を出して呻く。
嫌だ。こんな所で捕まるのは嫌だ。逃げてやる。
怖い。苦しい。臭い。痛い。私を離せ。この手を放せ。捕まるもんか。
私の身柄なんかで、ロンを危険に晒す様なことはしたくない。
音のない雨の中、低い蹄の音が聞こえた。鬼共 が何かを叫び、立ち止まる。
私を担いでいた鬼は低い声を上げ、私を地面に放り投げた。泥の中に強く体を打つ。視界の端に、子鬼どもが甲高い叫び声を上げて逃げ出しているのが見えた。
一人残った鬼が、腰に差していた短い鉄棒を手にし、馬に向かって構える。だが奴はその姿勢のまま、低い声を上げて身を震わせた。
肩のあたりに、短刀が刺さっている。
馬は鬼と私の目の前で止まった。
馬から降りたロンが、双眸を吊り上げ、刀を抜いた。
**
大した武器を持っていなかった鬼は、ロンの一撃のもとに斃された。ぬかるみに倒れた鬼から黒い血が溢れ出し、雨に流されてゆく。ロンは刀を納めると私のもとへ駆け寄って来た。
「ユニ、怪我は!?」
私の体を引き起こし、猿轡を外しながら叫ぶ。言われて改めて自分を見たが、怪我というほどの怪我はしていない。私が首を横に振ると、彼はぬかるみの中に跪いて私の体を強く抱きしめた。
「あぁ……」
吐息の様な低い声が耳元で響く。雨と泥で濡れた着物を通して、彼のぬくもりと強い力が伝わって来る。
霧の様な雨が、私達を冷たく濡らしている。
**
詰所の中に入った途端、暖気がじゅわりと体を包み込んだ。
ロンは雨を吸い込んだ外套を脱ぎ捨てると、暖炉の前に置いておいた手拭を手に取った。
「あ、それ温かくなっていると思いますので、使っ」
私が言い終わらないうちに、彼はその手拭で私の頭を覆った。そして手拭の端で私の顔を拭く。
温かな手拭が、私を柔らかく包み込む。
「寒いだろう。済まなかった、帰るのが遅くなって」
自らは黒髪をぐっしょりと濡らしたまま、私の顔を覗き込み、囁く。
そんな。「済まなかった」なんていう言葉をかけて貰う資格は、私にはない。
油断をして鬼に誘拐されかけた。
迷惑をかけたのは、私だ。
**
その後ロンに、暖炉の前で着替えていけと言われた。
「えぇ。じゃあロンはどこにいるんですか」
「俺は納戸で着替える。……なんだ、その顔は。俺は覗いたりなんかしないぞ、ユニじゃあるまいし」
「いいいい一体いつの話を蒸し返しているんですかっ!」
別に覗かれるなんて思っていないが、それでもなんとなく恥ずかしいんだ。
「じゃあ俺は物置で着替える」
私がもじもじと躊躇っていると、今度はそんな事を言い出した。流石にそれはと押しとどめ、暖炉の前を占領して着替えを済ませた。
**
納戸から出て来たロンは、扉に貼られていた紙を剥がし、暖炉の前で読むなり眉を顰めた。
「やはり、同じか」
紙を卓に叩きつけ、椅子に座って腕を組む。
「アミの時と同じ感じですよね」
私の言葉に、ロンはこちらを向いた。
「それもそうだが、今日行ってきた村と同じ状況だ」
そう言って暖炉の方を向き、火を睨む。
「ス村と?」
「ああ」
険しい顔を崩さないまま、話を続ける。
「あそこは全滅こそ免れたが、状況は最悪だ。いずれ、村ごと滅びるだろう。そのあたりの詳しいことは、明日、皆の前で話す」
「人は残っているのに、滅びるんですか?」
私の言葉に、ロンは頷いた。
「鬼の巣の入口とされている場所は幾つもあるが、それらは独立した巣穴ではない。地下には広大な空間が広がっていて、そこから地上への通路が幾つも伸びているんだ」
「え、それって、物凄いことじゃないですか。それだけの地下空間を作るのって大変ですよね。奴らにそんな頭があるとは思えないんですけれど」
私の言葉に、ロンは少し首を傾げた。
「鬼と人間に知力の差はない。奴らの身なりや態度を見て動物並みとなめてかかると痛い目に遭う」
そう言って卓に置いた紙を軽く叩いた。
「話を戻す。鬼共は広大な地下空間の中に棲みついている。だから人間の村単位を超えた移動を地下で行う事もあるだろうし、情報の交換や共有をすることもあるだろう。今回、奴らはス村を攻撃し、恐らくは奴らの狙いは達成された。だから奴らは同じ手口を使って、この村を狙っていると俺は考えている」
「それは、どういった」
「色々あるが、そのうちの一つが、これだ」
ロンは再び紙を叩いた。
「向こうの自警団の生き残りから話を聞いた。これは役所の報告に書かれていなかったんだが、彼らの自警団長は、村を襲撃されるひと月前に亡くなっていたそうだ」
「そんな大事な事、報告で他村に流さなかったんですね」
「ああ。その理由は話を聞いた人達は知らなかったから何とも言えないが、恐らくは、役場や自警団の見栄か、あるいは鬼からの指示」
「鬼の?」
軽く頷く。
「その辺りは明日。兎に角、自警団長は亡くなっていた。鬼に襲われたせいなんだが、その手口が、これと同じなんだ」
「これ、って、誘拐って事ですか?」
「そう。ス村の自警団長は娘との二人暮らしだったそうだが、その娘を誘拐されたそうだ。自宅の扉に、汚いながらも人間の文字で書かれた脅迫状が貼ってあって、それには『娘を返して欲しければ、食料と武器を自警団長自ら指定の場所へ運んで来い』といった事が書かれていた、と」
「えっ」
それって、アミの時と一緒じゃないか。
アミの時はユウを挟んでいたが、要求するものは同じだ。
じゃあ、この紙にも同じような事が書かれているのだろうか。
「奴らは、その手口で対象の人間の理性や判断力を失わせ、自警団長が一人、鬼の前に姿を晒す様な真似をさせる。そして経験の長い自警団長がいなくなり、村の統制が取れなくなった隙を狙って、一気に攻撃する」
ロンは椅子から立ち上がった。
暖炉の火が、彼の彫りの深い、白い顔を浮かび上がらせている。
「奴らは、対象の人間の一番大切な人を誘拐する」
暖炉の火を、睨み付けている。
「ス村の自警団長にとって、それは娘。ユウにとって、それはアミ」
暖炉に照らされた顔を、私の方へ向ける。
「俺にとって、それはユニ」
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