第11話 十六夜
呆然と立ち尽くすロンの姿を見て、「加耶子さん」は口元に軽く手を添えて微笑んだ。
「いやだわ、折角ユニさんの体をお借りしてお話出来る様になったのに、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしないで下さいな」
「加耶子さん」の言葉に、ロンは俯いて少し恥ずかしそうに微笑んだ。
ああ、今、彼は「龍一郎さん」なんだな。
「お久し振りです。私も、まさか今になって加耶子さんとお話が出来るとは思いませんでした」
ロンの話す言葉も、頭の中では理解出来るが、実際に彼が発している声は全く別のものだ。これが、この国で八百年前に使われていた言葉なのだろうか。
「龍一郎さんが私の魂を見つけて下さった時は、本当に嬉しかったわ。でもね、もとはと言えば
加耶子さん、案外ぐいぐい攻め込むたちなんだな。なんだかロンが可哀想になって来た。
**
「呪いが、掛かってしまったのですね」
先程までの冗談めかした口調から一転、「加耶子さん」は、ふっと声を落として呟いた。右手を揃え、ロンの胸元を示す。
「あれほど気高かったあなたが、このような罪を犯してしまったのも、私の」
「加耶子さんのせいではありません」
いつもの「ロン」の様に、声を震わせる加耶子さんの言葉を遮り、強く語り掛ける。
「これは、私が選び負ってしまった罪です。死を受け入れることの出来なかった中途半端な私の心根が引き起こした結果です。加耶子さんは、何も悪くない」
加耶子さんの魂に罅が入る。
体を震わせ、俯く。
両目の奥が、つん、としたかと思うと、みるみるうちに涙が溢れ、頬を伝う。
絞り出すように、魂の奥から声を出す。
「ごめんなさい」
「加耶子さん」の言葉を受け、ロンはゆっくりと首を横に振った。
右手を差し出し、「加耶子さん」の手元で止め、指先を軽く曲げて下に降ろす。
「加耶子さん」は、その、自らに触れる事のなかったロンの右手を見る。
視線が、彼の薬指の付け根、少し中指寄りの所にある小さな
「龍一郎さんの言う事を、受け入れるべきでした。あの時、私達は別れなければならなかった。でも出来なかったのです。私は、あの時、あなたしか見えていなかった。一、二度会っただけのひとのもとへ嫁ぐなんて、考えられなかったんですもの」
加耶子さんの魂が震える。
暫く、言葉が止まる。
「主人は……氷室は優しくて、私も、子供達も大事にしてくれました。
私は。魂の中では、続く言葉は決まっていた。でも、声に出さなかった。
「加耶子さんの嫁ぎ先が氷室さんの所だったからこそ、私も『あの日』の昼、あんな事を言いました。あの人は父の家によく出入りしていましたから。素晴らしい人だったでしょう?」
ロンの言葉に、「加耶子さん」は黙って頷いた。彼は柔らかく微笑むと、「加耶子さん」の瞳を覗いた。
「私達は、いずれ別れなければならなかった。駆け落ちなど、出来るわけがなかったのです。加耶子さんの家の事もありましたし、私はあの時、自分一人漸く糊口を凌ぐ状態でした。現実的な問題として、もし私達が一緒になったとしても、私にはあなたの着物を
ロンの言葉を、「加耶子さん」は魂の中で何度も咀嚼していた。
そしてふいに、「加耶子さん」はロンの瞳から視線を外し、俯いて「私」を見た。
「私」の、毛織物の着物と革製の深沓を見た。
「ごめんなさい。でも、父が」
「あれはあくまでも加耶子さんの
ロンは「加耶子さん」を見つめた。
そして微笑む。
全てのものを大きく大きく包み込むような、柔らかな微笑で。
「もし、加耶子さんの魂が、八百年の間彷徨う事になってしまった原因が私なのでしたら、もう、思い悩まないで下さい。私はあなたを恨んだりなどしていませんし、あなたは何も悪くない。私はあなたが苦しみ彷徨う事など望んでいません。ですから」
ひとつ、息を呑む。
「もうこれで、本当にお別れしましょう。そして加耶子さんは、お行きなさい。氷室さんの魂はきっと、八百年の間ずっと、あなたの事を待っていますよ」
ぱん
「私」の体の中で、何かが
――龍一郎さん
どこか遠い所からか、すぐ目の前からか、分からない「どこか」から声が聞こえる。
――私は、幸せでした
その声にロンは微笑み、頷いた。
――あなたと出逢えたことも、あなたと心を通じ合わせたことも、幸せでした
――でも、氷室のもとへ嫁いでからも、私は、幸せでした
ロンは微笑を湛えたまま、声のする「どこか」へ語り掛けた。
ゆっくりと、穏やかな声で。
「その言葉を、待っていました」
詰所の薄暗い室内に、ひたひたと光が満ちる。
やがて光は震え、少しずつ消えていく。
――私達はいつの間にか、互いへの気持ちが、慕い合うものではなくなっていたのですね
「私は自分が、加耶子さんの幸福の枷になってはいないか、そんな風に考えていました。そうですね。その気持ちは、慕う心とは違うと思います」
光は急速に消えていく。
光のあとに、あたたかな余韻だけが幽かに漂う。
――ねえ、龍一郎さん
――ユニさんと、外をご覧なさいな
光の最後の一粒が、楽しげに揺れる。
――私も向こうで、氷室と見るわ
そして最後に一言を残して、光が消えた。
――ありがとう存じます、龍一郎さん
――さようなら、ごきげんよう
**
詰所の中は、角灯の仄かな灯りだけが寒々と照らしていた。
「ロン」
声を掛けていいのか分からなかったが、つい声に出してしまった。彼は暫く「どこか」を眺めていたが、やがて私の方を向いた。
「ユニ、あ、ユニでいいのか? アイ?」
「どっちでもいいです」
「じゃあ言い慣れたユニで」
んん、と咳く。
「ユニ、ありがとう」
彼の微笑に、私は何とも言えない気持ちになる。
「私はいいんです。それより、本当に良かったんですか? 多分、加耶子さんの魂はナントカさんの所へ行っちゃったんですよ?」
「いいんだ。俺はそれを望んでいた」
そう言う彼の顔を覗き込んだが、菫色の瞳に嘘の影は読み取れなかった。
「え、だって、加耶子さんの事、す好きなんじゃないんですか」
噛んじゃったよ私。だがロンはそんな私の様子を気にかけるでもなく穏やかに答えた。
「『好き』と『嫌い』という言葉なら、勿論『好き』だ。だが」
私の心が痛むより早く、彼は言葉を続けた。
「これは、恋慕ではない。昔、確かに抱いていた恋慕の情は、いつの間にか、自分が彼女の足枷になっていたんじゃないかという罪悪感に変わっていった」
少し間をあける。そして彼は少し上を向き、言った。
「いつの間にか、互いを想う気持ちが変化していたんだ。だから俺は、彼女の魂が氷室さんのもとへ行けたのを心から嬉しく思っているし、その状況をもたらしてくれたユニに感謝している」
え、いきなり私?
私は別に大したことはしていない。なんとなく、「私は私で加耶子さんじゃない」と口にしたことによって、加耶子さんの魂が私から離れたのかな、とは思うのだが、礼を言われるような事は何もしていないと思う。
だが。
もし、私の体を通じて「加耶子さん」とロンが話せたことによって、二人の魂が救われたのなら。それはとても嬉しい。
私は彼を見て、微笑んだ。彼は私を見て、微笑を返してくれた。
ひとりになった魂が、きゅう、と、ちいさく啼いた。
「少し、外へ出ないか」
ロンは唐突に詰所の隅に掛けてあった外套を手にし、そんな事を言った。
あ、さっき加耶子さんが言っていたからか。私の外套は物置なので、そのまま外に出ようとする。
「外套は」
「あ、物置です」
そう言い終わらないうちに、私の肩にふわりとロンの外套が掛かった。
「どうせすぐ戻る。これを使え」
こういう口調の時は遠慮も反論も無駄だ。私は礼を言って頭を下げた。
厚手の毛織物の外套と、彼の気配に抱かれて外に出る。
**
扉を開け、外に出た途端に、私は「わぁ」と小さく声を上げた。
空には星が瞬き、その中央に、見事な月が白く冷たい光を放っていた。
そうか、昨日が満月だったから、今夜もこんなに月が明るいんだ。
ロンも月を見上げ、少し頬をほころばせた。
もしかして、加耶子さんはこれが見せたかったのかな。私はなんだか嬉しくなって、ロンに声を掛けた。
「ねえロン、見て下さい」
私の声を受けて、彼が私を見た。私は少し興奮気味に言葉を続けた。
「月が、綺麗ですね」
私の言葉に、ロンは驚いたように一瞬目を見開いた。
そしてすぐに俯き、首を一回横に振る。
なんだ、共感してくれないのか。まあいいや、何考えているのかよく分からないのはいつもの事だし。私は勝手に話し続ける事にした。
「私、小さい頃からずっと月が大好きだったんです。優しげな細い月も、堂々とした満月も好き。でも、今夜みたいな、大きくて堂々としているのに、少しだけ欠けた月が一番好きかも知れません。きっと少しだけある闇の部分が気になるんだと思います」
相槌を打ってはくれなかったが、彼が私の言葉に真剣に耳を傾けてくれていることは感じた。
「月の満ち欠けを鬼と結び付けて考えてばかりじゃ、月が可哀想だと思います。月に罪はないんですもん。私、子供の頃、月が欲しいなあって思っていたんです。あれは凄く遠い所にあるんだよって言われても、いいや絶対手に入れる、そしてずっと身につけて、持っているんだって。何考えていたんだか、って感じですけれど」
相変わらず相槌は打ってくれない。
だが私の方を、じっと見つめている。
「ねえロン、ロンは、月が好きですか?」
暫くの沈黙の後、ロンはふっと笑って俯き、月を見上げて呟いた。
「あなたは、最後まで
私に向かっての言葉ではなさそうだ。
加耶子さんに、言ったのだろうか。
ロンは視線を私に戻した。
口を開きかけ、閉じる。
月を見上げ、口を開く。
「昔は、太陽が好きだった」
彼はゆっくりと歩き出した。私は彼の少し斜め後ろを歩く。
静かな夜だ。時折民家から、怒鳴ったり笑ったりする声が微かに聞こえる。
二足の革製の深沓が足音を立てる。
月が白く輝いている。
「太陽の眩い光や、あたたかな熱に惹かれていたんだと思う。自分にはないものに引き寄せられていたのかも知れない。だがある日、下手に太陽に手を伸ばそうとして、結構酷い火傷を負った」
酷い火傷って、一体何をやらかしたのだろう。ロンはその火傷の経緯には特に触れず、話を続けた。
「結局、太陽は手に入れるべきものではなかった。俺は暫く未練を持っていたが、やがてそれは消えていった。そして太陽があるべき所で輝いてくれるよう、願うようになった」
流石に寒いのだろう、彼は少し震え、肩を抱いた。
私が外套を外そうとすると、そのまま着ているよう言われてしまった。
「月を眺めるようになったのは、最近になってからだ」
立ち止まり、私を見た。
私と目が合うと、また視線を月に戻した。
「初めて月を意識したのは、朝だった。その月は太陽の輝きに隠れて、地平線の端にしがみついて震える様に光っていた。細く、輝きも僅かだったが、きっとその身には澄んだ光を湛えているのだろうと思った」
朝の月か。きっと朝の陽の光に隠れて、それでも精一杯輝こうとしていたのだろう。
「それから月をよく眺めるようになった。月の光は太陽程強烈ではなく、熱も持っていない。だが確かに輝いていて、夜道を照らし、俺達自警団を見守り、精一杯助けてくれている。だから俺らは皆、月が好きなんだ」
そうなんだ。皆、月が好きなんだ。そう言われると、なんだか嬉しくなってしまう。
「月は毎日、違った姿を見せる。儚げに震えている時もあれば、ふっくらとした笑顔で周囲を照らすこともある。俺は毎日、月の姿を追い、月に掛かる雲があれば、それが月の顔を曇らせる事のないよう、風になって月を守りたいと思うようになった。雨で月が涙を流せば、その雨を全てこの身に受けて飲み込んでしまいたい、月が輝く為ならば、死なないこの体を盾にしたいと」
ロンがここまで言った時、私は漸く気が付いた。
もしかしたら、彼は月に何かを重ね合わせて話しているのかも知れない。
「太陽はあるべき所で輝いている。俺はいずれ、月を見る事を諦めなければならない。呪われた、死も老いも失った体を、いつまでも月の前に晒してはおけない。だが、もう少し、もう少しだけ、俺は月を見ていたいんだ」
風が吹いた。寒期特有の、剃刀の様な鋭い風。
風がロンの髪を揺らす。
「ユニ」
少しだけ欠けた、白い月が輝いている。
ロンは月を背に、私を真っ直ぐに見て、言った。
「月が、綺麗だな」
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