第10話 魂の声
自らの魂に
すると詰所の部屋の方から「何か問題あった?」というユウの声が聞こえた。
うわぁ、そうか、考えてみればそうだ、ユウが詰所の中で書類仕事をしていたんだ。ロンと二人きりだったわけじゃないんだ。
何か変な事喋っていないよねえ、大声出していないよねえ、と脇に変な汗をかいて思い返す。
「問題? あったあった、また国境で移動商人共が揉め事起こしやがってよ……」
一気に詰所の中が日常に戻る。ロンは私に「もう少し休んでいろ」とだけ言い残して納戸を出た。
**
国境で移動商人達が揉め事を起こすのはしょっちゅうだ。特にセ村が面している、ユウの故郷でもある隣国は貧しく、政治もまともに機能していないらしい。だから隣国の商人達はトン国で稼ぐのに必死で、違反行為をよく行う。
昼間の騒ぎも、加耶子さんの魂の事も一旦お預け。「休んでいろ」とは言ってくれたものの、本当に休んでいたら書類や備品をぐちゃぐちゃにされて却って仕事が増える。私は寝具を整え、納戸を出る事にした。
寝具を整えている時、毛布から微かなロンの気配が立ち昇り、魂がちいさく、きゅう、と啼いた。
見回りの団員達が抱えて帰って来た案件は移動商人の事だけではなく、空き巣だの喧嘩だの事故だの盛り沢山で、団員達以外にも引っ張って来た犯罪者や揉め事の当事者で詰所の中はごった返していた。
だがこれはいつもの事だ。ロンと私が休んでいた間、村民が面倒を持ち込んで来なかったんだから、今日は
そしてこれもいつもの事だが、ロンは揉め事の当事者達に大人気だ。今日も彼の耳の右と左で別件の揉め事の当事者達が必死に訴えている。
流石のロンも左右の訴えを聞くことは出来ず、順番に並ばせて話を聞く。その内容をユウが書き取り、それを確認しながら仲裁し、その言葉の隙を縫って他の団員が相談を持ち掛け……。
ロンは死なないらしいが普通に疲労はするらしい。ふっと後ろを向いた時、誰に言うでもなく独り言を呟き、軽く溜息をついた。
私にはそれが、「ぴーしーが あればな」と聞き取れた。
**
今日も月が明るい。
遅番の最後の一人が帰ってすぐ、私は詰所で一人書類仕事をしているロンの前に立った。彼はペンを走らせる手を止め、私を見て柔らかく微笑む。
夢の中で、「加耶子さん」へ向けていたものと、同じ微笑。
「どうした、ユニ」
部屋の中に滲み渡る様な、低く穏やかな声。
また魂がちいさく啼く。
「アイ、と言います」
軽く首を傾げる彼に向かって言葉を続ける。
「以前、私の名前を教えたら、ロンの本当の名前を教えてくれるって言っていたじゃないですか。でも、なりゆきでロンの名前の方が先に分かっちゃって、なのに、私の名前を、聞いてくれないから」
自分がどうしてこんな事をいきなり話し出したのか分からない。私の名前なんか、主人と買われた人間の間では、「私」であると認識できる記号があればそれでいい。それに「アイ」という名前は男女共に一番多い名前なので、実はあまり好きではないのだ。
それなのに、わざわざ残業中の主人を呼び止めてまで、何故今更。
「そうだな、失礼だった」
私の唐突な言葉を受けて、彼はペンを机に置き、言った。
「『ユニ』は商人が使う数え方の一つだ。話せるようになったのに、数字で呼び続けていたようなものだ。これからは『アイ』と呼ぶよう皆にも伝えよ」
「いいんです。そんなにこの名前好きじゃないし」
ロンの言葉を遮ってまで、私は訳の分からない事を言い出す。じゃあいちいち言うなよ、と心の隅で誰かが呆れている。
「私の知っているだけでもこの辺で『アイ』は二人います。それに『ユニ』は普通の名前としてもありますし。だから今のままでいいんです。でも」
話し続ける。話し続けているうちに、自分が何故いきなりこんな事を言い出したのか、心の内が見えて来る。
見えて来て、心の内が震える。
ああ、どうしよう。
こんな事、言ってどうなるものでもないのに。
「『アイ』は『ユニ』でもありますが、一人の独立した人間なんです。『加耶子さん』じゃないんです」
加耶子さん、の言葉に彼の表情が少し動く。
「ごめんなさい。こんな事、私なんかが言える立場じゃないのは分かっています。後でちゃんと折檻も受けます。でも」
言葉が止まらない。考えもまとまっていないのに、言葉が止まらない。
言うな、と心の隅が警告をする。言っても仕方のないこと。それに言えばロンを傷つけるかも知れない。
「私、子供の頃からずっと自分の事を『加耶子さん』だと思っていました。夢はあくまでも夢で、私は夢の中で『加耶子さん』になっていて、『龍一郎さん』と、出会うんだって。でも違うんですよね。あれは『加耶子さん』の魂が見せていたものなんですよね。加耶子さんは只、自分の記憶を私に見せていただけなんだ。だから」
だから、何だ。考える。だから、の言葉の次が思い浮かばない。でも口は止まらない。
「私は『加耶子さん』じゃない、魂は別なんです。なのにロンは」
ロンは机の上で手を組み、黙って私の話を聞いていた。私は続けた。
続けてしまった。
「私と、加耶子さんを、一緒にする事があります。私を見ているはずなのに、目に映っているのは加耶子さんの時があります。重傷を負っている時の言葉を真に受けるのはあれかも知れませんが、私を見て『加耶子さん』って言ったことが何回かあります。私、加耶子さんに似ていますか? 夢だと顔が分からないんですけれど、多分違いますよね」
何故、間違えられるのが嫌なのか。その根となる心は固く封印し、心から飛び出さないように押さえつける。
「私と加耶子さんが違うなら、私を通して加耶子さんを見ないで頂きたいんです。ここに加耶子さんはいるんでしょうけれど、でも、私は私で、加耶子さんじゃないんです……」
ぱん
体の奥から微かな音が聞こえ、私は口を
私の様子を見て、ロンが椅子から立ち上がる。
何? 今の音。多分、体内の臓腑がどうにかなって鳴った音じゃない。
体の奥にずっとあって、だから今まで気がつかなかった重い何かが外れた様な感覚。体の奥が、すっと軽くなる感覚。
今、何が起きたんだろう。
体の奥に意識を集中させる。
すると突然目の前に、鮮やかな映像が浮かび上がった。
**
部屋の中だ。若緑色の草の敷物が敷き詰められた広い部屋。部屋の中央には寝床が二つ、敷物の上に直接敷かれている。天井からは強烈な光を放つ球体が吊り下げられており、球体の周りには硝子らしきもので出来た、凝った形の傘がついている。
そして「私」は、部屋の隅に膝を折って座って……。
違う。
これは「私」ではなく、「加耶子さん」だ。
加耶子さんの記憶は彼女の目を通しているから、私は「私」の視線だと思ってしまったんだ。
「ロン」
思わず彼を呼んだものの、今、ロンがどこにいるのか分からない。視界いっぱいに広がるのは、見た事もない、多分八百年前の光景だ。
曖昧に手招きをする私の手を、ロンの手が取った。その感覚は分かるのだが、視界が加耶子さんの記憶に占領されている。
こんな事、初めてだ。こんなに鮮明に、起きた状態で、記憶が見えるのは。
「今、加耶子さんの記憶が見えています」
これは私にしか見えないんだろうか。ロンに見せてあげる事は出来ないんだろうか。私の思いに関係なく、記憶はどんどんと進んでいく。
**
加耶子さんは部屋の隅で、膝を折って座っている。硬く握りしめられた拳を膝の上に乗せている。心の中に、恐怖と嫌悪感が充満している。
紙の引き戸を開けて、男性が部屋に入って来た。
四十歳過ぎ位に見えるが、もっと上かも知れない。綺麗に切り揃えられた髪には白いものがかなり混ざっている。腹部にやや貫禄があり、目尻の下がった優しげな顔をしている。前合わせで踝丈の服は一目で上質なものと分かる。
彼は加耶子さんの目の前に座り、微笑みかけた。
「加耶子さん」
少し擦れた、気さくで穏やかな声。
「そう固くならずに。まあ、なんでよりにもよってこんな
ああ、この人は、加耶子さんの結婚相手だったんだ。
加耶子さんは自分の拳を見、視線は傍らに敷かれた二組の寝床に移る。
「加耶子さん、あなた、想い人がいるんでしょう?」
彼の言葉に、加耶子さんは顔を上げた。
「別に後をつけたりしたわけじゃないですよ。爺の勘です。これだけ長いこと商売しているとね、人の事が色々見えてくるんです」
加耶子さんは俯き、自分の拳を見据えた。
拳に力が入る。
「おつらかったことでしょう」
彼の言葉に、加耶子さんは再び顔を上げた。
「私の所へ嫁いだのは、あなたの意思じゃない。家の為にと、ご両親がお決めになった事です。でもね」
彼は加耶子さんの目を覗き込みながら、それでも一定の距離を保ちながら続けた。
「私は、こうして加耶子さんとのご縁が頂けたのは、
ふっと微笑む。加耶子さんは軽く首を横に振る。
「ご安心なさい。私は、待っていますから」
よ、と軽く声を出して彼が立ち上がる。
「私はあなたに、心の全てを捧げましょう。そしてあなたがそれを受け取ってくれるまで、私はいつまでも待っていますよ」
お疲れでしょう、おやすみなさい、と言って、彼は部屋の外に出て行った。
**
視界が暗くなり、目の前にロンと詰所が現れた。
「ユニ」
ロンの声に我に返る。
いつの間にか、涙を流していたことに気付く。
加耶子さんは、親の決めた望まぬ結婚をした。
だが、その相手は。
視界が変わる。
目の前に映る光景が目まぐるしく変わる。
大きな店で、沢山の人に笑顔で挨拶をされている加耶子さん。
店の中をきびきびと歩く加耶子さんを見守る、笑顔の結婚相手。
汗をかき、息をついて座り込み、大きなお腹をさする加耶子さん。
子供達を追いかけながら大声で何かを叫んでいる加耶子さん。
皺だらけで小さくなった結婚相手の手を取る加耶子さん……。
きっと、加耶子さんは訴えているんだ。
でも私はどうすることも出来ない。目の前に様々な光景は見えているが、見ている私は彼女が訴えかけたいのであろう人ではない。
この光景を教えたい。この光景の意味する事を教えたい。なのにその教えたい人、ロンにはこの光景が、見えていない。
ロンを加耶子さんの魂と会わせてあげたい。
「魂の存在」が見えるだけの状態じゃなくて、「加耶子さん」に、直接、会わせてあげたい。
その事で彼の心が一層加耶子さんの方へ傾いたとしても。
だって加耶子さんの魂は、八百年の間苦しみ彷徨って、今、やっとロンと会えたんだもの。
私は加耶子さんじゃない。だけど、生きた体を持つ私を通じて、少しでもロンに加耶子さんを感じ取ってもらうことは出来ないか。加耶子さんの訴えたい事を、彼女の言葉で伝える術はないんだろうか。
ぱん。
「あ、あ」
私の口が、私の意思と関係なく動き出す。
さっき軽くなった体がまた重くなる。
目の前にロンと詰所が現れる。
「あー。あ、い、う……う、ん? うー……ああ、う。……あ、い、う、え、お」
「う」の音を出すのに暫く戸惑った後、私の唇が奇妙な形を作って「う」と発声した。
「ありがとう存じます、ユニさん」
自分の意思と全く関係なく声が出る。頭の中では「ありがとう存じます、ユニさん」と言っていたが、実際に口から発せられる声は、全く別のものだ。
「か……」
私の声を受け、ロンは絞り出すような声を出した。
私から手を離し、私の顔の前に差し出す。
角灯の灯りの中で、菫色の瞳が揺れる。
「再びお会いして、こうしてお話が出来るとは、思っておりませんでしたわ」
私の口が勝手に動く。
だが、この状況になれば分かる。私は今、この時だけは、ついさっきまで自分が一番望んでいなかった状態になる事を受け入れた。
今の私は、「加耶子さん」だ。
自分の体が勝手に動く。脚を揃え、背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと腰を折る。少し間を置いて、また時間を掛けてもとの姿勢に戻る。
口角が僅かに上がり、目を細める。
そして口を開く。
「八百年ぶりかしら。お久しゅうございます、龍一郎さん」
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