第7話 壁越しの背中

 誘拐事件は、「武器や食料は取られたけれど、アミは無事だった」という報告だけが役所に上げられ、解決とされた。

 報告書には被害金額や取られたものの内容は事細かに記載されたが、ロンや私の事に関しては一切記載がない。ロンが深手を負ったことも、私達が鬼の巣に囚われたことも、何もかも。


 あの日以来、ユウは人が変わったように寡黙になり、仕事に打ち込んでいる。

 そしてあの日以来、アミは詰所に顔を出さなくなった。


 **


 誘拐事件の後、結局皆、女将の所へ行かず、私も一緒になって別の酒場へ行った。

 酒場の雰囲気は嫌いではない。私は飲まないが、浮かれた男達の笑顔や、酒や揚げ物の匂いのある場所にいると、かつての自分の家を思い出す。


 私のお父さんは平凡な小間物屋の親父だったが、大勢の人に慕われていた。お父さんの友達は皆、夜、仕事が終わると酒瓶片手にお父さんを訪ねて来た。そしてお母さんの手料理を肴に延々と酒盛りを繰り広げていた。

 あの時はうるさいとしか思っていなかったが、今となってはあのうるささや匂いは、決して帰って来ない平和な村の思い出だ。

 あの日、鬼共に蹂躙されるまで、家族や村人達は、確かに生きていて、笑っていた。


 自分の帯締めに目を向ける。ロンに買われた後すぐに、着物も帯も新調してもらい、ぼろぼろだった以前の着物は処分してしまった。

 だが帯締めだけはずっと前のものを使い続けている。ここまで繊細で丈夫なつくりの帯締めは、この村ではどこにも売っていない。

 これは、ミ村の思い出、ミ村の誇り、ミ村の形見だ。


「やっぱりつまんないよなぁ、こういう所。ごめんなユニ」


 ああぁ、ごめんなさいごめんなさいまたぼーっとしてしまった! そうだ、ついでに思い出さなきゃ私。お父さん、酒盛りの席で一人黙っている人には凄く気を遣っていたじゃない! ああいう人って本人も居心地悪いんだろうけれど、酒盛りの主催者も結構困っているんだよね!


 まあ、この酒盛りの主催者というか主役は、皆の話に適当に相槌を打ちながら、私の事など目もくれずにひたすら自分の好きなように飲み食いをしているけれども。

 それはともかく下っ端雑用係はこういう時、結構やる事がある。私は自分の食事を摂りながら、飲み物の追加を注文したり、食べ散らかした皿を脇に寄せたりした。


 **


 皆と別れ、私は物置の寝床に横になった。

 天井を見上げる。さっきまで耳の奥に残っていた酒場の喧騒が暗闇の中に溶けていき、代わりに夜の深い静寂が体の中に流れ込んでくる。

 ああ、そうか、今、私は一人なんだ、と思う。

 その途端、思い出す。昨日の夜から、今日の夕方までの出来事を。


 誘拐事件に巻き込まれ、鬼の巣に囚われた事。

 そこから深手を負ったロンと逃げ出した事。

 信じがたいが、ロンは八百年生き続けている「龍一郎さん」で、私は彼の恋人だった「加耶子さん」の魂を抱えているが、加耶子さんではないと言われた事。

 そして私はいつの間にか、「龍一郎さん」を越えて「ロン」を想っていたと気付いた事。


 寝返りを打つ。暖炉のある詰所と違い、物置の中は寒い。厚手の毛布を口の辺りまで引き上げると、ふわりと暖かい空気が立ち昇る。

 窓を見る。新しい扉が外の風景を遮っている。ふと、初めてここに来た日の夜を思い出す。

 今、私は一人なんだ、と思う。


 一人なんだ。

 再び思い出す。


 赤黒い襤褸切れの様なロンの姿。

 私を捕えた鬼の、面の奥から覗く目。手の感触。饐えた臭い。「ぐふ」と笑った時に吐き出された、腐った林檎の様な臭い。

 巣の中で見た、面と服を剥がされた後の、垢じみた鬼の姿。


 こわい。


 怖い。怖い。あの姿も、あの臭いも、あの声も。

 人間から略奪して生きているくせに、文字や言葉を持ち、広大な地下空間を作り上げ、人間の弱みにつけ込んで悪事を為そうとしたりする知力がある。

 いつまた目の前に現れるのか分からない。

 どうやって現れるのか分からない。

 家族の死体に隠れ、息を潜めていたあの日。

 物置の窓の外から覗かれたあの日。

 抱えられ、巣に連れ込まれた昨日。


 気がつくと、体は震えているのに額に汗を浮かべていた。暗闇が怖い。手探りで寝床の側に置いてある蝋燭に火を点ける。蝋燭の火が頼りなげに周囲を照らす。灯りをともすと、その周囲は闇であることを一層思い知る。


 暗闇の向こうから、面を被った鬼の顔が這い寄る幻が浮かび上がる。


 たすけて


 私は無意識のうちに、天井から下がっている紐を引いていた。

 するとすぐに外から深沓の鳴らす音が聞こえ、がちりと音を立てて物置の扉が大きく開かれた。


「ユニ、どうした!」


 しまった!

 私、なんてことをしでかしてしまったんだろう!


 何事もない物置の中で、勝手に色々考えて、勝手に幻を見て、そして勝手に怯えた挙句に夜中に主人を呼びつけてしまった。

 この仕掛けは、声が出なかった私にもしもの事があった時の為にと取りつけられたものだ。この仕掛けの音を聞いたら、ロンは物置が鬼に襲撃されたかと思うだろう。だって本来そういう時にしか使ってはいけないものだから。

 それなのに、私ったら。


「も、申し訳ございません。間違って、引いてしまって」


 そう言い訳するしかない。暗闇の中、一人でいるのが怖かったなんて言えない。それこそ失礼にも程があるというものだ。

 彼が私の方へ近づいて来る。そうだ、ひざまずいてお詫びをしなければ。だが床に膝をつこうと腰を下ろした途端、ぺたりとその場に座り込んでしまった。

 ロンの姿を見て、安心のあまり腰が抜けてしまったらしい。


「ユニ」


 ロンは腰が抜けたままぼんやりと座る私の目の前にかがみ込んだ。

 頼りなげな蝋燭の光の中、ロンの顔が浮かび上がる。彼の白い手が私の顔に近づく。


「どうした。何か怖い夢でも見たのか」


 あたたかな指先が、私の目元に触れる。その時初めて、私は自分が目に涙を滲ませているのに気がついた。


「申し訳、ございません」


 間違えて紐を引いただけです、という言い訳を繰り返すことが出来なかった。


 彼は怒ったり呆れたりせず、穏やかな表情で私を見つめている。

 菫色の澄んだ瞳に、蝋燭の光が揺れる。


「あんなことがあったばかりだ、仕方がない。こんな所に一人でいて、怖かっただろう」


 小さな頃から幾度となく夢の中で聞いた「龍一郎さん」の声が囁く。彼は「あ」と呟くと立ち上がった。


「すぐ戻る」


 ロンが外に出て暫くすると、再び物置の扉が開いた。彼は毛布を抱えている。


「兎に角もう寝ろ。明日もやる事は沢山ある。俺、今夜はここで寝るから、何も心配しなくていい」


 そう言って、扉の外を指差した。


 えーと。

 今、この人は、物置の外で寝ると言っていなかったか?


「ななな何を言っているんですか! 物置の外で寝る? この寒期の夜に? なななんで」

「なんでって、俺がここにいると思えば少しは気分が違うだろう」


 違うって言えば違うけれど、そんな事許される訳ないじゃない! 主人が、買った人間の為に、物置の外で寝るとか。


 あ。

 そうか。違うんだ。

 の為、じゃないんだ、きっと。


「おやすみ」


 これ以上の反論は受け付けない、という態度で、ロンは外に出てしまった。


 **


 扉の外で、ごそごそという音がする。本当に物置の外で寝る気なんだ。いくら死なないとはいえ、あんな所で寝たら風邪を引くだろうし、熟睡だって出来ないだろう。私はごそごそと音がした辺りに向かって声を掛けた。


「あの、本当に申し訳ございません。でももう大丈夫ですから。今来て頂いて安心しましたから、お願いですから詰所で寝て下さい。えーと」

「いいから黙って寝ろ。俺なら気にするな。この位どうってことない。伊達にしている訳じゃないんだ」

「でも」

「でももへちまもない!」

「デ、デモモヘ?」

「あ、気にするな。七百年位前に廃れた言葉だ」


 よく分からない言葉を吐かれたが、何にせよ動く気はないらしい。私は観念して、お礼とおやすみの挨拶をした。


 **


 再び静寂が空間を包んだ。

 蝋燭の灯りが揺れる。私は毛布を抱えて扉の近くへ移動した。


「ロン」

「どうした」

「今、どのあたりに寝ているんですか?」


 私の言葉に応えて、物置の外からとんとんと壁を叩く音がした。


「ここ?」


 私も壁を叩く。私の叩いた壁の丁度反対から、又とんとんと音がする。

 物置の薄い壁の両側を、二人で叩き合う。

 外から叩く音が止んだ。私はさっきまで叩いていた壁にそっと触れる。

 壁に触れ、その向こうにいるはずのロンの気配を想う。

 毛布を被り、壁に寄りかかった。


「そこに、いるのか」

「はい」


 外からの声に答える。私の答えに対する言葉はなく、そのまま再び静寂が空間を包む。


 薄い壁を挟んで、ロンと背中を合わせるようにして寄りかかる。そうして、感じ取れるはずのない彼の気配を想う。

 深い深い安心感と、申し訳ないという気持ち、そして胸を締め付けられる様な苦しみに包まれる。

 ここまでしてもらいながら、私は素直に自分に向けられた好意を受け止められない。

 私の中に抱えている、もう一つの魂に向けられた好意なのだと思ってしまう。


 子供の頃から、ずっと「龍一郎さん」が好きだった。夢の中の彼の姿を想うと、いつも幸せな気持ちになった。

 ロンは、その「龍一郎さん」だという。普通に考えたらあり得ないが、そう考えるしかない事が沢山あるのもまた事実だ。

 多分、今、私が想っているのは、「龍一郎さん」というよりも、「ロン」だ。

 でも、「龍一郎さん」も、「ロン」も、

 「私」の事は。


 **


 壁に触れる。この向こうに彼がいる。さっきまでの恐怖心は何だったのかと思う位安心感に包まれる。

 それなのに胸が苦しい。息が上手に吸えない位に苦しい。この苦しさは悲しみにも近いけれど、違う。

 たぶんこれが、「切ない」という感情なのだろう。


 **


 あの時の私は切なかった。苦しかった。

 でも、それだけだった。


 だってこの状態は、これからもずっと続くと思っていたから。

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