第3話 脱出

 階段の真ん中あたりはすり減って危険だったので、私達は壁に沿うように縦になって歩いた。

 今の所、鬼共に見つかってはいないものの、あの部屋に私達がいない事が知られるのは時間の問題だ。


 ロンは皮の服の裾を引き摺りながら速足で階段を昇る。皮の服が床を擦る音と深沓の鳴らす音、服の中に押し込んだ武器の鳴らす金属音が、暗い通路に響く。

 一度通った道だからなんとなく距離感は分かっていたつもりだが、それでもやはり地上まではとてつもなく遠い。鬼共はここよりも更に地下深くに住んでいるのだろうか。時折通路の脇に部屋というか穴の様な空間があるが、それらは物置や倉庫として使われているだけらしく、生き物の住んでいる気配はなかった。


「ロン」


 どこをどう見ても誰もいなかったが、私は念のため声を潜めて言った。


「これ、重くないんですか」


 服の上から武器類に触れる。自警団の人達は日頃当たり前の様に剣だの弓だのを扱うが、剣一振りだってかなりの重さだ。日頃詰所に乱雑に放り投げられているそれらを片付ける係の私は、嫌という程知っている。

 ロンはそれほど大きくないし、繊細な顔立ちに丁度良い程度の体格だ。その上大怪我もしている。私の言葉にロンは一つ大きく息をついて、「重い」と言った。


「じゃあこんなに抱え込まないで置いて行けばいいじゃないですか。今は逃げるのが優先でしょ」

「勿体ない。刀剣類が幾らすると思っている」

「でも非常事態じゃないですか。もう、本当に吝嗇けちですねえ」

「声が大きい。それに吝嗇じゃない。無駄遣いが嫌いなんだ」


 ロンは立ち止まり、振り向いた。


「これらは全て、村民の貴重な寄付であがなったものだ。彼らの好意は無駄に出来ない」


 そこで一度言葉を切り、続けた。


「金も、物も、天から降ってくるわけではないんです。自分の手元に渡って来たものは、全て出会えたことに感謝して大事にしないといけません」


 まあ、それは確かにそうだ。私が軽く頷くと、ロンは少し俯いたようだった。


「今のは、覚えていない?」


 そう言われても、今の話は初めて聞いた。私が首を傾げると、ロンは面の奥でふっと笑うような声を漏らした。


「今思うと随分青臭い説教をしたもんだ」


 小さな穴の向こうから、こちらを見つめているのが分かる。


「今みたいな台詞を、よく言っていたんだ、加耶子さんに」


 加耶子さん。


 それはの事だ。但し、夢の中の。

 現実の私は生まれてこのかたトン国から一歩も出たことがないし、「かやこ―さん」なんて舌を噛みそうな名前で呼ばれた事もない。

 それに今のロンの口調だと、「加耶子さん=私」ではないようにも聞こえる。


「んー、えーと、私は『加耶子さん』なんでしょうか」


 言いながら意味不明にも程があると自分で呆れてしまった。ロンは再び前を向いて歩き始め、囁く様に小声で答える。


「ユニはユニだ。加耶子さんじゃ、ない」


 広い踊り場に着いた。ここは覚えている。地上までもう少しだ。


「加耶子さんは、もう随分昔に亡くなっている」


 皮の服が引き摺れる音が響く。


「なのに俺は死ねない。ずっと生きて来た。でも」


 その時、階段を降りて来る足音と声が聞こえて来た。

 鬼が三頭、こちらへ向かって来る。

 私達は口をつぐんだ。

 鬼共は私達の姿を認め、何かを話し掛けて来た。

 震える私の手を、ロンの手が強く握る。


「…………」


 一頭の鬼が、私の方を見ながらロンに何かを話し掛けていた。それにロンが何かを答える。鬼の姿に扮したロンと違い、私は人間の姿のままだ。思わずロンにしがみつきそうになって、とどまる。

 いけないいけない、今、ここにいるのは「鬼」なんだ。

 ロンは何かを言った後、「ぐふ」と鬼そっくりに笑い、私を抱き締める様に引き寄せた。そして私の頭を撫でる。


 鬼の格好なんかしていなければよかったのに、という言葉が、頭の端をするりと走る。


「…………ぐふ」


 ロンの言葉を聞いて一頭が何かを言い、笑った。それにつられる様に他の二頭も笑う。ロンは私を抱き寄せたまま、近くにあった穴に入り込んだ。鬼共は暫く話したり笑ったりしていたが、やがて階段を降りていった。


「行ったな」


 鬼共の声が聞こえなくなると、ロンは穴から顔を出し、通路を確認した。

 階段を少し速足で昇る。いい加減疲れたが、ロンの負担はもっと大きいだろう。


「あぁ、さっきはびっくりしました。でもあいつら随分あっさり行っちゃいましたよね。さっき、なんて言ってやり過ごしたんですか?」

「えぇぇ」


 私の質問にロンは変な声を出した後、暫く沈黙してから答えた。


「まあ、いつも言っているのと似たような台詞。奴らは違う意味で解釈しただろうけれど」


 んん、とわざとらしくしわぶく。


「彼女は俺が連れて来た。お前達には絶対に渡さない。彼女は大事な大事な、俺だけのものだ」


 確かに、ちょっと聞くと、いつもと同じだけれど。 

 違う。全然、違う。


 分かっている。分かっていますよ勿論。これは鬼達に敢えて変な誤解をさせて、危機的状況を平和にやり過ごすための方便だという事位。


 なのにどうして。

 今の言葉を聞いて、私の心臓はこんな動きをしているんだ。


 私が突如湧き起こった謎の感情に困惑していると、階段の下の方から物音が聞こえて来た。


「…………!」

「…………!」


 険しい声と金属の触れ合う音、足音。

 それらの音が段々と大きくなる。

 一頭二頭の出す音じゃない。


 気付かれた? 私達が逃げたのが。


「走るぞ」


 ロンは私に角灯を渡し、服の裾を掴んで走り出した。服に隠し持った武器ががちゃがちゃと音を立てる。私はうっかり階段の真ん中の凹んだ部分を踏んでしまい、軽く体勢を崩した。それをロンの手が力強く引っ張る。


「つっ」


 彼が面の奥で微かに呻いた。同時に私の手に、彼の腕から伝って来た血が流れ込む。


「ロン、あ、あの」

「もう少し早く走れるか? 真ん中は凹んでいて危ない。この階段は古いんだ」


 私の言葉を多分わざと遮り、速度を上げる。曲がりくねった階段の下の方から、角灯の灯りが見えて来る。視界の端に、皮の面が僅かに覗く。


「…………!」


 一頭が何かを叫んだ。灯りが揺れている。足音が塊になって迫って来る。皮の面が幾つも覗く。

 階段のすぐ下に、鬼が姿を現す。


「ひぁ、っ」

「走れ!」


 手を引かれ、慌てて走る。だが足がもつれてうまく走れない。


 走れ、走れ私、逃げるんだ、もう少しで地上だ、脚を前へ、階段を昇って、彼の足手纏いになるな、急げ、急ぐんだ。


「あっ!」


 慌てた勢いで手にしていた角灯を落としてしまう。角灯は階段を転がり、鬼共の方へ落ちる。その時油に火が移り、鬼の足元で燃え上がった。


「……!」


 一頭の服に火が移ったのか、そいつは叫び声を上げて後ずさった。奴らの動きが止まる。


「今のうちだ」


 ロンに手を引かれ、再び走り出す。


 その時、私の心に黒い霧が掛かる。


 私は通路に掛けられていた角灯を手に取った。そして走る。もう一つ。ロンの手を離して掴む。地上までもうすぐだ。扉が見える。ロンが扉に手を掛けると、それは簡単に開いた。ロンが先に地上に出て面を脱ぎ捨てながら叫んだ。


「急げ!」

「ちょっと待ってっ」


 脳裏に蘇る。


 燃え上がる詰所、人々の叫び声、血と鬼の臭い、私の体に覆いかぶさった、命を失った家族のぬくもりと重み。


 私は扉の入口で角灯を思い切り叩きつけた。角灯は壊れ、火が一気に燃え上がる。外に出る。扉を閉じる。そしてその木の扉に向かって、もう一つの角灯を思い切り叩きつけた。

 古い木の扉は、角灯の油の力を借りて一気に燃え上がった。


「死んじゃえ! この化け物が!」


 燃え上がる扉の向こうで、鬼共の叫び声が幽かに聞こえた。


「死んじゃえ! お前達なんか、お前達なんか、みんな、みんな、死んじまえっ!」

「ユニ!」


 燃え盛る扉に向かって叫び続ける私を、ロンは背後から強く抱きしめた。


「落ち着け! 逃げるんだ! この程度の炎ならいずれおさまる。この位じゃ鬼は殺せないんだ!」


 そんなの知らない。そんなの分かんない。死んじゃえ。死んじゃえ。鬼なんか、みんなみんな、炎に巻き込まれて、怯えて、苦しんで、熱がって、痛がって、死んじゃえばいいんだ。


「ユニ」


 ロンは私を抱き締める力を緩め、そっと両腕で包み込んだ。私の耳元で、ゆっくりと諭す様に囁く。


「気持ちは分かる。同じような人を何人も見て来たし、戦争だって何回も経験した。だが」


 感情が頭に溢れかえって訳が分からなくなっている私に向かって、彼は少しだけ腕に力を込め、言った。


「鬼退治をする者の心が、『鬼』に支配されては駄目だ。奴らと俺達を『鬼』と『人間』に分けている唯一つの違いが、心なんだから」


 そしてロンは更に力を込めて私を包み込み、「でも、分かる。つらかったよな」と呟いた。


 **


 森を出る頃には、既に空は明るくなり始めていた。

 途中、乗り捨てた馬や荷車が運よく見つかればいいなあ、などと思っていたが、そう都合のいいことは起こらなかった。

 鬼がどの位追いかけて来るか分からないので、休むわけにもいかない。ロンは森を出たあたりの草叢くさむらに武器類を隠し、自分の刀を腰に佩いた。


「大丈夫ですか?」


 言いながら、愚問だと思った。

 大丈夫なわけがない。血に塗れ、傷だらけのロンは、どうして体が動いているのか不思議な位の状態だ。


「少し休みましょうか。もう夜も明けましたし、森から離れましたから大丈夫で」


 そこまで言った時、ロンの体がぐらりと揺れてその場に倒れた。


「こ、ここから」


 焦点の定まらない菫色の瞳を私の方へ向け、倒れた状態のまま道の向こうを指差す。


「道なりに暫く歩けば、村の端の集落に、着く。あとの、道は、集落の人に聞けば、か」

「分かりました。じゃあ集落に着いたら、荷車か馬を借りてここへ戻ります」

「俺は、いい」


 朦朧としているのか、呂律も回らなくなってきていた。


「俺は、死なない。ユニの、安全が」

「死なないって、そんな訳ないじゃないですか! 自分の体力を過信しちゃ駄目ですよ! 待っていてください、急いで戻りますか」

「俺は、死なない」


 瞳は私の方を見ておらず、心はどこか遠い所を彷徨さまよっている様だった。


「俺は、死ねないんだ。だから」


 呂律ろれつが回っておらず、最後の方は何と言っているのか、あまり聞き取れなかった。


「ずっと、生きて来た。どうやっても、死ねないまま、この国が」



 かつて にっぽんと よばれていた ときから ずっと ずっと


 ずっと


 はっぴゃくねんの あいだ ずっと

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