第2話 鬼の巣
荷車は、随分と長い距離を移動した後、森の中へ入って行った。
土地勘がない上に気絶していた時間もあるので、ここがユウの家からどの位離れているのか、ここがどこなのかが全く分からない。下手をしたらセ村から出てしまっているかも知れない。
この時期の森は木々の葉も大分落ちていて、高い木の枝の向こうから星が覗いている。森に入って暫くして、鬼共と荷車は停まった。
ロンは一頭の鬼に荷台から放り投げられた。彼は放り投げられても動いたりせず、「死んだふり」を続けている。
もう一頭の鬼が私の方へ手を伸ばした。そして黒っぽい大きな手で、私が初めてロンに詰所へ連れて行かれた時と同じ格好で抱きかかえる。
鬼の饐えた臭いと身に纏った皮の臭いが鼻腔を突き刺す。
鬼は小さな穴の向こうから私を見ている。ぐっと顔を近づけ、何かを言った後、「ぐふ」と笑った。笑い声と共に面の皮が揺れ、奴の口元から腐った林檎の様な臭いが吐き出された。
鬼共は地面にある盛り土の周りに集まった。
盛り土と言っても、ちょっとした小屋位の大きさだ。表面には木や草が茂っている。そしてその一か所には、古びた木の扉が取りつけられていた。
一頭が扉を開けると、中は急な下り階段になっていた。入口は狭いが、中は結構広々としている。壁には所々に
先頭を歩く鬼が、それらに火を入れながらゆっくりと降りていく。他の奴らも、奪った武器や食料を抱えて後に続いた。馬や荷車は外に置かれたままだ。
長い。一体どれほどの長さのある階段なのだろう。天井は高く、階段はすり減ってはいるものの、石の様な硬いものできっちり等間隔に作られている。
これだけの空間を作り上げるだけの技術を、鬼共は持っているというのか。下の方を見ても、角灯の灯っていない通路は闇に閉ざされ、何も見えない。この果ての見えない地下深くに、鬼共はずっと生き続けていたのだろうか。
こんな空間を作る技術を持ちながら、どうして鬼は人間を襲って糧を得る様な真似をするのだろう。
やがて通路脇に掘られた穴の様な部屋に到着した。
そこは物置として使われている空間らしく、中には人間から奪ったものと
去り際、私を抱きかかえていた鬼が私の方を見て何かを言い、別の鬼がそれを受けて、「ぐふ」と笑った。
**
奴らは暫くしてまた戻って来るつもりなのだろうか。部屋の中を、鬼が置きっぱなしにしていった角灯が仄かに照らしている。鬼共の足音や話し声が遠くなり、やがて静寂が部屋を支配する。
私は体を
「ロン、もう誰もいないみたいです」
灯りのある所で見るロンの姿は、どう見ても死体だ。顔も体も血まみれで、体のあちこちに斬りつけられた傷がある。けれども彼は私の声を聞くや目を開け、「痛ぇ」と呟きながら顔を顰めて体を起こした。
彼の、その深手からは考えられない、まるで転んだ時の様な軽い態度を見ているうちに、不安で強張っていた感情が一気に緩んだ。
「良かった。あ、あんなにされて、もう、もう、絶対無理だ、と、思いました」
言いながらまた涙が溢れる。ロンは涙で滲んだ視界の向こうで、目を細めて微笑んでいた。
「声が、出る様になったんだ」
心の中にあたたかく染み通る様な、ゆっくりとした穏やかな、「龍一郎さん」と同じ声で話し掛けて来る。
困るからやめて。こんな声を聞いてしまったら、いつまでたっても涙が止まらない。
「声、う、うん、そうなんです、あの、さっき、ロンが、お鬼に」
「ああ、あれを見て驚いたせいか」
ロンは少し目を伏せた。
「確かに今回は
私は顔をべとべとにして泣きじゃくりながらも、今の彼の言葉にひっかかりを感じた。
「し死ねる、か、って?」
「ああ」
ロンは扉の隙間から通路を覗き込み、何かを見て口の端を僅かに歪めた。そして軽く頷き、私の方を向いた。
「俺は、死なない」
彼は角灯を手に取り、鬼共が
「俺は、死ねないんだ。決して」
**
その時、微かな足音がこちらへ向かっているのが聞こえた。
鬼は皮を巻きつけたものを沓代わりにしているだけなので、沓に比べて足音があまりしない。草や砂のない、こういう場所なら
つまり、鬼はすぐ近くまでやって来ている。
「部屋の隅にいろ」
ロンは会話を中断し、扉の隙間を再び覗き込んだ。私は涙を飲み込み、頷く。
彼は部屋の武器の山にあった短刀を手に取り、構えた。ふっと一つ、息を吐く。
ごそりと音がしたかと思うと、扉がゆっくりと開いた。
面をつけた顔が覗く。
その瞬間、ロンは鬼の腕を掴んで引っ張り込んだ。鬼が体勢を崩して前のめりになった所を懐に潜り込む。
鬼が低い呻き声を上げた。
ロンは鬼の体にめり込んだ短刀を引き抜く。
真っ赤な血に
鬼は、叫びを上げる間もなかった。
「死んだ、の?」
鬼は床にうつ伏せに転がっている。
「知らん」
そう言いながら、ロンはいきなり鬼の服を脱がしにかかった。
「重い。ユニ、手伝ってくれ」
この状況で嫌だ怖いなどと言っていられない。訳も分からぬまま鬼の背中にある服の結び目をほどき、ロンと二人がかりで脱がせる。
中から、茶色く垢じみた、点や線の黒い模様のようなものの入った背中が現れた。それと同時に饐えた臭いが一気に立ち昇る。
そのあまりの汚さ、おぞましさに、私は顔を顰めて横を向いた。
なのにロンは、その触るのも気持ち悪い皮の服を、自分の服の上からすっぽり着出した。
鬼はロンよりも二回り位大きい。だから服もぶかぶかだ。そのぶかぶかの格好のまま、今度はどういうつもりか鬼の面を一気に剥いだ。
中から、べたべたの束になった黒い髪の毛と、体同様、垢じみて模様の入った顔が現れた。
そしてロンはこともあろうに、その見ているだけで気持ちの悪い面を、端整な顔を覆うように被ってしまった。
やだやだやだやだ臭いよばっちいよ気持ち悪いよ!
「くっさー」
当たり前だ、何を言っているんだこの人は。ぶかぶかの皮の服を纏った子供の鬼の様な姿になったロンは、さっき選り分けていた短刀などの小さな武器類を、次々と服の中に押し込んでいる。自分の腰に佩いていた刀は背中に差し直していた。
「ユニも少し手伝ってくれ。これとこれ位ならそんなに重くないだろう」
ロンが何をしているのか理解できずに、ぼんやり立ち尽くしていた私に向かって、彼は幾つかの小刀を手渡した。
「な何をしているんですか」
「決まっているだろう。逃げる」
懐にものを入れる仕草をしながらロンは言った。小刀をしまえという意味だろう。私は慌てて頷き、小刀を懐に入れる。
「そんな、出来ますか、この」
「出来るかどうかなんか分からない。でも逃げなければ逃げられない」
ロンはそこで言葉を切り、少し俯いて沈黙した。
「ユニは、どうして自分がここに連れて来られたと思っている?」
「私? え、と」
言葉に詰まった私の方を向いて、ロンは小さく溜息をついた。
「俺が連れて来られた理由はいくつか考えられる。俺が自警団長なのは多分奴らは知っているだろうから、晒し者にするとか、村への脅迫の材料に使うとか、見せしめも兼ねて食うとか、まあ、そんな所だろう。だがユニはどうだ。自分達の脅威である自警団でもないし、見るからに力もない。さっき、もしユニが邪魔だったらその場で殺していただろうし、うろうろしているだけだったら何もしないで放っておけば奴らだって楽だ。それをわざわざ殺さず連れて来たんだ」
「えーと、宿つき飯屋の時みたいに雑用係にするとかですかねえ。でも私なんか役に立つのかなあ、うーん」
ロンは俯いてもう一度溜息をついた。
「こいつらは『鬼』なんて言われているが、中身はほら、見ての通り大きいだけで体のつくりは人間と一緒だ」
言いながら、傍らに倒れている裸の鬼を軽く蹴る。
「
倒れている鬼に目を向ける。
茶色く垢じみた皮膚、束になった髪、饐えた臭い、人間よりも二回り大きな体。
思い出す。さっき私を捕まえていた鬼の、「ぐふ」という笑い声。
私の顔を、覗き込む目。
まさか。
黒い蟻の様な恐怖と嫌悪感が、びっしりと私の体を這い上がる。
「ごめん、今言うべきじゃなかった」
硬直し、震えの止まらなくなった私に向かって、ロンは頭を下げ、血に
「逃げよう。俺だけならどうでもいいが、ユニが」
そこで彼は首を一度横に振ると、私の手を強く握った。
「ここを出たら外に出るまで下手に喋るな。黙って俺について来い。そして」
鬼の姿で扉を開け、左右を確認し、私の方を向いた。
「外に出たら教えてくれ。ユニがどうして、俺の本当の名前を知っているのか」
**
暗闇の中に角灯が点々と灯る長い階段を、黙って昇っていく。
いくつもの大きな疑問を投げられっぱなしにされながら。
私と、鬼の姿をした「龍一郎さん」と。
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