第6話 恋の始まり

 笛のと太鼓の音、ざわめき、物売りの声。

 どこか遠い異国の風景。私のいるトン国とは随分違い、華やかで賑やかだ。

 祝い事でもあったのか、何かの祭りなのかは分からないが、行き交う人々は皆、楽しげで幸せそうだ。

 夕暮れの終わり、夜の始まりの空の下、私は皆と同じ異国の服を身に纏い、店の灯りが煌めく中、歩いている。


 その中で、一人の男性に目が行った。

 彼も周りと同じ異国の服を着ているが、随分と地味で質素だ。他の人達と比べて頭一つ分背が高い。軽く目を伏せるようにしているが、すっきりと背筋を伸ばして歩く姿はいやでも周りの目を引く。

 ぼんやりとその人を見ていた時、誰かが後ろから歩いて来てぶつかった。私はそこで、自分が今、「見知らぬ殿方をじろじろ見る」という、はしたない事をしていたことに気が付き、慌てて目を逸らした。


 するとその背の高い男性は、いきなり彼の目の前を通ったおじさんの腕をじ上げた。


「いてぇっ! 何しやがんでぇ」

「お前、今懐に何を入れた」


 そう言うや、おじさんを掴んだのとは別の手でおじさんの懐を探った。

 懐から、女物の財布が出て来た。


「随分と洒落た財布を使っているんだな」


 おじさんを覗き込むように見て、薄く嗤う。腕を離されたおじさんは、凄い勢いで逃げていった。


「ありがとう存じます。いやだわ私、全然気が付かなかった」


 男性は丁寧に手を添えて財布を私に渡してくれた。

 財布を受け取る前、何気なく彼の顔を見上げた時、私は彼の瞳に目が釘付けになった。


紫水晶アメシストみたい……」


 彼の瞳は、よくある黒や茶色ではなく、澄んだ菫色をしていた。瞳は沢山灯された灯りの下で、宝石の様に輝いている。それがあまりに美しかったので、私は暫くの間、彼をじっと見つめ続けていた。


「あの」


 彼の声で我に返った私は、今、猛烈にはしたない事をしていた自分に気が付き、慌てて目を逸らした。


「ごごごめんなさい、あの、あの、失礼いたしました、えと、あの、あまりにお美しかったものですから、えーといえあの、私、紫水晶が好きなんですの。あ、えーと違います、いえ違いませんけれど」


 話せば話すほど訳が分からなくなってくる私を見て、彼は少し恥ずかしそうに俯いて微笑んだ。

 その姿に、私の胸の奥が音を立てる。


おそれ入ります」


 彼は囁く様な声でそう言って、財布を差し出した。私は財布を受け取り、頭を下げた。彼は軽く会釈をして歩き出した。


 私は渡された財布を両手で胸の前に抱き、暫く立ち尽くしていた。

 そして財布をしまう事も忘れ、彼の方へ走り出していた。


 **


 暗闇の中、目を覚ました。


 何だろう、今の夢は。

 初めて見る夢だった。多分舞台はいつも見る夢と同じ国で、出て来る男性は「あの人」だ。

 私は彼の瞳を「紫水晶アメシストみたい」と言っていた。「あめしすと」なるものがこの世に存在するのかは分からない。ただ、彼の瞳を見ていたら、自然とその言葉が出て来た。

 私と「あの人」の、出会いの夢、なんだろうか。


 でもなあ、と思う。

 この夢、ロンと私の出会いの場面が話の元になっている気もする。財布が絡んでいたし、嫌なおじさんも出て来たし。まあ夢の中では殴られたり山羊乳をかけられたりはしなかったけれど。にしても私は夢の中でもぼーっとしているのか、と、無意味に落ち込んで寝床から出た。


 鍵を開けて物置から出ると、外は闇に包まれていた。今日は月も星も雲に隠れてしまっている。

 寒い。軽く身震いをして肩を抱く。それなのに、私の心の中にはちいさな火が灯っている。


 あれが、恋の始まりの気持ちなのだろうか。

 夢の中で味わった甘い高揚感を何度も思い出す。

 それほど劇的な事があったわけでもない、それほど会話を交わしたわけでもない。それなのに体いっぱいに甘くて温かい感情が膨れ上がって、彼のもとへ走り出さずにはいられなかった。

 あの感覚を忘れたくなくて、だから眠りたくなくて、寒期の始まりの夜更けに外に出た。


 真新しい革の深沓と綿の靴下を履いた足元は暖かくて快適だ。この寒空のもと裸足で歩いていたら、あっという間にひび割れが出来ていたことだろう。私は夢の高揚感と深沓の嬉しさに浮かれて、わざと足音を立てて歩いてみた。

 すると突然、すぐ隣の詰所の扉が大きく開き、人が飛び出してきた。

 左手に刀を掴んだロンだ。


「ユニ、どうした!」


 右手をに掛け、小走りでこちらに来る。どうしたんだ一体。私が首を傾げて突っ立っていると、彼は私の周りをぐるりと見回し、鋭い声で囁いた。


「何かあったのか」


 いえ、夢に浮かれていただけです、と思いながら首を横に振る。彼は私の姿を見て一呼吸置き、膝に手をついてがっくりと項垂れた。


「物置から足音がしたから。なんでもないのか。あぁ、よかった」


 もしかして。

 私の足音を聞きつけて飛び出して来てくれたのか。

 この夜更けに、この程度の足音で。


「この夜中に外に出るな。危ないじゃないか。昨日の事を忘れたのか」


 彼の言葉に、私は俯いて頭を下げた。

 忘れてなんかいない。でも、さっきの夢があまりにも鮮明で幸せな感覚に満たされていたから、つい外に出て噛みしめてみたくなったんだ。

 ロンは私を見て暫く険しい表情をしていたが、やがてふっと微笑んだ。


「俺はそこの部屋にいる。何かあったら物音を立てろ。そうしたら気付くから」


 そう言って彼が指差した場所を見ると、窓が半分開けたままになっていた。


 窓、開いていますよ?


 昼間、あんなに暖炉の熱の事をやかましく言っていたくせに。あれじゃ寒いだろうに。私が窓を指して「開いている」の仕草をすると、彼は言った。


「窓を閉めると小さな音が聞こえない。ユニ、叫べないだろう」


 え、まさか、私のため?


「危ないし寒いからもう中に入れ。明日も忙しいぞ」


 ロンは少し早口でそう言うと後ろを向き、歩き出した。

 私は殆ど反射的に駆け出し、彼を追い、右手を掴んだ。

 

 あ、ありがとうございます。そして、ごめんなさい。


 お礼も、謝罪も、するなら今だ。一昨日の事から今の事まで、どれだけお礼と謝罪をしなければいけないのだろう。私は彼の手を掴みながら、何度も頭を下げた。

 私を助けてくれてありがとう、私を買ってくれてありがとう、服も、深沓も、食べ物も、人として扱ってくれる場所も与えてくれてありがとう。

 鬼を斃してくれたのに、怯えてしまってごめんなさい。今も余計な心配をかけてしまってごめんなさい。

 私はあなたに、この気持ちをどう伝えたらいいの。


「いいから。そんなにぺこぺこするな。ユニは俺が買った。だから大事にする。無駄遣いは嫌いだからな」


 ロンは視線を逸らし、突き放す様な口調で言い放つ。

 横を向き、俯く。

 私の掴んでいる右手に力が入る。


 私はその右手の薬指の付け根、中指寄りにある小さな黒子に目を向ける。

 そしてそっとその黒子に触れ、彼を見上げる。


 冷たい風が夜空に掛かった雲を払い、月が朧げに顔を出す。


「……ユニは」


 彼の声が、僅かに震えていた。

 私に語り掛けているようで、自分の内面に語り掛けている様な言葉を呟く。


「なんで、知っているんだ。何を、知っているんだ」


 分からない。

 彼の言葉の意味も、自分の事を語る術も、何も分からない。

 声を、失っていなければ。


 私には子供の頃から毎夜見る夢があるんです。そこにはあなたにそっくりな人が出て来るんです。あなたと同じ顔、同じ声、同じ黒子を持つその人は、私の大切な大切な、恋人なんです。

 その人は夜毎私に微笑み、そして夜毎私の目の前で殺されるんです。


 あなたは「あの人」なのですか。

 見知らぬ異国で出逢い、私が心を捧げたひと。でも、それは夢の中だけの出来事だったのに。

 なぜ、あなたという人が、この世にいるのですか。

 あなたは何を知っているのですか。


 あなたは、誰ですか?


 勿論、どれも言葉に出来ない。もどかしい想いだけが唇から零れ落ち、只空しくぱくぱくと口を開くことしか出来なかった。


「すまん。無理を言った。今のは忘れてくれ。おやすみ」


 ロンは右手の力を緩め、私の手を外した。

 目を伏せる。菫色の瞳に睫毛が掛かる。


 いやだ。このままおしまいにしたくない。


「…………」


 口を動かす。ロンは私の口元を見て怪訝そうに目を細めた。


「…………」


 何度も口を動かす。繰り返し繰り返し、同じ形に口を動かす。

 無駄かもしれない。そもそもあれは、私の頭の中で勝手に作った話かもしれない。彼には何の関係もないかもしれない。


「…………」


 唇の動きだって、これでいいのか分からない。自分の声の聞き間違いかも知れない。でももしこれでいいなら、分かってくれるだろうか。

 ロンの唇が少し動いた。細められていた目が大きく開かれる。

 私はもう一度、唇を動かす。


 あめしすとみたい……。


「か……」


 ロンの菫色の瞳が、淡い月の光の下で潤んでいた。彼は「か」と何かを言いかけ、私を見、立ち尽くした。

 左手に握られていた刀が、音を立てて地面に落ちる。

 右手を私の方に差し出し、宙を掴み、そのまま降ろされる。

 やがて彼は姿勢を正し、私に向かって囁く様に言った。


「畏れ入ります」


 そして刀を拾うと、振り返らずに詰所へ戻って行った。

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