第5話 兄妹
一夜明け、私は強烈な胸の痛みで目を覚ました。
具合が悪いんじゃない。昨夜の自分の態度を思い返し、そのあまりに酷い対応に罪悪感というか後悔というか申し訳ないというかあんまりだろというか、兎に角一刻も早く詰所へ行ってロンに謝らなければという気持ちで一杯になって、胸が痛くなったのだ。
彼は昨夜、身を挺して鬼の手から私を守ってくれたのだ。聞こえて来た物音から察するに、多分、一度に二頭斃したのだと思う。二頭を一度になんて、どれだけ大変だったことだろう。なのに私は、事前に吹き込まれた噂や、血に濡れた刀や、彼の発する声に惑わされ、怯え、まともに謝意すら伝えていないのだ。
私に向けてくれた微笑を失わせるほどに、私は怯え、彼を拒んだ。
彼が何者なのか、という点はひとまず置いておこう。所詮夢の中の登場人物でしかない「あの人」とロンの間に何か繋がりがあるのかなんて、考えたって分かるわけがない。
噂の事も、置いておこう。
たとえ彼が鬼だろうと悪魔だろうと、私にとって恩人である事に変わりはない。
よし。
土下座にするか、いやそれだと却って気を遣わせるかもしれないから頭を下げるだけにするか。私は自分の思いをどのように伝えるべきか、一生懸命考えながら詰所の扉を開けた。
室内を見回す。視界の右端にロンの姿を捉えた。
……扉を全力で閉める。
ちょ、ちょっと待って。
そ、そうか、ロンはここで寝泊まりしているんだ。
いい今視界の端に捉えたのは、あれか。
着替えの最中か。
もう一度扉を開ける。
……扉を全力で閉める。
まままだ終わっていなかった。
しかし凄いな、私もどちらかというと色の白い方だが、ロンの肌の白さは別格だ。体が早朝の初雪みたいに淡く光っていた。
も、もういいかな?
注意しながら、扉をそろそろと開けて中を覗き込む。
するといきなり扉が大きく開き、私は軽く前のめりになった。
「なんなんださっきからばたばた開けたり閉めたりうるさいな。何がしたい? 見たいのか? 見たところで大して面白くないだろうけど見たいなら見せてやるからそこになおれ。あと昨日も言ったが俺は無駄遣いが嫌いだ。折角部屋を暖めているのに無駄に扉を開け閉めしたら薪が勿体ない」
そこにいたのは、着物を身につけ、顔を
**
謝る
他の団員達が集まった所で先ず話題になったのは、昨夜の一件だった。
「偵察、って言っていたのか」
「ああ。大した武器も持っていなかったし、数も少なかった」
「でもそれが本当なら、却って面倒くせえじゃねえか」
「やはり一度追ってみるか」
「やめろよ、冗談じゃない。んな事したら流石のお前だって死ぬぞ」
団員達の話に熱が入って来たので、私は邪魔にならないよう別室で作業をすることにした。
考えてみれば当たり前なのだが、団員達は皆、ロンが鬼の言葉を解し、話せる事を知っていた。そしてその事を普通に受け入れていた。
さっき、団員の一人も言っていた。
「ロンはな、あほみてえに何でも知ってんだよ。いい歳こいたオヤジのくせに妙に可愛くて、あんまり頭の良さそうなツラじゃねえのにさ。なあ」
なあと言われてもどうしたらいいのか困る。私が表情を作るのに苦労しているのを見て、団員は笑った。
口のきき方はともかく、団員達は皆、ロンの事を信用し、頼りにしている。見た限りでは、「二つの噂」に惑わされているような人など、誰もいなかった。
であればなおのこと、あんな話を聞きたくなかった。
違うのだと分かっていても、どうしても心のどこかで「あの人」とロンが一緒になってしまう私にとって、あの噂は「あの人」を
罪を犯して逃げて来た。
鬼の血を引いている。
ふと、昨夜私の肩を抱いた、ロンの手の感触が甦る。
**
「ユニ、これ役所へ持って行って」
ユウに声を掛けられ、私は現実に引き戻された。
ああぁ、まただよ私。どうしてこう、ぼーっとしていてとろいんだろう。私は渡された紙の束を布で包み、役所へ出かけることにした。
出かける、と言っても歩いてすぐの距離だ。部屋を出ようとした時、「こんにちは」という高く澄んだ声が入り口から聞こえた。
私より少し若い女の子が、入り口に立っていた。
襟に細かい刺繍の入った毛織物の着物を着、焦げ茶色の髪を結わずに胸のあたりまでおろしている。小柄で黒目がちな目の、子猫の様な雰囲気だ。
「なんだよ、なんの用だ」
彼女が入ってきた途端、部屋の隅にいたユウがすっ飛んできて、小声でそう言いながら追い返そうとしていた。
「なんでもないよ。遊びに来たんだもん」
「今それどころじゃないんだよ」
「忙しいのなんか知っているよぅ。だから元気になって貰いたいなーって思ってさ」
「元気になるのとアミが来るのにどんな関係があるんだよ」
アミと呼ばれた女の子はユウに構わず、団員達に笑顔を振りまいている。団員達は慣れているのか、愛想よく笑顔を返しながらも話し合いや作業を止めることはなかった。
この二人、どういう関係なんだろう。なんとなく雰囲気が似ているから兄妹なのかなあ。まあいいや、ぱっと見の印象でこういう事を言ってはいけないのかも知れないが、私はこの手の人が苦手だ。会釈とも目を逸らしたともとれる曖昧な態度を取りながら、私はこっそり外に出ようとした。
「あんた、ちょっと」
ああ、目をつけられてしまった。声を掛けられたら立ち止まるしかない。
「なんでこんなのがここにいるのよ」
「なんでだっていいだろ。彼女は昨日ロンがかっ」
「うるさい。用がないなら部外者は出ていけ。あと扉開けっ放しにするな、暖気が逃げる」
彼女は昨日ロンが買ったんだよ、というユウの言葉に被せる様にロンの鋭い声が刺さった。そのまま転がされるように私もアミも表に放り出される。押し売りを追い出す時の様な勢いで扉を閉じられ、私はアミに、さっきと同じ曖昧な会釈をして別れることにした。
「自警団って、そう簡単に入団出来るもんじゃないはずなんだけど」
折角全てをうやむやにして終わらせようとしているのに、この人はまだ私に絡んでくる。なんなんだ一体。
「あんた、なんでここにいるのよ。ここの仕事しているの? 見た事ない顔だけど、セ村の人間じゃないよね。どこの田舎者よ」
村全体が壊滅してしまった以上田舎もなにもないが、セ村の人に田舎者呼ばわりされる日が来るとは思わなかった。
「人の質問には答えなさいよ。失礼ね」
どっちが失礼か分からないがそう言われても困る。私は喉に手をやり首を横に振ってみせた。
アミは私の事を上から下までじろじろ眺めまわした挙句、ふんと一つ鼻を鳴らしたのち、低い声で「不細工」と言い捨ててどこかへ行った。
十八年生きていて初めて不細工呼ばわりされた。
しかも、見も知らぬ人に。
**
昨夜の鬼が強盗ではなく何らかの目的をもって偵察に来た、という情報と、私が役所の人に渡された書類に書かれていた情報が合わさって、詰所の中は一気に緊張感が高まっていた。
皆、険しい顔をして何かを話し込んでいる。夜間の見回りも強化されることになり、今後、非常勤や奉仕団も増やすらしい。
彼らの具体的な話を聞いたわけではないが、それらが何を意味しているのかは、なんとなく分かる。
村を失った私には、なんとなく分かる。
**
詰所の窓から見える夜空は暗く、月も星も殆ど見えない。
忙しかった一日もそろそろ終わりが近づいている。団員達は今、今日最後の見回りに出掛けている。本部の団員達が見回る範囲を拡げたらしく、皆が帰って来るのはかなり遅い時間になるそうだ。
特にそうしろと言われたわけではないが、私は遅い時間になっても物置に行かずに詰所で留守番をしていた。
誰もいない詰所の中は広く静かで、ふと気を抜くと魂を潰されそうな冷気に包まれる。
部屋を暖めてはいるが、火のぬくもりでは打ち消せない程の、恐怖という名の冷気。それが革の深沓を履いた足元を伝って体の奥に滲み込んでいく。
ひと月前の、あの夜を思い出す。
家族の死体に隠れ、息を潜めて、目の前を通り過ぎる鬼の気配を全身で感じ取った、あの夜。
昨夜、物置でおきた出来事を思い出す。
あの時、もし詰所にロンがいなかったら。
私は売り買いされる人間として、ミ村の他の人達よりもひと月長く生きただけで、結局鬼の餌食になっていたかも知れない。
そういえば、まだきちんとお礼もしていないし、謝ってもいない。
何度か謝る
一度など、時機を狙ってロンの姿を目で追っていたら、「なんなんださっきからじろじろと。俺の顔がそんなに変か」と強めの口調で言われてしまった。
「まあ、変っちゃ変だよな。
シュウが笑いながら、多分助け舟を出してくれた。
「母親が異国人だっただけだ。それよりさっさと働け。何度でも言うが俺は無駄遣いが嫌いだ」
「ロン、お前さぁ、なんだってそんなにド
「吝嗇じゃない。無駄遣いが嫌いなんだ」
そんな調子でなんだかよく分からないお喋りに紛れ、結局お礼も謝罪も出来なかった。
ただ、なんとなく、ロンにわざとはぐらかされたような気は、している。
**
本格的な寒期が近づくと、虫の音も聞こえなくなり、夜は暗闇と沈黙に満ちている。
ぱちぱちという暖炉の微かな音だけが救いだ。
私が
見回りの人達が帰って来るには早すぎる。
それに多分、外にいるのは集団ではなく一人だ。
昨日の夜を思い出す。今の私には、何の抵抗も出来ない。
扉が開いた。
「他の人達は、まだ見回り?」
詰所に入って来たのは、早番で既にあがっていたはずのユウだった。
「ユニは本当に表情で思ったことがよく分かるな。コイツ仕事終わったのになんでこんな所へ来たんだって思っただろう?」
曖昧に頷く私の隣の椅子に座る。
「理由は簡単だよ。心配だったんだ」
そう言って私を真っ直ぐに見つめる。
彼の真っ直ぐな視線に耐えられずに顔を伏せ、自分の膝と、膝の上に置かれた手を見る。
その手に、彼の手がそっと触れる。
思わず顔を上げると、彼は微笑んだ。
「当たり前だよ。昨日、あんな事があったのに、こんな所で一人で留守番していたら怖いだろ、ユニ。そんなの、ちょっとでも『人の』心があれば分かるはずなのに」
人の、に少し力を込める。私はどう答えたらいいのか分からずに、また顔を伏せた。
「昼間はごめんね。なんか俺の妹が絡んだみたいだけど。あいつ結構嫉妬深いから、可愛い人を見かけるといつもあんな感じになるんだ。だから気にしないで」
妹? ああ、アミの事か。やっぱり妹だったんだ。
私は微笑んで首を振った。
「ありがとう。やっぱりユニは、優しいね」
ユウは微笑み、私に触れていた手に力を込めた。
「俺はロンと違って只の下っ端だ。それに両親と妹を養っている。だから人を買うような余裕なんてない」
いきなり話題が変わった。
人を買う?
「その上剣の腕もからきしだし、力だって大してない。幸い割と頭が動く方だから自警団としてなんとかやっていっているけれど、今後団長にのし上がることはまずない。俺なんかその程度の奴だよ。だけど」
私の手を両手で包み込み、顔を寄せる様に前屈みになる。距離が近すぎて視線を逸らす事も出来ない。彼は言葉を続けた。
「俺は、ユニを守りたいんだ。買って近くに置くことは出来ないけれど、鬼の手からも、得体の知れない上にユニを買ったくせに無責任に放置するような奴の手からも、守りたいんだ」
大きな目で、真っ直ぐ見つめる。あまりに唐突でいきなりな言葉に、私はどう答えたらいいのか分からず、いつもみたいにぼんやりと彼を見つめる事しか出来なかった。
そこでユウは急に恥ずかしくなったのか、暗い室内でも分かる位頬を紅潮させて俯いた。
「ごごめん、いきなり何だよって感じだよね。ごめんあんまり深い意味ないと思って。今の所。で、でもさ」
私から手を離し、もう一度私を見つめた。
気が付くと、遠くから濁声と大きな靴音が聞こえてくる。見回りの人達が帰って来たらしい。
「俺がそう思っているって事、ちょっとは覚えていてほしいんだ。でさ、俺の事、ちょっとは考えて欲しいんだな、えーと」
扉の向こうで、団員の一人が、俺このまま帰るわー、と言っていた。ユウは立ち上がって私を見下ろした。
「もしさ、ユニに心に決めたひとがいないんだったら、俺の事、考えておいてもらえたら嬉しいな」
そう言って、見回りから帰って来た人達と入れ替わりで詰所の外に出た。
「どうしたんだ、ユウ」
ロンに声を掛けられても、ユウは振り向きもせずに去って行った。
**
今のユウの言葉。
どういう意味だったんだろう。
私は昨日ここに来たばかりだ。そんな人間に対して言うには、随分と深い内容だったような気がする。
心に決めたひと。
彼の言葉を思い返す。
そして考える。
私の心に決めたひとは、いるの?
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