第4話 遭遇

 頭を覆う皮の面に開けられた小さな穴の奥から、私を凝視しているのが分かる。

 目が合った。

 鬼は私と目が合うと、面の奥からくぐもった声を発した。するともう一頭の面が窓の向こうに現れる。


 二頭の面が声を発する。

 黒く大きな手が、硝子をこつこつと叩く。

 面に開けられた小さな穴から、揃って私を凝視している。


 ひと月前の、あの夜を思い出す。


 体の奥から湧き上がる私の叫び声は、喉に詰まって小さな息となって吐き出されるだけだ。乱れ打つ心臓の音の隙間から、短い息が繰り返し吐き出される。両腕が震え、頬が冷たく冷えていく。逃げたくても、腰が抜けて立ち上がれない。それにこの物置からは、どうやっても逃げようがない。


 助けて。


 ひと月前、私の村全体を覆った叫び声を心の中で上げる。あの夜、「助けてくれる」人達は真っ先に斃され、ここの何倍も大きく立派だった詰所は火の海に飲み込まれた。こんな物置、奴らの手に掛かればあっという間だ。


 二つの面が動き、窓から消えた。奴らの会話のような声が途切れ途切れに聞こえ、微かな足音がする。

 足音は、窓の所から入口の扉に向かって移動する。

 扉に何かが手を掛けた。ごつ、という鈍い音が響く。

 会話のような声が聞こえる。

 暫くすると、少し離れた所から別の声が聞こえる。足音が扉の方へ向かって来る。

 扉の向こうで、三頭の会話のような声が聞こえる。


 やがて扉の外でごとごとと何かが暴れる様な音がして、それと共に大きな声が乱れ飛んだ。だがその騒動はすぐに治まり、どん、と何かが壁にぶつかる音がした後、一瞬、静寂が扉の向こうを包んだ。

 再び扉に何かが手を掛けた。ごつ、という鈍い音が響く。


 がち、という音を立てて、扉に取りつけられた鍵が開く。

 扉が開く。


 途端に、つん、とした鬼独特のえた臭いと、生臭い臭いが物置の中に流れ込む。


 扉の外に立っていたのは。

 赤黒い血の滴る細く優雅な刀を手にした、ロンだった。


 **


 どうして、ここに?


 私の心の中の声が唇を動かすよりも早く、彼は物置の中に入り、扉の内側から鍵を掛けた。そして私の手を引き、身を潜ませるように扉の近くの壁際にかがみ込む。

 右手に刀を持ち、左手で私の肩を抱いて引き寄せる。乱雑に積み上げられた資材や武器類の隙間から、窓の外を睨む。彼の僅かに乱れた息遣いが、狭い空間を漂う。


 窓の外がまた、ふっと翳る。

 翳りが去ると、足音が扉の方へ向かって来る。

 私達の潜んでいる薄い木の壁のすぐ反対側から、何かを動かす音と険しい声色の会話のような声が聞こえる。

 扉に何かが手を掛けた。ごつ、という鈍い音が響く。

 その時、ロンは私を抱いていた手を離し、壁の方へ顔を向け、口を開いた。


 そして、「あの人」と同じ形の唇から、鬼と同じ声を発した。


 ロンの発した声を受けてか、壁の向こうから何度か声が聞こえた。それに応える様にロンが再び声を発する。

 異国の言葉とも違う、唇や舌を複雑に動かして作り出す様な、独特の「鬼の声」。

 やがて壁の外の声は黙り、何かを引き摺るような音と足音が、少しずつ遠ざかっていった。


 **


 物置の中は静寂を取り戻していた。ロンは這いつくばり、壁の小さな節穴から外を覗き、こちらを向いた。


「もう大丈夫」


 そう言って微笑む。

 だがその笑顔は、私の姿を見て急速に沈んでいった。


 そのまま黙って少し俯く。

 物置の中を、静寂が充満する。


 ロンは俯いたまま、「あの人」と同じ形の唇から、「あの人」と同じ声を発した。


「奴らは、『今日は偵察に来たが、仲間が殺されたから取り敢えず帰る』と言っていた。多分今夜はもう来ないだろう」


 ロンは立ち上がって汚れた刀を左手に持ち直し、扉に手を掛けた。私は床に座り込んだ姿勢のまま、ぼんやりと彼の姿を目で追う。


「俺は詰所で寝泊まりしているから、何かあったら来るといい。じゃあ、おやすみ」


 月明りを受けた菫色の瞳を伏せる。


 多分、気付いたんだと思う。

 私が、怯えているということに。

 どうしよう。私は今、どうしたらいいんだろう。

 そうだ、お礼。助けてくれたんだから、お礼しなくちゃ。


 私は謝意を見せようと力を込めて立ち上がり、彼を引き留めるために扉に掛けられた右手に触れた。


 彼に触れた手が思わず痙攣する。

 一瞬、手を離し、再び彼の右手の甲に触れる。


 これは、まさか。

 

 昼間は気付かなかった。まじまじと彼の手を見つめているような暇なんてなかったし、それほど目立つものでもないから。


 夢の中の「あの人」はいつも、俯いて少し恥ずかしそうに私の手を取る。

 私の心が幸せで満たされる瞬間。

 「あの人」の手。薬指の付け根、少し中指寄りの所。


 そこには、ロンと同じ、小さな黒子ほくろがある。


 私はロンの手の黒子に触れ、彼の顔を見た。

 私の視線を受け、彼はほとんど反射的に目を逸らした。

 私から逃れる様に扉から手を離し、刀を持ち替え、左手で扉を開ける。

 そして黙って物置から出て行った。


 **


 狭い物置の中は、静寂と暗闇が支配していた。

 麻袋で窓を塞いだ物置の中は、僅かな月明りすら中に入ることが出来ない。

 私は寝床に入りはしたが、とても眠れるような状態ではなかった。

 たった今、鬼に遭ったばかりだというのに、心の中はぐちゃぐちゃに入り乱れ、色々な思いが幾つも同時に湧き起こる。


 「あの人」と同じ顔、同じ声、同じ黒子。

 さっきの様子だと、多分、私が手の黒子に目を留めたのに気付いている。

 顔も、声も、黒子も同じだけれど、背丈は違うし、夢の中の雰囲気からして、「あの人」は刀を使えるようには見えない。

 それに「あの人」は、男共に殺されたのだ。


 そうだ。自警団が忙しいのは今に始まった事ではないのだろうに、どうしてロンは身銭を切ってまでを買ったのか。

 私が不憫だったのか。いや、こんな身分の人はこの村に他にもいるだろうし、私は売り買いされる人間としては恵まれたほうの立場にいた。

 もしかして、だから?


 子供の頃から言われることがあるのでそうなのだろうが、私は割と「別嬪」の部類に入るらしい。だが際立って目を引く程ではないし、彼の態度や周りの人の反応からして、彼は私の容姿目的で買った訳ではないのだろう。

 じゃあ、何故?


 「あの人」と同じ顔で、鬼の声を発し、私を救った、あなたは。


 突如、昼間のユウの言葉が脳裏に甦る。


 ――あのね、ロンってさ、今まで散々鬼と戦って斃して来たんだけど、一度も負けたことがないんだ。

 剣の腕は凄いよ。どこでどう身につけたのか知らないけど、あの玩具おもちゃみたいな変な刀を振り回して、なんだって倒していく。でも、ロンは「強い」だけじゃないんだ。

 「負けない」んだ。


 どんなに叩かれても、傷つけられても、「負けない」。

 この村に流れ着いて来た時も、誰もが絶対に助からないと思うような状態だったんだって。なのに、そんな状態に「負けなかった」。

 並の人間の常識じゃ考えられないような体力と抵抗力がある。

 それはね。


 ロンが、鬼の血を引いているからだ、って。

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