第2話 彼に買われ

 夢と現実が交差し、座り込んだままロンを見上げていた私に向かって、彼は膝をついてかがみ込み、目線を合わせた。


「怪我は」


 そう言いながら先刻張り飛ばされた頬に触れようとする。私は慌てて俯いた。

 冗談じゃない、いつ洗ったか分からない上に山羊乳まみれの私の顔なんかに触ったら、彼の手が汚れてしまう。


 大丈夫です、気にしないで下さい。ありがとう。


 ぱくぱくと唇だけが宙を噛む。悔しい。折角助けて貰ったのに、感謝の言葉が伝えられない。

 声が欲しい。そして感謝の言葉を伝えたい。


 ありがとう。嬉しかった。

 信じて貰えて。


 荷物を纏めた移動商人が不思議な愛想笑いを浮かべながら降りて来た。女将に宿代を払っている。あれが金子袋か。あんな大きなもの、仮に私が盗んだとしても隠しようがないじゃないか。

 逃げる様に去ろうとした奴の襟首を自警団の一人が捕まえる。

 奴の入国札らしきものを見ながら帳面に何かを書いている。全方向から鋭い視線を浴びながら、移動商人は物凄い勢いで去って行った。


 **


 移動商人が去り、騒動が収まったというのに、ロンは私の前から離れない。

 澄んだ菫色の瞳で私の顔を見つめる。


「声が、ないのか」


 頷く。彼の周りに立っていた自警団達の空気が僅かに揺れる。


「ロン、こいつはあんたがわざわざ気にかけてやる様な奴じゃないよ。ほらユニ、それで床を拭いておきな」


 滞った空気を女将の声が破った。女将に雑巾を投げつけられ、我に返る。私はロンに軽く会釈をした後、俯いて床を拭き始めた。それと同時に彼も立ち上がり、私から少し離れる。


 助かった。

 これ以上彼に見つめられたくなかったから。


「女将、彼女は市で買ったのか」


 それなのにロンはまだ私の話題を続行中だ。もうこれ以上、こんな私なんかに構わないで欲しい。


 彼にこんな姿を見られたくない。


「そうだよ、見りゃ分かるだろ。叩き売りしていたからさ」

「叩き売り。ああ、だからか」


 彼は女将の方に歩いて行ったようだった。


「女将も相変わらず人がいいな」

「は?」

夫君ふくんが亡くなって大変なんだろう? これだけ繁盛しているんだ、幾らでも力のある奴や金勘定に強い奴を買ったり雇ったり出来るんだろうに」


 ロンはそう言って暫く仲間と何やら話し込み始めた。


 実は私も、彼と同じ事を思っていた。

 私は確かに安かった。お値段通常価格の半額、たったの五十センだ。だが特別な技能もなく、力もない。

 この店は繁盛している。だからもっと値段の高い、有能な人を買うことだって出来たはずなのに。


「どんなもんかなあ。まあ悪くはないと思うけれど、他の奴とじっくり話し合ってからでもいいんじゃねえか」


 ロンが何かを話したが、皆はあまりいい顔をしていなかった。私は床を拭き終え、その場を去る。

 そろそろ食事を終えた客が帰り支度を始める頃だ。いつまでも夢の世界を引き摺っている訳にはいかない。


 少し冷静に考えれば分かる事だ。

 ロンは、「あの人」ではない。


**


「ユニ、話がある」


 私が物置で先輩に言いつけられた探し物をしている時、女将に呼ばれた。飯屋に行くと、ロンと仲間達はまだそこにいた。


「お前、自分の荷物はあるかい」


 女将の言葉に首を横に振る。すると彼女は何とも言えない表情をした後、一息ついて言葉を続けた。


「じゃあ今からここを出て行きな」


 その言葉が私の心に入る前に女将は更に言った。


「お前、自警団に買われたから」


 え?


「聞こえたろ。お前はもうウチのもんじゃないんだよ」


 言いながら女将は手で追い払うような仕草をする。


「正確に言うとね、あんた、この人、自警団長のロンに買われたから」


 ええ!?

 そんな事急に言われても。女将が私を誰に売ろうと、私がどうこう言えるわけじゃないのは分かっている。

 でもなんで、よりにもよってロンに。まあよりにもよってってなんでよりにもよってなのかよく分からないが。

 「自警団」の団体に買われたんじゃなくって、「自警団長のロン」に買われたって、なんでいきなり。なんででわざわざ。

 なんで?


 そんな思いが頭の中を駆け巡るが、勿論声に出せない。尤も声が出せても纏まった言葉にして話せたとは思えないけれど。


 女将は少し困ったような顔をしていた。


「ロン、本当にいいのかい? こいつ、こんな風にぼーっとしている所があるし、それほど力があるわけでもないし、結構とろいよ。それに」

「大丈夫だ、女将。俺を信用しろ」

「信用ってあんた、この村であんたを信用していない奴なんかいやしないよ。そうじゃなくて別にあたしは」

「いいから。大丈夫。彼女は女将が折角守った人だ、悪いようにはしない」

「は? ロンお前何言って」

「というわけで」


 私の事を話題にしているのに私の事を置いてけぼりにして会話を進めていたロンは、そこで初めて私の方を向いた。


「俺はロン。この村の自警団長をしている。名前は、『ユニ』でいいか」


 頷く。

 本当は違うけれど。私を拾った異国人の人売りがそう呼んでいたことから、なんとなく「ユニ」ということになっている。


「ユニ」

 

 ロンは「あの人」と同じ、澄んだ菫色の瞳を私に向けた。


「俺が、ユニを買った。今日からユニは、俺のものだ」


 **


 飯屋を出た後、私はロンから現在の状況を聞いた。

 私はロンに買われた。といっても、自警団の詰所での下働き係として、ロンが個人のお金で買ったらしい。詰所には女手がなく、団員も忙しいので、細かな世話を焼く人間が一人いると便利だろうから、という考えなのだそうだ。

 だから寝起きするのは詰所の物置で、別にロン個人に仕えるわけではないらしい。


「ユニ、飯屋での扱いはつらかったかもしれないが、別に女将にユニを苛める気はなかった。分かっているな」


 ロンが私に向かって静かに語り掛ける。

 頷く。分かっている。一日一回の食事も、給金がない事も、すぐに拳が飛んでくることも、私のような立場であれば普通だ。

 私の村にも、同じような立場の人間はいたから知っている。


「あの女将はあんな愛想のないツラだけどよ、ばかみてえに人がいいんだよ。多分ユニみたいな年頃の別嬪が叩き売りになっていたから、どんな奴に買われるか分かったもんじゃないから自分が買おうと思ったんだろうな。本人は認めていないけどよ」


 女房が妊娠中だと言っていた、リクという名前の男が、そう言って笑った。


 ああ、そういう事だったのか。


「で、このロンはその『どんな奴』じゃないから。この村の誰もが認める清廉潔白な野郎だ。もうホント、鬱陶しい位清廉潔白」


 何か思う所があるのか、マイおばさんの旦那、シュウが、棘のある口調でそう言ってほかの仲間を見る。

 一同、大きく頷く。


「まあ、多分仕事はきついだろうが、安心して働くといいよ。買い主がこのおっさんなら」


 そこでシュウは「あ」と小さく声を上げて言葉を続けた。


「ロン、こいつ見てくれこんなだけど、もう三十五歳だから」


 三十五歳か。

 ……って、え?


「ユニは口がきけない代わりに思ったことが分かりやすく顔に出るな」


 リクは愉快そうに手を叩いて笑った。


 いやいやいやいやそれはおかしいだろう。一体何をどうしたらこんな外見のまま三十五年も生きていられるんだ。どう見ても二十歳かそれよりちょっと上くらいじゃないか。


 私が「あの人」とロンをそっくりだと思ったのは、単純な目鼻立ちだけではなく、年齢も同じ位だと思ったからだ。だがロンが三十五、だというのなら、やはり、彼は「あの人」ではない。


 改めて彼の事を見る。

 そう言われると、「あの人」とは少し違う。当たり前と言えば当たり前だが。


 漆黒の髪は短く切り揃えられておらず、他の男性と同じように肩の上位までの長さだ。

 澄んだ菫色の瞳を持つ、切れ長で大きな二皮目ふたえの目や、すっきりと高さのある鼻梁、締まった口元、そして初雪の様な独特の白くすべらかな肌は「あの人」と同じ。


 だが「あの人」は飛び抜けて背が高いが、ロンは普通だし、何より仕草や口調、態度が全然違う。

 「あの人」は穏やかで、物静かで、控えめだ。ロンの様に押しが強く貫禄のある性質ではない。


「女将の言う通り、本当にぼーっとしているんだな」


 ロンの妙に冷静な声で現実に引き戻される。

 あぁしまった、また夢と現実の間を行き来してしまった。


「この調子で、よくミ村の襲撃から生き延びられたな」


 いきなり故郷の名前を出され、私の体が凍り付く。


「ユニ、その様子だと生まれつき話せないわけじゃないんだろう。原因は鬼の襲撃か」


 曖昧に頷く。

 自分の体の異変を治療師に見せた訳ではないので確実ではないが、あの日、家族の死体の下に隠れ、鬼の立ち去るのを待っていた時を境に、私は声を失った。


「その時の服のまま、沓を無くしたまま、今まで過ごしていたのか」


 私の帯締めを指差す。


 ああ。

 私がミ村出身だと断言したのはこれのせいか。

 細く丈夫な紐を綺麗に編んだ帯締めは、ミ村の特産品だった。

 もう二度と、新しいものが作られることはない帯締め。


「人が話し掛けているのに、ちょいちょいぼーっとするな、ユニは」


 ああぁ、しまった、また自分の世界に入ってしまった。

 私が手を合わせて頭を下げると、ロンは私の真横に立ち、少しかがんだ。


 かと思うと、いきなり私の事をひょいと抱きかかえた。


 え?

 な、何するの、何するのこの人いきなり!?


「ここから詰所までは結構歩く。この寒いのに裸足じゃ冷たいし痛いだろう」


 ちょっと待って、結構歩く距離をずっとこの状態のつもりなの?

 変だし、重いし!

 いや、それより。


 買った女の足の事なんか心配するのはおかしいし、ひと月位着たきりな上に山羊乳まみれの状態で、あなたにこんなに近寄りたくない。


 どうにかロンの手から逃れようともがくが、彼は私の事をしっかり抱えたまま離さない。


「動くな、抱えにくいから。そのままじっとしていろ」


 そう言って仲間の雑談に相槌を打ちながらどんどん歩く。


「後で服や沓もどうにかする。食事も普通に摂らせる。ユニは俺のものだ。大事にする」


 私の顔を真っ直ぐに見つめ、囁くように語り掛けて来る。


 ふと、夢の中の「あの人」と重なる。


「だが」


 だが、その後に続く言葉が、私を現実に引き戻した。


「いいか、初めに言っておくが、俺は無駄遣いが嫌いだ。人の厚意には期待以上に応えるが、払った金の分の見返りはきっちり貰う」


 **


 詰所の扉を開けた途端、その意味が思い切り理解出来た。

 成程。世の中は色々な意味で甘くない。



 詰所の中は、まるで空き巣が百人位押し寄せた挙句に何も盗らずに帰った直後の様に、大量のモノが溢れて散らかりまくっていた。

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