一香惚れ

 少しずつ時を重ねて、少しずつあなたに近付いて。

 あなたの香りに触れる距離に僕がいることを許された日。


 つい、いい匂いがする、と呟いた僕に対してあなたは言ったよね。

「ウソをつかないで」


 本当にそう思っているのに、なんでウソツキだなんて言うんだろう。どうしたら信じてもらえるんだろう。これが本心だって伝わるんだろう。

 そんなことを本気で考えたりしてた。

 今ならわかるよ。あれは照れ隠しだったんだって。


 ちょっとした不注意で服を汚してしまって、あなたの家で僕の服を洗ってもらった日があったよね。乾かした服を羽織ったとき、ふわりとあなたの香りがしたんだ。

 洗剤の匂いだけじゃない、なにか不思議な香り。僕がいい匂いだと言った、あなたの香り。

 

 ねえ、知ってた? 嗅覚って、五感の中で最も感情や記憶に結びつきやすいんだって。

 匂いを処理する嗅覚野っていうのは、感情を司る扁桃体へんとうたいや、記憶を司る海馬かいばっていう場所とつながってるんだよ。

 ああ、こんなことばかり言ってると、またウンチクが始まったってウンザリさせちゃうね。


 とにかく、言いたかったのは、嗅覚はいろんなものを想起させやすいってこと。

 だからなのかもしれないね。自分の家に帰ってからも、いつもより鮮明にあなたのことを思い浮かべることができた。

 その服を羽織っている間は、あなたに包まれている気がしたんだよ。まるで赤ん坊が母親に抱き締められているような、そんな安心感とでも言えばいいのかな。ずっと、そんな気持ちでいたいと思った。


 この現象のことを、なんて呼べばいいかな。

一目惚ひとめぼれ」じゃないから。

一香惚ひとかぼれ」とでも呼ぶことにするね。



 とにかく。これが。

 僕があなたから離れられないと思ったときのこと。

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