第38話 忘れないで

 気がつくと、もう外はとっぷりと日が暮れていて、起きた杏は頭がガンガンしていた。きっと泣きすぎたせいなのだろう、涙が流れ続けた頬もヒリヒリした。

 氷で冷やそうと製氷機を開けた。

 ヒラヒラと何かが落ちたのに気がついてそれを拾い上げる。

「杏さん。氷の食べ過ぎはお腹壊しますよ。」

「え…。」

 小さな紙にそれだけ書かれてあって、そのなんともないコメントは「僕を忘れないで」と言っているようだった。

 本当、馬鹿ね。こんなことしなくても忘れられるわけないのに。エルがいうように神様が罰を与えて私からエルだけじゃなくエルの記憶ごと奪わない限り。

 エルも神様に挑んでいるつもりで書いたのかもしれない。こんなことまでしたのにそれさえも消しちゃうんですか?と。

 エルの真意は分からないけれど、甘えん坊で寂しがり屋のエルが忘れないでと一生懸命に訴えていることは確かだった。冷蔵庫を開けても紙がひらりと落ちた。

「杏さん可愛い。」

「フフッ。エルたら。これはお得意の言葉ね。まったく…そこかしこに何か入れてあるのね。」

 いつの間にやったのか…。でも、紙に何を書こうと考えて、書いた紙を隠して…とやっているエルを思い浮かべると、おかしかくて愛おしかった。


 何日か後にも紙は出てきた。最初にわざわざ探してみつけるのはやめようと決めていた。たまたまみつけた喜びを感じようと決めたのだ。ある時は電球の買い置きの袋の中から出てきた。

「僕なら脚立出さないで替えれます。」

 挑戦的な内容に杏も負けじと対抗してみたりした。精一杯の背伸びをしても届かない。

「もう。だから僕がやるって言ったのに。」そういって杏の後ろから電球を奪い取って、わざわざ覆いかぶさるように取り替えるんだろうな。

「ほら替えれた。」って言いながら無駄に抱きしめたり…。

 杏はエルがいなくなっても、エルがその場にいるかのようにエルなら何をするかがすぐに思い浮かんだ。

 このままじゃただの妄想癖のおばあちゃんになっちゃうわね。

 でもあれ以来、代理で来たおじいちゃん天使は一度もアパートに来ないし、あの感じの悪い先輩天使がやってきて、早く運命の人を探せと急かされることもなかった。もちろん、いつかのレストランに行っても結菜に会うこともなかった。

それなのにエルの記憶も天使の記憶もまったく無くならなかった。

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