第37話 手紙

 何も聞けなくなってしまった杏に、おじいちゃんはお茶のお礼を述べて帰って行った。

 一人アパートにいる杏は全てが夢のような気がしていた。

 天使なんていう変わった子…。そんな子がいたのかな。そんな気持ちになる。

 そういえばお休みしたんだっけ…仕事。休みならゴロゴロ過ごしたっていいんだよな。と何もやる気がせず、ベッドに向かった。

 ベッドには確かにそこに誰かが寝ていたあとがあって、その光景に胸がズキッとした。いつもエルが寝ていた壁側の方へもぐりこむ。

「エル…。」

 やっぱり悪い夢よ。エルがいなくなっちゃったことが夢なのよ。きっと大掛かりなエルのいたずらで、笑いながら部屋に入ってくるの。騙されちゃって杏さん純情なんだからって。それで怒る私にやり過ぎちゃった?ごめん…。って抱きしめるのよね。きっと。

 その情景が手に取るように思い浮かんだ。

 余計に寂しくなって布団を抱きしめると、ふわっとエルの香りがする。今にも杏さんって声が聞こえてきそうなのに…そう思って寝返りをうつ。

 ん?何か…ここにあるような…。

 杏は起き上がると違和感を感じた部分を探った。見ただけでは分からないが、触ってみるとシーツの下に小さな段差があった。シーツをめくって確かめると封筒が置いてある。

 心臓が飛び跳ねるのを感じながら、急いで開けようとするが、手が震えてなかなか思うように開けない。

 やっとの思いで開くと中には何度か見たことのある文字が並んでいた。


「大好きな杏さんへ。

この手紙が読まれることがあるのか分からないけど、読んでもらえることを願って書きます。」

 エルだ…。確かに文字も文章もエルのものだった。いつの間に手紙なんて…。

「僕は運命の人をみつける手伝いをする、会わせ屋という天使の仕事をするのは初めてで…。杏さんには本当にご迷惑をおかけしました。」

「本当よ…。」

 そうつぶやくと何故だか今さら涙が出てきた。こんな改まった手紙を読んで現実のことなんだと思い知らされている気がしたせいなのかもしれない。

 涙でにじむ風景の中でエルが笑っている気がして、泣いてちゃダメね。せっかく書いてくれたんだもの。読まなくちゃ…。と涙を拭いた。

「僕の初めての仕事の担当が杏さんで本当に良かったです。担当する前に教えてもらっていた杏さんよりも実物の杏さんの方が断然きれいで可愛くて、ちょっぴりこわかったけど。でも本当はすごく優しくて。」

 もう一言余計なのよ…と微笑む。

「意地っ張りで、それなのに泣き虫で」

 何よ、この際だから悪口を言ってやる!って感じかしら。そう苦笑していたが、続きを読むと目を見開いた。

「泣き虫なんて僕しか、きっと知らないよね。そんな僕しか知らない杏さんを他の人に見られたくない。まだ知らない杏さんの顔をもっともっと見たかった。そんな僕の知らない杏さんを他の人に取られたくない。」

 手紙なのに赤面する杏は先を読み進める。

「でも…。僕の本当の気持ちをここに書いてしまったら、杏さんと話す前にさよならになってしまう。そんなのは嫌だ。ううん。さよならをしたくない。ずっと杏さんといたい。」

 杏はまた涙がこみ上げると、その先を読めなかった。

「エル…。エル…。」

 何度呼んでも、もういないことは杏にも分かっていた。

 ボロボロの顔をもう一度拭いて続きを読む。エルの思いをちゃんと受け止めたかった。そしてエルの気持ちを知りたいと思った。

「僕の本当の気持ちを自覚してしまったら、さよならが来ることは分かっていました。でも後悔していません。」

 いつも真っ直ぐな物言い、行動。真っ直ぐなエルがこの手紙の中にもいた。

「もしもいつか生まれ変わる時がくるなら、また杏さんを抱きしめてもいいですか?眠る時の杏さんの背中を予約しておいてもいいですか?」

 馬鹿ね。エル。いいに決まってる。次に抱きしめられる時は私からもちゃんとぎゅってしてあげる。そしたらきっとエルは真っ赤な顔になるんだろうな。

「でもその時はお互い人間がいいな。犬同士だって構わない。いっそ天使だっていい。杏さんと一緒なら永遠の命だって、ずっと楽しいに決まってる。」

 禁断の恋…。その響きは魅惑的だ。でも実際は…当事者は生半可なものではなかった。

「杏さんのハンバーグも予約ですよ!結局、食べられなかったなぁ。美味しいだろうなぁ。絶対に約束ですからね。約束

…。」

 分かってる…。約束よ。杏は寂しそうに約束の文字を見る。もう二度と守られないのにする約束…。そう思っても書かずにいられなかったエルを思うとやりきれなかった。

「本当に今までありがとうございました。杏さんは可愛くて優しくて、とっても素敵な女性です。僕が保証します。僕に保証されても嬉しくないかな?」

 そんなことないよ…エル。

「だから素敵な出会いがあるはずです。必ず幸せになってください。運命の人を見つけて幸せになってください。」

 何、言っちゃってるのよ。ここまで甘いこと言っておいて、はいそうですかって運命の人を探せっていうの?おかしくて笑いそうになる口元は、続きを見てきゅっときつく結ばれる。

「運命の人をみつけたお客様は天使の記憶をなくすことが決まりなんです。そうしないと天使がいるって大騒ぎになっちゃうからね。僕のことが運命の人をみつけることに邪魔になるのでしたら…。」

 何を馬鹿なことを…。エルからそんなことを言われていると思うと悲しくなる。

「でも…そんなの嫌だ。僕を忘れないで。こんなこと言っちゃいけないと思うんだけど…お願いだから僕を忘れないでください。僕以外の人にその可愛い笑顔を向けないで。」

「エル…。」

 もう手紙は残り数行だった。早く読みたい気持ちと、読んでしまったら全てが終わってしまうのではないかという気持ちに揺れる。でも…少しでもエルを感じたかった。覚悟を決めて読み進めた。

「こんなことを書いても読んでもらえるのかな。読んでもらえても、その記憶は消されてしまうのかな…。それでも短い時間でも杏さんと一緒に過ごせて僕は幸せでした。今までありがとう。智哉ガブリエル」

 杏はそっと愛おしそうに智哉ガブリエルの文字をなぞった。枯れ果てたと思えるほどに流した涙だったはずなのに、また後から後から溢れてきていた。

 杏は手紙を抱きしめると、ずっとずっと泣いた。

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