第36話 消えていた記憶

 さっきまでそこにいたはずのエルの姿は跡形もなく消えてしまった。放心状態の杏の耳にインターホンが響く。

 ピンポーン。

「松永智哉の代理の者じゃ。」

 急いで扉を開けるとそこには老人が立っていた。先輩って前の感じの悪い先輩じゃなかったんだ。そんなどうでもいいことを思って部屋に入れると無意識にお茶を出す。

「ほほぅ。こりゃ若いのによくできたお嬢さんだこと。」

 感心した様子でお茶をすする老人は優しそうな白髪のおじいちゃんで、この人も天使なのだろうかと不思議に思う。それでもエルの消えた手がかりはこの人しかいない。

「そんなことはいいんです。エ…智哉はどうしたんでしょうか。もう会えないなんてこと…。」

「おやおや。ちゃんと聞いておらんかね。では、ちょっと失礼。」

 おじいちゃんの手が杏の手に触れると記憶が溢れるように流れてきた。


 友達と喧嘩した時、お母さんがいなくて悲しくて悲しくて消えてしまうかと思えるほど、小さくうずくまっている小さな女の子。それが杏だった。

 そういえばあの時に…。そう思っていると空まで伸びそうな大木から一人の男の人が降りてきた。

「僕。エルって言うんだ。これ食べると元気になるよ。」

 そう言うと小さな杏に何かを差し出した。エルは杏が知っているままの大人のエルだった。天使が永遠の命ということは永遠に歳も変わらないということなのかもしれない。

「本当?エルって変な名前。トモって呼んでいい?」

 小さな杏はよく分からないことを言った。その提案にエルも戸惑っているようだ。

「う、うん。いいけど…。トモって…。」

「昔飼ってた犬の名前!」

 やだ…。最初の罪は私を元気づけるため…。しかもトモって私が最初に呼んだんだ。

「ほら。おいしいよ。」

 シャリッと噛んで反対側を向けて渡す。その姿にニコッと笑うと杏も受け取ってかじった。

「ねぇ。また会いに来ていいかな?」

 エルが名残惜しそうに杏を見ている。杏が食べている姿を嬉しそうに眺めていたが、帰らないといけない時間なのだろう。

「そうね。私、大人になったらいっぱいやりたいことあるの。さんじゅっさいっていうのになったら会いに来て。」

「三十歳?遅くない?」

 残念そうな声を出すエルに小さな杏は首を振る。

「ううん。遅くない。それまでにすっごく可愛くなっておくから。」

 力強くピースサインを出す自分にどこからそんな自信が…と昔のことながらに恥ずかしくなった。


 ふっと現実に引き戻された杏は、目の前のおじいちゃんに詰め寄る。

「どうしてエルは私に罪だと分かってて天界の食べ物を…。」

「それは自分も母を失っておったからじゃないかのぅ。放っておけなかったんじゃろ。おぬしは今にも消えそうじゃったからな。」

 確かに寂しくて寂しくて消えてしまいそうだった。もしかしてエルも同じ気持ちだったのかな。アパートに転がり込んでから何かと寂しがるエルを思い出す。

「エルは約束を覚えてて会いに来てくれたの?そんなこと一言も…。」

 おじいちゃんは首を振った。

「おぬしも忘れてたおったように、エルも罰を与えられた時にこのことは忘れさせられたよ。覚えておるのは罪を犯したこととその内容くらいじゃ。誰にとは覚えておらん。」

 おじいちゃんはまたお茶をすすると「うまい茶じゃの」とのんきに笑った。

「でも三十歳に会いに来たわ。どうして?」

 杏は聞きたいことが多過ぎて何から聞いていいのか分からないほどだ。

「さぁのぉ。偶然じゃよ。」

「それにどうして今頃になって消えてしまったの?ううん。別の罪って言ってたわ。別の罪って。」

 お茶をすすりながら片目で杏を見るとまた目をふせた。

「人間に心惹かれてしまったからじゃ。…おぬしじゃよ。お嬢さん。」

「私?私のせいで…。」

「罰は免れられぬ。天使には永遠の命が与えられておるが、それが奪われるんじゃ。」

「じゃぁ…。死?」

 ドクンと心臓が痛い。

「そうじゃ。堕天使でも悪魔でもない。つまりもう会うことはないじゃろ。」

「そんな…。」

 ショックを受ける杏におじいちゃんは続けた。

「あと急に朝ごはんを作ったり、見られなかった赤い糸を見たりしたじゃろ?」

 こくりとうなずく杏におじいちゃんはやれやれとまた首を振るとパチンと指を鳴らす。すると目の前に焼きたてのトーストが出てきた。

「わしはこんなもん朝メシ前じゃが、力を与えられんかったもんが使うには何かと引き換えにせねばならん。」

「もしかして…。」

 嫌な予感がする杏はおじいちゃんをすがるように見た。

「そうじゃ。天使の力を命と引き換えに借りているだけじゃ。あんまり使い過ぎると…のぅ。」

 罪を犯したことと朝ご飯を作ったり赤い糸を見たせいでエルは消えてしまったというのか。

「どうして?どうしてそんなことするの?」

 教えて欲しかった。ずっと一緒にいたいって言ってくれた。運命の人を僕にしませんか?の言葉も本当だったということだ。それなのに。

「それは決まっておるじゃろ?おぬしに…運命の相手を見つけてやりたいからじゃ。」

 聞き飽きた言葉に腹を立てる。

「運命、運命って!そんなことどうでもいいのに。エルに…エルさえ側にいてくれたら。天使と人間の恋が大罪というのならそんなことは望まない。ただただ側で笑っていてくれたら。」

 消えてしまうなんて…。そんなのあんまりだった。

「そしておぬしの命が尽きて消えてしまってもなお生き続けておけと言うのか?なかなか残酷じゃな。」

「…。」

 何も言い返せなかった。そんなつもりじゃなかった。でも結果的にそうなってしまう。

「仕方ないがのぅ。天使とはそういう務め。」

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