第27話 飼い犬に手を噛まれる
夕方。久しぶりの買い物からの帰り道。ご飯をどうしようかと頭を悩ませていた。
エルと夕ご飯を何にするか相談したり、一緒に作るのもいいかも。
そう思うと楽しい気分になってアパートのドアを開けた。でも部屋に入ると誰もいなかった。テーブルにメモがあるだけだ。
「すみません。今日も先輩のところに行きます。今日は本当に先輩のところに泊まることになるかもしれません。智哉ガブリエル 鍵は郵便受けです。」
楽しい気分は一気に沈んでしまった。こんなことで一喜一憂する自分に笑えてしまうが、もう落ちた気持ちは浮上させられなかった。
何もする気になれなくなった杏はコンビニに向かう。おにぎりに手を伸ばすと自然と笑みがこぼれた。
真っ直ぐアパートに帰る気になれず少し遠回りして帰る。
いつもは通らない道には公園があった。きっと夕方までは子供たちが元気に遊んでいるのだろうが、今はベンチにカップルらしい人影があるだけだ。
若いっていいな。そんな視線を送ると座っている人と目が合う。ヤバッと目をそらそうとしたその目は知っている瞳だった。
え…どうして。
愕然とした杏はよろよろとしながらもアパートへ逃げるように駆け出した。後ろから「杏さん!待って!」と声がしても振り向くことはなかった。何度もよろめいて転びそうになりながら先を急ぐ。
「待ってって言ってるでしょう?」
手をつかまれても杏は振り向きもせず背中を向けたまま言葉を絞り出した。
「別に構わないわ。エルが誰と会おうと。彼女を置いてきちゃダメじゃない。」
走って息があがる杏とは対照的に走ってきたはずなのに呼吸も乱れていないエルは冷静な声を出す。
「杏さんは誤解しています。」
誤解って…。あれはどう見たって…。
「言い訳しなくてもいいのに。それにわざわざ私に先輩の家に泊まりますなんて嘘をつかなくても。…好きな子が出来たからって言えば…。」
エルの隣に座っていたのは、よりによって結菜だった。
やっぱり男は誰でも小さくて可愛い女の子らしい子が好きなのだ。圭佑の隣にいた結菜ちゃん…その傷をえぐってもいいと思えるくらい私よりも結菜ちゃんが大切なのね。
今までの色々が全て裏切られた気がして、でもそれは自分が勝手に思い描いていたものだったのかと気持ちはぐちゃぐちゃになる。
それに今朝の「運命の人を僕にしませんか。」という言葉はなんだったんだろう。やっぱり幻だったのか。それとも私を騙したかったのか、からかいたかっただけってことか…。
「だから待ってください。ここでは話せないのでアパートに行かせてください。ダメって言っても行きます。」
有無を言わさずに力強く握った手をつかんだままアパートに向かう。振り払いたくても力ではかなわない。やっぱりエルは男なんだと再認識させられる。
アパートのドアの前に連れてこられても杏は往生際悪く鍵を開けないでいた。
「杏さん!」
「…。」
エルと目を合わせないように、じっと下を見る。アパートの廊下のグレーがどん底の哀しみまで杏を引きずり落としていくようなそんな色にさえ見えた。
「杏?いい加減にしないと無理矢理でも言うことを聞いてもらう。」
急に顔が豹変すると杏を壁に押し付けた。そしてあごをつかんで強引に自分の方へ押し上げる。自由を奪われ、近づいてくるエルの顔になす術がない。
いつもの優しいエルじゃなかった。前に部屋でキスされるかと思った時とは比じゃない。もっと冷酷で非道な有無を言わさないエルは別人のようだ。虫けらを扱うような乱暴な強引さにガクガクと足が勝手に震え始めた。
「や…やめて…。」
震える声でエルに訴える。エルの瞳に怯える自分の顔が見えた。
するとパッと手を離され、え?と思う間もなく、杏はその場に座り込んでしまった。
「ごめんなさい。脅かしすぎちゃったかな。杏さん本当に純情なんだから。」
いつものエルに戻ると杏の鞄からアパートの鍵を勝手に出す。
「ちょ、ちょっと…。」
状況が飲み込めない杏を軽々と持ち上げると抱き上げたまま易々と鍵を開けて部屋に入った。
「腰抜かしちゃうなんて本当、純情なんだから。」
抱きかかえたまま、ぎゅっとするエルになんだか腹が立ってきて胸をたたく。
「もう。なんなのよ!腰なんか抜かしてないわ。降ろしてよ。」
負け惜しみをいう杏をソファまで運ぶとそっと降ろした。
純情っていうか、さっきのはちょっと違うくない?そんな不満を言いたくても、まだ震える唇がうまく言葉を操れないでいた。勢いで言う文句ならいくらでも言えるのに…そんな恨めしい気持ちでいるとエルが落ち着いた声で話す。
「ちょっと実力行使が過ぎましたね。乱暴してすみませんでした。でも杏さんにはちゃんと話したいんです。 」
頭をポンポンとするともう一度ぎゅっと抱きしめた。そして抱きしめた手を離すとまた話し始めた。
「結菜さんは…前のお昼に圭佑さんとたまたま会った時です。圭佑さんと杏さんが見つめあっていた時に、僕のポケットに紙を入れてきました。」
見つめあっての部分には納得がいかないものの、あんな一瞬でエルを誘う結菜ちゃんって…。
「紙には、いつでもいいから同じ場所で会おうと書かれていました。いつ来てもあの場所にいるからと。僕も気にはなったので会うことにしたんです。それでお昼にレストランへ行って何度かお昼に会いました。」
何度か…。私がお昼はどうする?ご飯食べてないんでしょ?と心配しても断っていたのは、そのためなのか。心配して馬鹿みたい。
杏はやりきれない思いに手を握りしめた。強く握る手の平には爪が食い込んで痛い。でもその痛みですら、胸の痛みを紛らわすことはできなかった。
「そしてレストランでは大切なことを話せないからと改めて今夜あの公園でと言われて。」
何故こんな告白をわざわざ聞かないといけないんだろう。アパートの壁の白さに今まで感じたことのない圧迫感を感じた。
「それで彼女は…。」
沈黙するエルに、どうせ結菜ちゃんに僕のことが好きだと言われたとか一目惚れですって言われたと報告を受けるのだろう。何故こんなことを聞かなきゃいけないんだろう。
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