第22話 唇に触れたのは

「ねぇ杏さん?」

 次を言われる前から嫌な予感がした。こういう呼び方する時は、変な子の発言する時だ。

「お風呂一緒に入りません?」

 ほら来た。もう前だったら怒り心頭してるわね。でも私だって大人。もう対処の仕方くらい心得てるわ。

「入らないって前に言ったはずよ。」

 だいたい抱きしめながら、そのセリフ言う?と怪訝な顔をしつつ、普通が分からない子なのよね…と諦める。

「じゃ海に行きましょう!海なら一緒に遊べますよね。」

 水着…着たくないなぁ。だいたい水着なんて下着しか履いてないのと一緒じゃない。エルの水着姿なんて目のやり場に困りそう。それなのにエルのことだ。構わず水着のまま抱きしめたりするんだ…。

 どうなるか目に見えていて行く前から嫌になる。でもどうせエルには通じない。そう悟ったように、とりあえずエルが諦めそうなことを口に出す。

「何を言ってるのよ。まだ海なんて早いわ。」

 春で良かった。夏ならすぐにでも行きかねない。

「じゃお風呂でいいです。」

 抱きしめられたままでもニコニコした顔から発せられた言葉だと分かるほどに楽しそうだ。いい加減、腕の中から解放されてもいいんじゃないかと思える時間だが、杏でさえそんなことを忘れていた。

「いいですって百歩譲った風に言われても無理なものは無理。」

「嫌です。」

 頑なに折れないエルに仕方なく杏が言ってみる。

「じゃドアを開けたら、そこはプライベートビーチ!とかだったら一緒に行ってもいいわよ。」

「それねずみが嫌いな猫型ロボットの話でしょ?」

 エルが呆れた声を出す。

「天使って言うんだからさ〜。」

 ふぅ。これで諦めてくれるかな。

 そんな思いは裏切られ、抱きしめた腕を離すとエルが神妙な面持ちで言った。

「分かりました。じゃ目をつぶってください。」

 本当に魔法みたいなのが使えちゃうわけ?まさかね…。ドキドキしながら目をつぶった。

 その姿を見てエルは赤面していた。

 うわ〜可愛い…。本当、杏さんって無防備すぎるんだよね。こんなの男の前でやっちゃダメなのに…。分かってるのかな。でも…杏さんが悪いんだもんね。だってこれキス待ちしてるみたいだよ!知らないんだからね!

 杏の唇に何かが触れる。そしてそれはそのままふれたままだ。

 うそ…え?これって…。

 目を開けるとエルの…エルの手が顔の近くにあった。そして指が二本。

 指が…。指?エルがその二本の指を杏の唇から離すとその先にあるニヤッと笑ったエルと目があった。

「アハハハッ。やーい。騙された。」

「何よもう!」

 真っ赤になる杏を再び抱きしめると諦めることを知らないのか、まだエルはお風呂のことを言う。

「そんな夢みたいなこと言ってないで現実で楽しいことしましょうよ〜。」

 何よ。今のいたずら完全スルーなわけ?

 納得できない杏だったが、自分で掘り返すのも馬鹿らしくて、壊れそうに早い胸の鼓動も、爆発するんじゃないかと思えるほどの顔の赤面も無視することにした。ちょうど抱きしめられて顔をエルに見られないのは好都合だった。

「一緒にお風呂に入ったって楽しくない!」

 何を言ったら諦めてくれるのか杏にはもう思いつく気がしない。

「楽しいですよ〜。水の掛け合いっことか、どっちが水の中で長く息を止められるか競争とか。」

 相変わらずの発言にだんだんと冷静になる。

 分かった。頭の中は小学生なのね。無邪気すぎる物言い、行動。全てが納得できる答えだ。

 そういう意味で天使よね。ピーターパンさながらの永遠の少年って感じ。外国生活が長かったせいかと思ってた(勝手に)けど、ネバーランド生活が長かったのね。

「海に遊びに行ったら楽しいよ。絶対に可愛い水着にしてくださいよ。そしたら杏さんに気づかれないように後ろから紐をシュルシュル〜って取るんです。そしたら杏さんがキャッって。」

「本当に小学生だわ…。」

 ドキドキして馬鹿みたい。

「え?何か?」

 無邪気な顔のままのエルは杏の表情の変化に気づかない。

「そうね。わたしがキャッってなかったらエルは頬にヒトデをくっつけるってことね。」

「え〜頬にヒトデなんて嫌だな〜。」

「何をのんきなこと言ってるのかしら。分からないの?」

 腕の中から離れた杏のにっこりした目は冷たくて、そっとエルの頬に杏の手が触れた。

「ほら。ここにヒトデって言ったら分かるでしょう?」

 バチンッということだ。

 サーッとエルの笑顔も消えて、壊れそうに首を横に振ることになった。

 この日、いたずらが過ぎたエルは杏をこれ以上怒らせないために静かに過ごすことになった。

 たまに見せる凛々しい姿はなんなのかしらね…。外で他の人もいる時に会った時とかの。二人でいる時は基本へたれなのに…。

 そんな素朴な疑問が浮かびつつも、睡魔には勝てなかった。疑問もそのまま夜の闇に紛れてしまった。

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