第16話 素直になんて…

 朝になると眠れなかった昨晩のあんなにつらかった時間が嘘のように晴れやかだった。

 カーテンの隙間からは穏やかな光が入り込んでいた。

 よし。今日も仕事を早く終えて…。

「うひゃあ。」

 隣に気づいて変な声が出る。急いで口をふさぐと、隣でうう〜んと寝返りをする人がいた。

 なんで…エル…。

 そういえば昨日は鍵を置いていったのかどうかは知らない。鍵を持って出かけていたのか…。いつの間に隣で寝たのだろう。

 まだドキドキとする鼓動はエルにも聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。

 と、とにかくエルから離れなきゃ。

 そう思った心を読んだのかと思うくらいにタイミングよく杏の腰にエルの手が回る。

 えぇ!と心の中で叫ぶ杏をよそに、杏さん…と寝ぼけてムニャムニャと何か喋っている。

 そのなんとも無邪気な、そして馴れ馴れしい行動にだんだんと腹が立ってきて、思いっきり蹴り飛ばして自分から引き剥がす。

 エルが帰って来てて、くっついてきて嬉しいなんて、そんなこと思うもんか!

 転がった勢いでベッドの向こう側の壁にぶつかると寝ぼけて頭をかいた。

「あれ?杏さん。…もう朝ですか?」

 のんきなものだ。いちいち私の気持ちをかき乱すくせに。

「ふふっ。やっぱり起きた時に杏さんがいるって幸せだなぁ。」

 まだ寝ぼけた顔で夢見心地なことを平気で言った。昨日、喧嘩別れっぽく別れたこと忘れたのか…。

「ねぇ。使わない時は鍵を置いていってくれないかしら。」

 無邪気だった顔がしょんぼりした顔に変わると何故だか杏までズキッとする。

「だって帰ってくるの遅くなっちゃいそうだったけど、杏さんと一緒に…。」

 帰ってってここがあんたの家なのか。そんな意地悪な気持ちがむくむくと心を支配する。エルも一緒にいたいと思ってることに嬉しいなんて気持ちは追い出してやる!

「ねぇ。ここに住まわせるのは病気が治るまでじゃなかったかしら?そのあともう少しとは言ったけど。」

 ドキッとして気まずそうな言われたくなかったという顔を見て、自分も言ってしまったことを後悔しそうになる。

 でもダメ。今まで見ないふりをして来たから振り回されるんじゃない。

 杏は決意すると口を開こうとする。するとその前にエルが口を開いた。

「すみません…。でも杏さんの側にいたいんです。」

 潤んだ瞳で見つめられ、そのまま、私もという言葉が口の先まで出そうになる。しかしそれはまたエルの言葉に阻まれた。

「運命の人を見つけるまでですから…。」

 ドクン。ぎゅーっと胸をつかまれたような一言に杏は気持ちを閉ざす。

「そう。分かったわ。」

 冷たく言って部屋から出て行った。


 ドタバタドタッと急いで駆けてくる音が聞こえるとエルが追いかけてきた気配がした。

 ふわっと大きな体が杏を覆う。

「やめてよ。」

 冷たい声にエルは寂しそうにつぶやいた。

「仕事が忙しくて会えないから寂しかったんです。本当はずっと一緒にいたいのに。だからせっかく一緒にいられるのに冷たい杏さんは寂しいです。」

「仕事…。そうよね。他のお客もいるんでしょ?私とばかりいないで他のお客の相手もちゃんとしなさいよ。」

 しばしの無言のあとに後ろから抱きめしていた腕が外された。ぬくもりが離れるとまた一段と寂しい気持ちになる杏はエルに振り回されるものかと首を振る。

 でも離したのは一瞬で首を振っている杏をくるりと自分の方へ向けると、今度は両手を顔の辺りに持ち上げられて、つかまれた。握られた両手の向こうにいるエルが近くてドキドキする気持ちを悟られないように目をそらす。

「杏さん。僕は杏さんだけです。天使が担当する人は一人なんです。だから僕が頑張っているのは杏さんだけのためです。」

 えっ…とエルを見ると目が合った。

 しまった…。目を合わせたら…。どこまでも純粋な瞳に吸い寄せられるように目が離せなくなった。

「杏さん…可愛い…です。もしかして、いるかもしれない他のお客様にやきもちを焼いたから冷たいんですか?だって、今まで僕のことなんて興味なさそうだったのに。他のお客なんてそんなこと言うなんて…。」

「ヤキモチ…。冗談じゃない!違うに決まってるでしょ。だいたい昨日のことまだ怒ってるんだからね。」

 つかまれた手を離そうとしても離せない。図星をつかれて、とにかくこの場から逃げ出したかった。

「じゃどうしてあんなこと言ったか教えてください。じゃないとこのまま…。」

「このまま何よ!だからまだ昨日のこと怒ってるって言ってるでしょ。」

 できる限りに強がって言うとエルと杏の間にあったつかまえられていた腕をどけられた。二人の間をガードする壁のようになっていたのに、二人の間には何もなくなってしまう。

 やばい…。もう…。

 固まって、ぎゅっと目をつぶった杏の顔を通り過ぎて、エルの顔は杏の肩に置かれた。

「朝ごはん食べましょっか。」

 耳元でそれだけ言うと洗面所の方へ行ってしまった。

 残された杏はささやかれた耳を押さえ、その場に座り込んでつぶやく。

「今の…今の…やばかった。あのまま食べられちゃうかと…。」

 結局、かき乱されっぱなしの杏は動揺した心を平常運転に戻すことに躍起になっていた。


 ザーザーと流れる水でエルは顔を洗っていた。

 あのまま…しちゃいたかったな。…キス。

 その気持ちごと洗い流すように、ザーザーと音を立てる洗面台に頭ごとつっこんだ。

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