第15話 寂しい夜は良からぬことを
しばらくぎゅとしたあとにエルが思い出したように言った。
「ねぇ。靴ずれに絆創膏を貼らなきゃ。ストッキング脱がしてもいいですか?」
信じられない言葉を無邪気に発したエルに杏は反射的に体が動いた。
パチンッ。
「いったぁ。痛いじゃないですか…。」
頬を押さえ涙目で見るエルの腕から離れると脱衣所で部屋着に着替えた。
いくら悪気がないからって言っていいことも、やっていいことも分からないのかしら。あの子は。
脱衣所から出てきた杏はエルを見るとフンッと顔をそらした。
「なんで怒ってるんですか?杏さん。」
つきまとってくるエルに杏はにらんで言った。
「無邪気なら何してもいいってもんじゃないのよ。」
「ご、ごめんなさい。でもあの…僕そろそろ用事が。行かなきゃいけなくて。絆創膏…。」
「行けばいいんじゃない?」
沈黙が流れた。その沈黙にエルがショックを受けたことが伝わる。
「…はい。いってきます。」
寂しそうに言ったエルに素直になれずに何も返事をしないままだった。
杏はベッドに入っていた。一人の部屋がこれほどまでに静かだったことに驚く。夜のとばりが下りた部屋はわずかな月の光が入るだけで、暗くて嫌になるほどに静かだった。
窓の外にはちょうどクロワッサンくらいの形をした月がぽっかりと浮かぶばかりで、曇っているわけでもない。つまり夜にしては明るいはずの今夜は杏にとっては暗く重たいものだった。
別れ際の悲しそうな目をしたエルの顔が頭から離れなかった。
ちょっと言い過ぎちゃったかな。少し常識が欠けてることくらい分かってたはずなのに。それに元々は私を心配しての言動だしね。
自分の大人気ない対応に今さらながらに反省する。
エルどうしてるかな…。寂しがってないかな。
エルに会ってから、初めてエルが家にいない夜だった。人の寝息が聞こえることに安心できていたなんて、一人になるまで知らなかった。いや。人の寝息の心地よさを知ったからこそだ。
寂しい…。
エルじゃない。寂しいのは自分だった。目をつぶっても眠れない。眠くなくても眠るなんてこと、いつものことだったのに。
眠れない杏は今まで考えもしなかった思いが頭をもたげた。
エルのこと何も知らない…。
年齢も知らなければ、好きな食べ物だって、おかゆか雑炊なんて…好きな食べ物を知っていると言えるのだろうか。
自分が知っているエルの情報の少なさにがっかりする。
どこの馬の骨か分からないエルだけど、エルだからこそ素直になれる自分がいることは認めざるを得なかった。
だいたいガブリエルなんてのが本当の名前なんていう奴がまともなわけないのよね。すっかりそれに慣れてしまってるけど。
案外ホストで源氏名がガブリエルっていうのだったりして…。…ないな。最初の不器用さ加減といい、あの子、嘘つけなさそうだもの。ミドルネームか何かとかさ、そういう…。
結局は何も知らないエルのことを、ひいき目に見ている自分に冷静な判断なんてできないな。と考えることを放棄したかった。
なのに一人の長い夜はまだまだ眠れそうになかった。そしてぐるぐるといろんな思いが浮かんでしまう。
そもそも用事ってなんだろう。心配しなくても仕事なのかもしれない。でも仕事といったら結婚相談所ということだ。
私もお客だからね。
自分の思った考えにズキッとする。仕事だからと、自分と同じようなお客が他にもいる。そういうことだ。
だから嫌なんだ。眠れない夜は。
考えなくてもいい考えが次から次へと浮かぶ。いや…正体不明なエルのことは今まで考えなさ過ぎたのだ。あの純粋そうな瞳とまっすぐで素直な物言い。それに全て…。
エルの柔らかい髪、抱きしめられた時のぬくもり…。そんなエルのことを思い出すと正体など知らなくてもいいから…と良からぬことを考えてしまう。それじゃダメだと自分の至らなさを急いで追い出した。
エルは仕事なのだ。私のことは仕事のお客。だからダメ。この気持ちに気づいては…。この自分の気持ちの名前に気づいてはダメ。
無意識に自分の心を見ないようにしていた杏は答えの出ない堂々巡りをずっとしていることに、だんだんと馬鹿らしくなってきた。
そうよ。らしくないわ。これじゃすっかりウジウジ虫ね。
フフッと笑ってエルに毒されちゃったな。と恨めしく思った。
抱きしめられ甘えることに慣れちゃうなんて女が廃るわ。そうよ。気になるなら調べたらいい。
解決したのかよく分からない結論に達すると急に眠気がやってくる。自分の意思とは無関係に襲う睡魔はエルのようだと落ちていく眠りの淵で確かにそう思った。
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