第13話 ヒーローは遅れて登場する
午後三時。杏は美優と文具店に行った帰り道を歩いていた。
「すみません。杏さんにまで手伝っていただいて。」
手には大量の文房具の入った袋を持っていた。
今は便利な世の中だ。会社で使う文房具はもちろん、たいてい必要なものはネット注文ができた。お客様にお出しするお茶でさえ注文することができるほどだ。そしてネット注文のいいところは重たい思いをしなくても届けてくれるというところだ。そう普通は。
「私が注文を忘れたばっかりに…。」
ネット注文のウィークポイントは今日すぐ欲しい。が難しいところだ。もちろんお急ぎ便など機能は色々とあることにはあるが…。今回ばかりは間に合わず、こうして実店舗に買いに行ったところだった。
「いいのよ。美優ちゃんいつもよくやってくれているもの。」
今回は失敗してしまったが、美優は本当によくやったくれていた。杏のいる部署の細かい事務処理の全般は彼女が受け持っていて、実に細かいところまで気配りが利いていた。
私が男だったら美優ちゃんみたいな子がいいな。気配りできて可愛くて、そして若いし。いいお嫁さんになりそう。実際、モテるんだろうな。
その視線に気づいたのか美優が小首を傾げて不思議そうな顔をする。
「最近、杏さん温和な雰囲気ですよね。」
「温和って…。今までは触れるだけでナイフのように切れそうだったかしら?」
背の低い美優を見下ろして、そう聞いても美優は杏に臆することはなかった。
たいていの女の子は、というか若い男の社員でも杏が何か言えば、恐れおののいて何故か謝罪の言葉まで述べて去っていくのが普通だった。
「杏さんが冗談言ってる〜。本当にどうしちゃったんですか?」
「本当。美優ちゃん可愛いんだから。」
もう!私のことじゃなくて…とまだ何か話している美優の言葉は途中からは頭から滑り落ちていっていた。
温和か…。やっぱりあの柔らかい髪を触ったからかなぁ。
空いている方の手の平を感慨深そうに眺めた。そしてもう片方の手のことを思い出す。すごい荷物…。
「しっかし重いわね。これを美優ちゃんだけに持たせるなんて…。」
「大丈夫ですよ〜。杏さん優しいんだから。もっと杏さんの優しさにみんな気づけばいいのに。」
膨れた頬を見て、美優ちゃんはいい子ね。と目を細めた。
美優は美優で、杏さんは優しいけど、本当は他の人に手伝ってもらいたかったなぁ。ほら重いし。男性とかさ。いやいや。杏さん大好きだからいいんだけど。
そんなことをぼんやり思って歩いていると美優の肩にドンっという軽い衝撃とバシャッという音が聞こえた。
「おいっ。ねえちゃん。どうしてくれるんだよ。」
振り向くと強面の男が立っていた。手に持っていたコーヒーの紙コップは空っぽで、みごとに服にこぼれていた。
「ご、ごめんなさい。」
美優が縮こまって謝る。か弱さそうな美優を見て男も態度が大きくなった。
「ごめんで済むと思ってるのか?ん?ねえちゃん可愛いなぁ。ちょっと付き合えよ。」
男は美優の腕をつかもうと手を出した。杏は冷静かつ迅速にその男と美優の間に割って入る。
「すみません。私の後輩です。何か不備がございましたか?」
「あぁん?」
見下ろした男は自分より上から声がして見上げる。杏を見て、少しひるんだ顔をした。
「クリーニング代でしたら、お出しいたします。それでご勘弁願えませんか。」
杏の丁寧な対応に、フンッと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「お金で解決しようなんて冷たいねえちゃんだねぇ。それとも何かい?いくら髪が長くたって男みたいな大女はもしかして今流行りのオネエってやつか?」
ガハハっと下品に笑うと、汚らしい目を杏に向ける。
「まぁ。脱ぎゃどっちか分かるんだがな。さぁまとめて二人こっちこいよ。」
まずい。普通に話ができるタイプではなさそうだ。せめて美優ちゃんだけでもなんとかしなきゃ…。
「おい。何やってるんだ。」
聞き覚えのある声に振り向くと、その姿を見て安心する。
「なんだ、にいちゃん。」
強面の男に杏と美優。強面の男の服は汚れ、美優が怯えている。杏は対処しようと冷静な顔をしていた。この状況を見て全て悟ったように口を開く。
「すみません。ぶつかったようですね。ですが、こちらの荷物にもコーヒーがかかっているようだ。大変貴重な物で…損害賠償がかなりかかってしまいそうです。」
ふぅとため息をついて男の肩に手を置いた。そのただごとではない様子に絡んできていた男は尻込みしたように顔が曇っていく。今までの威勢の良さはどこかへ消えつつあった。
「何、言ってんだ。そっちがぶつかってきたんだぞ。」
威勢の良さは半減しても、まだ文句をぶつけてくる。
「しかしこんな道でコーヒーを飲んでいたあなたに不備がないわけではありませんよね?いいんです。私たちはちゃんとしたところで見ていただいても。」
警察に行ってもいいんだぞという雰囲気を感じ取ったらしい。警察に行かれて困るのは向こうだ。
「チッ。もういい。クソッ。」
悔しそうにぶつぶつ言って去っていく。その背中が見えなくなると美優がガクンとしゃがみこんだ。
「大丈夫?美優ちゃん。」
「ありがとうございます。春人さんのおかげで助かりました。」
助けてくれたのは春人だった。お礼を言われ、にっこりした春人に支えてもらい立ち上がった。それでも美優は足も手もガクガク震えている。
「本当、助かったわ。あんなところで登場するなんてヒーローみたいね。」
杏だけでは解決するのにもっと時間がかかってしまっただろう。
「いや〜たまたま重い荷物があるって聞いてたからさ。様子を見にきて良かったよ。」
そう言って美優の荷物を持つ。
「でもこの荷物、そんなにコーヒーかかってないですし、特別高価なわけじゃないですけど…。」
不思議そうにいう美優に笑う。
「そりゃそうさ。あぁやって言えばどうにかなるかなって思って。喧嘩したりすると勤務中だしね。」
喧嘩強いんですか?そんなわけないだろ?本当ですか〜?杏はたわいもない話をしている美優たちを見てホッとする。
話していた春人が杏の方を向いて手を差し出した。
「ほら。杏の荷物も持ってやるよ。」
「いいって。私は大丈夫。」
断って一歩後ずさると、ドンっと背中に軽い衝撃があった。
「ご、ごめんなさい。」
私まで人にぶつかるなんて…と後ろを振り返ると、その人は杏の手から荷物を取って春人に渡した。
「これお願いします。杏、靴ずれひどいんだろ?」
そう言うとお姫様だっこさながらに杏を抱きかかえた。キャッと声を上げた杏を軽々と抱き上げたのはエルだった。
「ちょ、ちょっと大丈夫だから。」
「では、少し失礼します。」
春人を冷たく一瞥すると踵を返して去っていこうとする。その背中に美優が言葉を投げる。
「杏さん!直帰の処理しときますんで、そのまま帰っていただいて大丈夫です。」
杏の代わりにエルが振り返ってにっこり「ありがとうございます」と言ってそのまま行ってしまった。
残された二人は呆気にとられその場に立ち尽くしていた。びっくりした美優はさきほどの震えが止まるほどだった。
「…かっこいいですね。」
ボソッと言った美優の言葉に気に入らないような声を出す。
「俺、助けた方だよなぁ。なんで、にらまれなきゃいけないんだよ。」
納得いかない顔をしている春人に吹き出して笑う。
「いいとこ持っていかれちゃいましたね。」
でも靴ずれしてたなんて気づかなかったなぁ。そこは連れ出すための嘘なのかな。そんなことを思って春人と並ぶ。
私は手伝って欲しい人に手伝ってもらえちゃった。
不満げな春人とは反対に嬉しそうな美優は杏の彼氏だと疑わないエルに心の中で感謝した。
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