第10話 弟じゃない

「あ、いたいた!エ…。」

 お昼休み、エルと約束した場所で声をかけようと手をふる杏の元にすごい勢いでエルが駆けてきた。

「どうしたの?エ…。」

 もごもごもご。今回は杏が口をふさがれて、耳元でささやかれる。

「本当の名前は内緒なんですよ。みんなの前で呼ぶなんて…。」

 耳元でささやかれて真っ赤になる杏に「あ、すみません。」と手を放した。

 そんな二人をじっと見ている人がいて、エルはぺこりと会釈をした。

「杏?」

 名前を呼ばれてそちらを見ると圭祐がそこにいた。隣には小さくて可愛らしい女の子が一緒だった。

 小さくて華奢で、なのに女性らしい体つき。つまり胸はちゃんとあるってことだ。いまどきの子はどうして細くてもそうなんだろうとやっかみたい気持ちになる。あぁ。これが可愛い結菜ちゃんか。杏は一目ですべてを察して冷たい声を出した。

「何かご用ですか?」

「いや…。一瞬、誰か分からないくらい可愛い顔をしてたから…。」

 圭祐はエルの方をチラッと見て何か言いたそうだ。何よ。そっちが結菜ちゃんは俺がいなきゃダメとか言ったくせに。

 圭祐の態度にイライラしている杏の肩にエルは上から腕を回すと顔を持ち上げてみつめた。

「杏。頬にまつげがついてる。」

「え。ヤダ。どこ?」

 エルの顔の近さに赤くなりながら「目をつぶって。ほら。ここ。」と言われるまま頬を触られる。

 エルからはいつの間にか甘えん坊で可愛い雰囲気は消え、スッと伸ばした背中は男らしい風貌をかもしだしていた。二人の間には立ち入れない。そんな雰囲気だった。

 そして肩に手を回したままエルは圭祐を一瞥すると会釈した。

「すみません。僕たちランチを食べないといけないので、これで失礼します。」

 呆然と立ち尽くす圭祐に隣の女性が「私がそばにいる時に他の女の人に可愛いなんて!」そう言い残して怒って行ってしまう。それを圭祐は「待って。ごめんよ。結菜ちゃん。」と追いかけて行った。

「フフッ。なぁにあの無様な男。」

 回されたままの腕にドキドキしてることを悟られないように誤魔化す。

「ねぇ。杏さん。もうお腹空いたよぅ。」

 腕を回した方の肩にもたれかかって、子供みたいな声を出す。いつものエルに戻って杏はホッとした。


 素敵なレストランで杏はハンバーグステーキ。エルは風貌に似合わない豚カツ定食を選んだ。なんともオヤジくさい気もするがエルが頼むとそう見えないから不思議だ。

 ちゃんと「ハンバーグ、一口くださいね。」と可愛くおねだりもして。

 そのあとに杏に注意する。

「外では智哉って呼んでください。」

「う…。」

 エルは犬の名前みたいで呼びやすいけど…。智哉はちょっとなぁ。

「ほら。言って。」

 いたずらっぽい顔をしているエルに、朝のあの怒られて情けない涙目の男と同一人物かしら…と疑いたい気分になる。まだいたずらっぽい顔をするエルに杏はふくれっ面で反論する。

「何よ。意地悪なこと言う人にはデザートあげません。」

「そんな~。」

 いじけたエルは「むくれた可愛い杏さんの顔が見れたからいいですよ〜。」とまた無邪気に笑う。まったくこの子は…とまた赤面するはめになった。

 結局はデザートも仲良く食べたあと会計に立った。レジに向かっていると後ろから「杏?」とまた呼ぶ声が聞こえた。

「あら。春人。それに美優ちゃんも。」

 今日はよく知ってる人に会うわ…。そう思っていると美優が声を弾ませる。

「杏さん達、とっても背が高くてお似合いだからすごく目立ってますよ。彼氏さんかっこいい方ですね。」

 忘れてた。仕事モードの上に圭佑と別れて高いヒールしか履かなくなってたんだった。それでも並んでいて自分の方が高いという劣等感を感じずにすむエルはかなりの長身だった。甘えてばかりいるエルに身長のことなど気にしたことなかった。まして周りにどう映っているかなんて…。

「彼氏~?いや…そういうわけじゃ…。」

 慌てて訂正しようとする杏に今度は腰に手を回す。

「杏がいつもお世話になってます。同じ職場の方ですか?」

 ちょっと。この人たちには威嚇しなくていいんだってば。かっこいいモードになられるとこっちが調子狂っちゃう。そんな杏の心の声はエルに届かない。

「もう。杏さん彼と別れたって言ってたのに。ラブラブですね。」

 美優の無邪気な言葉に春人の顔がくもる。

「さぁ美優ちゃん。行こう。」

「そうですね。お邪魔しました~。」

 にこやかに去っていく二人を見送ってから不服そうに訴える。

「どうして弟って紹介させてくれないのよ。」

 「弟」の言葉にエルは不機嫌そうな声を出す。

「弟じゃないですもん。」

「そうだけど。じゃ天使です。って言えばいいわけ?」

「そう言ってくださって結構です。」

 天使なんて言ったら私が頭おかしいと思われるのに…。何故かむくれているエルにやれやれと時計を見ると、急き立てるように言った。

「もうお昼休み終わっちゃう。私、行かなきゃ。ちゃんと家に帰るのよ。」

 それだけ言うと急いで職場に戻る。仕事を上の空ですることが減ったのに午後の開始時間に間に合わないなんてダメ…。エルのことは気になったが、足早に別れてしまった。


 五時。喧嘩別れっぽく別れてしまったエルのことが気になっていた。今日は仕事を早めに進めていたため、帰れそうだ。帰ろうとしていると美優が杏のデスクに近寄ってきた。

「杏さん。もしかして犬って昼の彼のことですか?」

 ドキッとして美優の顔を見ると意味深な笑みを浮かべて、にこやかに手を振った。

「じゃ。お先で~す。」

 女の勘ってあなどれないと残された杏はドキドキしていた。


 家に帰ると誰もいなかった。テーブルにあるメモに気付く。

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。先輩の天使のところに泊めてもらいます。智哉ガブリエル。

 鍵はドアの郵便受けに入れておきます。」

 メモを手に取ると「智哉ガブリエル」と書かれたところを、そっとなぞった。

「バカね。自分の方が弟なんて思えてないくせに。」

 そうつぶやいてソファにもたれかかった。

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