第8話 本当の名前は内緒
「そうだった。明日の朝にってまたおにぎり買っちゃったのよね。食べれないなら食べちゃおうかな。」
キッチンに立った杏はおにぎりを手にソファに座る。おにぎりを食べている杏を見て「おいしそうなんだけどなぁ。」とつぶやく。
「やっぱり一口ください。」
返事を聞く前に杏の腕をつかんでそのままおにぎりにかぶりつく。
やだ。私が食べたとこ…。そんなことをこんな無邪気な子は気にしないのか…。と一人ドキドキする。
「あれ。おいしい…。」
不思議そうにもぐもぐする智哉に杏は「じゃ食べれば?」とドキドキを隠すようにおにぎりを渡す。
「でも杏さんのおかゆの方が絶対においしいから、そっちがいいです。」
わがままな子供のようにおにぎりを突き返すと「おかゆってまだですか?」と杏を見る。
「もう。雑炊ね。おにぎり今はおいしいって…。体調がどうこうっていうより…もしかして一人で食べると寂しいとかそういうこと?」
寝る時のあの寂しがりかたを思い出してきっとそうだと納得する。
「そうね。きっとあんたの場合そうよ。もうどうしようかしら。私、仕事あるしな…。」
悩んでいる杏の袖を引っ張って智哉は上目使いで見る。わざとソファに小さくなって下から見る智哉にこれをやれば言うことを聞いてもらえると分かってるのか…と苦笑する。本当に犬みたいだと。
「はいはい。雑炊ね。」
智哉は雑炊を三杯もおかわりをした。
やっぱりおにぎりを食べなかったのは体調のせいではなさそうだ。
「じゃこれからはお昼は一緒に食べましょう。」
考え抜いた杏が口を開いた。その言葉に智哉の顔がぱぁっと明るくなった。
「私は仕事があるから、仕事に行くけど、お昼に会社の近くに来られる?近くで何か食べましょう。」
仕事には行くんだ~とつぶやいてしょんぼりする。本当に犬ですか?あなたはと聞きたい気分になる。
「だいたい君は何をしに来てるの?」
いくら風邪をひいてたからって…。運命の人を見つけるっていって結婚相談所に連れていくわけでもないし、今のままじゃただ家に転がり込んできただけ…。
持ってきた鞄も紙袋も部屋の隅に置きっぱなしで最初に名刺を渡されただけだ。
もしかして「ヒモ」ってこと?ただ単にダメ男に騙されてるだけかしら…。
ちらっと智哉を盗み見ると純粋そうな澄んだ瞳と目が合う。
いやいや。この子に限ってそんなわけ…。
「あの~。杏さん?」
「はい?」
「どうして杏さんは僕のことを「あんた」とか「君」としか呼んでくれないんですか?」
急な質問にドキッとする。
だって智哉なんて呼びづらいし、智くん?智ちゃん?なんて呼んでいいのか分からない。
「あの~。僕のこと、もしかして信じてもらえてないですか?」
またまたドキッとする。でもそりゃそうだ。天使とかわけわからないこと言われて信じるほうがどうかしてる。
純粋できれいな目が寂しそうに潤んだ気がして、杏はズキッとする。
呼んであげれば良かったかな。名前。
「信じてもらえないのなら、僕の本当の名前をお教えします。」
え?本当の名前?そう杏が驚いていると智哉は構わず続けて言った。
「僕の名前はガブリエルです。」
松永智哉あらため、ガブリエルはそう言って杏をみつめた。
「ガブリエル…。本当に天使みたいね。」
智哉よりも何故かあっている気がした。別に外国人顔ってわけでもないのに。
「だから天使なんです。本当の名は実は教えてはいけない決まりなんです。心が…心が通ってしまうから。」
まだ天使と言い張るのかと思いつつも、珍しく神妙な面持ちに本当に大変なことだということが伝わる。
「いいの?そんな大切な名前教えちゃって。」
天使と信じているわけではなかったが、なんだか聞いてはいけない気がした。
「そんなの、もうとっくに通ってますからいいかなって。心。」
悪びれる様子もなくあっけらかんと笑う。まったくこの子は…。
「そういうこと言って恥ずかしくないわけ?」
「何がです?」
ダメだ。この子には通じないんだった。別次元に生きている純粋無垢な子だったんだった。
「分かったわ。せっかく名前教えてもらったんだし。ガブリエルじゃ長いから。そうね。エルって呼ぶのはどうかしら。」
「エル…。」
そうつぶやくと嬉しそうにうなずく。
「いいですね。エル。なんだかますます仲良くなれた気がします。」
結局、この日も「まだ一人で寝るのは寂しいんです」というエルと背中合わせで寝た。
そんな一言で添い寝してしまうなんてどうかしてる。そう思っても背中から伝わる体温は心地よかった。
ケーキはもちろん食後に登場した。エルが盛大に、ちょっと音をはずしたお祝いの歌を歌い、赤面するほどに杏を可愛いと褒めちぎった。
そして二人で仲良くケーキを食べた。こんなに甘くて美味しいケーキは初めてだった。
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