第2話 わたくしは天使です
数十分後、帰れと言ったにも関わらず、まだ三角の影が見える。
風がもろに当たるアパートの廊下は体感温度が玄関以上に寒い。風にどんどん体温を奪われるのだ。杏の髪が風に吹かれ暴れる。髪を押さえつけると仕方なく男に近づいた。
「ったく。話だけでも聞いてあげるわ。入りなさいよ。」
動こうとしない男の腕に自分の腕をからめて部屋に入れた。やっぱり体冷えてる、と思いながら。
放っておけない杏はいくら勝ち気でも弱っている人には冷たくできなかった。
初対面の時とは打って変わって何もしゃべらない。ソファの隣に座った男の上から下までを横目で観察する。
しゃんとしていれば長身で顔も悪くない。柔らかそうなくせ毛はボブくらいの長さでよく似合っていた。細身でも骨ばった骨格が男を感じさせる。
杏は無言の男におにぎりを一つ差し出した。
「ほら。食べなさい。ずっとあんなところで座ってたならお腹空いてるんじゃない?」
顔をあげた男は目からボロボロと涙を流した。
えぇ!今度はいきなり号泣?ドン引きな杏を置き去りに男はぺこりと頭を下げると開け方もめちゃくちゃにおにぎりを貪り始めた。
あらら。そんなにお腹空いてたのか。
なんだかペットでも拾った気分で頭を撫でてみた。男は一瞬ビクッとしたが、そのまま撫でられている。杏も意外に悪くないなと目を細めた。
おにぎりを一つ食べ終わると男は申し訳なさそうに口を開いた。さすがに杏も撫でていた手を離す。
「色々な手順を踏まず混乱させてしまって申し訳ありませんでした。」
少しの沈黙のあとに男は鞄から何やら出すと杏に渡す。白い飾り気のない名刺のようだった。
「わたしくは会わせ屋です。運命の人限定です。そしてわたしくは天使です。」
「は?」
また意味不明なことを言い出した男と名刺を交互に見比べる。名刺にはこう書いてあった。
会わせ屋
松永智哉
運命の人に出会うのをお手伝いいたします。なんなりとご用命ください。
会わせ屋の横に小さく「運命の人限定です」と書かれていた。
天使というのは設定だろうか…。キャラ設定をしてお客に接するという、まるで秋葉原のメイドカフェのようだ。
天使カフェか?いやいや家に来てるから天使の出張サービス?なんだかどんどんおかしなイメージに傾く頭の中の中身を強制的に排除する。
「天使と言っても、僕…いや…わたくしはまだ見習い中でして。」
見習い中。確かに最初の言動はどうかと思う。見習い中なら仕方ないのか…。
スーパーのレジのところに見習いのためお急ぎの方は別のレジへとのプレートがかけられたものを思い出す。
私、急いでる方じゃないのかな三十歳だし。担当の変更って可能なのかな。いや。そもそも結婚相談所に契約するほど困ってないし。…いや困ってるのか?
そんな自問自答をしている杏に名刺の「なんなりとご用命ください」の部分を指さす。
「なんでもお言いつけください。」
ニコッと極上の笑顔をした智哉は顔が崩れて可愛らしい顔になった。
「そう。じゃ、ちょうどいいわ。とりあえず付き合ってよね。」
おにぎりを渡した時の優しい雰囲気が消えて智哉は少し怯える。クールビューティの顔が真顔になるときれいというより怖いくらいだ。
「な、何をです?」
「振られた男を消し去る作業。」
冷たい声を発し、にっこり笑った目は笑っていない。
「て、て、て…天使だと申し上げましたでございまする。消し去るとは…いかなる…?」
顔が蒼白になり動揺したように言葉を噛みまくっている姿に杏は吹き出した。
「ハハハッ。ございまするってどんなよ。アハハハッ。おっかしい…。笑い過ぎて涙が出ちゃう。」
真顔が崩れて笑顔になると、ポロポロと涙が溢れる。
まさか人前で泣くなんて、そんなことあるものか。そうは思っても涙はひっこんでくれない。
「あの…。その…。」
ぼそぼそ言いつつ智哉は杏の腕を引っ張って抱き寄せた。ふわっと男の人の香りがする。
「な、何よ。天使は運命の人を探すだけじゃなくて、慰めサービスまでやってんの?」
体を突っぱねて応じようとしない杏に智哉はびくともしない。
この急な出来事に嫌な気持ちがしないのは、よっぽど自分が落ちているのか…それとも…。それにしたって…。
あまりに予想外のことに混乱した。
「分かりません。なにぶん初めてのお客様ですので…。でも次の出会いの為には思いっきり、その…あの…。わたくしは天使ですし…。」
ケンカ腰な態度におどおどしながら、それでも抱きしめた腕を離そうとしなかった。そんな智哉に杏は力を緩めた。
嫌な気持ちのしない、それどころか心を許してしまいそうな自分に屈した。
「そうね。人間の男に泣きつくなんてがらじゃないけど、天使なんだから遠慮はいらないわね。」
自分に対しての言い訳のように言って、涙ながらに微笑んだ。
人の腕の中で泣くことがこんなに安心できて心地よいものだったなんて知らなかった。そもそも最後に泣いたのはいつだろう。感動する映画を見ても泣かない私に圭佑の顔がひきつっていたっけ。
嫌なことを思い出して胸に顔をうずめる。優しく頭を撫でる手がますます涙を助長した。
「杏様は可愛いです。好きな男性の前だと化粧がボロボロになるのが恥ずかしくて泣くのを我慢なさったりして…。」
「なんでそんなこと知ってるのよ。だいたい可愛いなんてがらじゃないわ。」
今まで誰にもそんなこと言われたことなかった。さすが杏は強いな。と言われるくらいで可愛いなんて。
「いいえ可愛いです。こんなに可愛らしいお方が初めての僕…いやわたしくしは…。」
可愛いと連呼されどうしていいのか分からない杏は苦笑した。
「僕でいいわよ。堅苦しいの嫌いだし。杏様もやめて。杏でいいわ。」
その言葉にぎゅっと抱きしめられる。抱きしめられても今さら拒否する理由もなく人肌に甘んじる。
「杏…可愛いよ。」
抱きしめられたまま言われた、甘い声に鼓動が早まる。杏はごまかすように話し始めた。
「でもなんで映画のこと知ってるのよ。」
「そりゃ天使ですから。」
明るい声に杏の早まった鼓動はおさまっていった。一気に頭が冷静を取り戻す。
そうだった。これはビジネス。仕事なのだ。結婚相談所なのだから私が結婚相手を見つけられるように仕向けているだけ。
するりと腕の中から抜け出すとドンと押しやった。
「ありがと。もう大丈夫だから出ていってくれない?」
「でも…。」
戸惑う智哉に背を向けて強く言い放つ。
「出ていって!」
しばらく沈黙のあと、無言で歩き出してガチャッとドアが開いた音がした。
杏は離された体を寂しく感じてその思いを消し去るように自分を強く抱きしめた。さっきよりも広く感じる室内に虚しさを募らせた。
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