桃源堂
久山明
雨
目覚まし時計の甲高い声が、未来の頭上で朝を告げる。鶏のようにけたたましい目覚まし時計を目指し、布団の中から未来は手をのばす。ぺちんと間抜けな音が響き、未来は体を起こした。
「……雨か……」
ちょうどあの日の雨のようだと、頭を掻きながらふわりとあくびをする。カーテンの隙間から見える外では、確かにしとしとと雨が降っていた。
手早く着替えた未来は、傘をさして雨の中を何を重くことなく歩いていた。別段、何か用があるわけではない。ただ、雨の日に家の中にずっといるのが、なんとなく嫌なだけなのだ。
「雨だなぁ」
誰に言うわけでもなく呟かれた声は、そのまま雨粒とともに落下する。ぽつぽつと傘をノックしていく雨粒は、着実に軽装な未来の服を湿らせていた。未来はただただ当てもなく歩き続け、ついには来たことのない空き地にまで到着した。何もない、地面だけが存在する空き地。そこには建物もなければ、建つ気配すらない。そこだけ時間が止まっているようだ。
未来はそんな空き地をぼうっと眺め、試しに入ってみることにした。コンクリートで固められていない地面はぬかるんで、歩くたびに足跡が付く。それが何とも心地よくて、未来は微笑みながら空き地中を歩き回った。
どれだけ未来がそうして遊んだのかは分からないが、気が付くといつの間にか雨が小降りになってきた。雲の隙間からは僅かに光も漏れて見える。天使の道とはよく言ったものだと、切れ目から覗く光の筋を未来は目を細めて眺めていた。
「きれいですね、雨はお好きなのですか」
不意に後ろから声がして、未来は怪訝な表情で後ろを振り向いた。後ろには、人の好さそうな笑みを浮かべた男性が立っていた。和服に身を包んだその男性は、躊躇なく未来の横に歩を進める。未来はその男性を目で追うことしかできなかった。
「雨の中、楽しそうに歩くあなたを見ていて、なぜだかとても話しかけたくなってしまって」
そうはにかみながら頭を掻き、男性は未来と同じく雲の切れ目を見つめる。未来はそんな男性をじっと見つめてから、ふっと笑った。
「雨は、嫌いですよ。特に今日みたいな日曜日に降る雨は」
男性は少し意外そうな顔をしてから、また人の好さそうな笑みを浮かべた。
「嫌な思い出でもあるのですか」
未来は微笑みながら、空を見上げた。
「……少し」
「なら、いい思い出で塗り替えればいいんです」
無邪気にそう男性は言うと、手を差し出した。
「ここの路地を曲がった先に、私の店があるんですが、よかったら覗いていきませんか。お茶くらいならお出しできますよ」
最近の雨は冷たいですからと付け足す男性に、未来は微笑みながらその手を取る。雨はいつの間にかまた勢いを増して降り始めていた。
男性に手を引かれて未来がたどり着いた店は、本屋のような雑貨屋のような、はたまた喫茶店のような、どこか浮世離れした店だった。ドアの上には『桃源堂』と小さく書かれており、酒井とかかれた表札もポストの横に立っている。未来がそれに目を止めたのに気付いた男性は、少し頭を掻きながら、酒井恭弥と言いますと小さな声で告げた。そんな彼の様子が面白く、未来もはにかみながら柿谷未来ですと名乗った。
恭弥が洋風で周りに花々の彫り込まれたドアを開けると、チリンと可愛らしいベルの音が響いた。まるで森の中の隠れ家のようなその店に、思わず未来は感嘆のため息を漏らす。
「どうぞそこにお掛けください。今日はこんな雨ですからお客様も来ませんし、雨が止むまで紅茶でも飲みながらお話ししていませんか」
そういっていつの間に淹れたのか、既に紅茶の置かれたテーブルへと未来は案内された。置かれたティーカップからは、白い湯気と甘くどこか心落ち着く香りが漂っている。目を丸くしながら、案内されるがままにイスに腰かけた。
「ここは、何のお店なんですか」
ちょこんと椅子に腰かけたまま、しばらく辺りを見回して未来は恭弥を見上げた。恭弥は自分も椅子に腰かけながら、未来に微笑みかける。
「そうですね、最初はただの本屋だったはずなのですが。今では何のお店なのかわからなくなってしまいましたね」
恭弥の言う通り、彼の口からもともと本屋だったと聞くまでは未来も何のお店なのかわからないほど、そこはいろいろなもので満たされている。ゆったりとスペースを広く取っておかれている本棚に、その合間合間にある洋風の白い小さなテーブル。その上にはまるで宝石箱を撒き散らしたかのように散らばる、まばゆく光るアクセサリーたち。それのどれもが、白を基調としたその店によく映えている。
未来はティーカップを両手に包み込みながら、感嘆の息をもらした。
「すごい、可愛らしいお店ですね。酒井さんの好みですか?」
「私の好み……ではないのですけど、昔いた私の大切な人の好みですかね」
恭弥はゆっくりとティーカップを口元までもっていくと、一口だけ飲み込んだ。
「私の妻になるはずだったのですが、残念ながらそこまで一緒にいることができなかったのです。悔しかったので、こうやって彼女の好きなものばかりを集めてみたのですよ」
少し照れながら話す恭弥を、未来はじっと見つめた。そして初めて会った時からあった既視感に、納得がいった。
「そうですか、その人は幸せ者ですね。そうやって思い続けてもらえるんですから」
「そう思ってくれればいいのですけどね」
未来は口に入れた紅茶からするほんのりした甘さと、芳醇な香りが鼻から抜けるたびに、とても幸福感で満たされていた。
「柿谷さんは、どうして雨がお嫌いなのですか?」
何気なく尋ねられた言葉に、カップを置こうとしていた未来の手が止まった。鮮やかな紅の水面には、何も映らない未来の瞳が映る。
「私、別に雨が嫌いなわけじゃないんです。ただ……雨が降っている日曜日が嫌いなんです」
恭弥は何を言うわけでもなく、カップを口元に寄せた。
「あんまり、いい思い出がないので」
「なら、それをいい思い出に変えることはできないのですか」
未来は不思議そうな顔をしてから、首を横に振った。顔には苦笑が浮かんでいる。
「できませんよ。だって、死んだ人は生き返らないでしょう?」
恭弥はその問いには答えることなく、紅茶を飲み下す。さっきまであんなに甘かった紅茶が、未来にはまるで空気を飲んでいるように感じられた。
「確かに、死んでしまわれた方は生き返ることはできません。ですが、貴方の心残りをなくすことはできますよ。何か、あるのではないですか」
なんの躊躇もなく飛び込んでくる恭弥の問いに、未来は目を丸くした。彼の言う通り心残りがあり、それがこの思いの原因かもしれないと思い当たってから、やはり不思議に思った。なぜ自分は全てをついさっき名前を知ったこの人に話そうとしているのだろうかと。だが、微笑を湛えて見つめてくる恭弥を見ているうちに、そんなことはどうでもよくなってしまった。きっとそれは紅茶のせいだと、未来は言い訳をした。紅茶とこの何とも居心地のいい店の雰囲気が、自分を唆しているに違いないと。
最後に残った紅茶を飲み干してから、未来は口を開いた。
「私には数年前、一つ年上の彼がいました。私と彼はとても仲が良く、将来大学を卒業したら結婚しようとまで約束していました。でも、彼は大学を卒業するより先に、交通事故でなくなりました。ケンカ別れしたデートの帰りに、ちょうど、今日みたいな雨が降っていた日曜日に、信号を無視したトラックにはねられて」
先ほどまで聞こえなかった雨の音が、未来の耳に聞こえてきた。
「きっかけはとってもくだらないことで、帰ったら彼に電話して謝ろうって、そう思っていたのに……。さっき酒井さん言ってたじゃないですか。亡くなった人は生き返らないって。だから、私の心残りもなくすこともできないんです。私は、きっと死ぬまで雨が降る日曜日が嫌いなんです」
未来が口を閉じると、あたりには静寂が生まれ、雨音さえもなくなっていた。恭弥は何も言わず、未来と本棚を交互に見比べる。やがて何か満足がいったのか、彼は徐に立ち上がると、一つの本を未来に差し出した。
「これをどうぞ」
「……からかっているんですか?」
「まさか。私は真剣です。いいからだまされたと思って、その本を開いてみてください。それは、貴方が開かなければ意味がないのです」
未来は訝しげに本を受け取ると、その表紙を見つめた。何も表紙に書かれていないその薄い茶色い本は、ただ彼女に開かれるのをじっと待っていた。
未来は表紙に手をかけると、ゆっくりとめくる。白い紙に書かれたその文字は、印刷のものではなく、見たことのある筆跡だった。お世辞にもきれいとは言えない、妙に癖のある字。読みにくいはずなのに、スラスラと読めてしまうその文字はいたずらに左右に揺れる。段々と溜まっていく涙をどうにかせき止めながら、必死にそれを目で追った。
店内には未来が黙々とページをめくる音が響く。
恭弥は新しく持ってきたティーポットを傾け、空になった二つのカップに紅いお茶を注ぐ。そして自分も読み古して端が解れてきてしまった本を取り出すと、未来と同じくゆっくりとめくりだした。
『本当は、帰ったらすぐに未来に電話をしよう。一度怒り出した未来はしばらくは俺の話を聞いてくれないけど、素直に謝ればきっと許してくれるはずだ。せっかくの記念日を忘れた俺が悪いし、電話で許してくれればすぐに家まで行って、さっき買ったネックレスを渡そう。前を通るたびに何でもないふりをして何度もみていたから、きっと気に入ってくれるだろう。来年は忘れることがないように、家に帰ったら電話する前にカレンダーに書いておかなくちゃいけないな。ごめんな、未来』
その最後のページを読み終えて、未来は鼻が段々と熱くなっていくのを感じた。
「……これは、一体何ですか。誰が、こんな」
そのあとは言葉にならなった。恭弥がそっと白い可愛らしいハンカチを差し出すと、未来はそれを受け取って涙を拭った。
「擦ると腫れてしまいますからね、擦らずにそっとあてるだけにした方がいいですよ」
未来は言われた通りに擦るのを止めて、目元にそっとあてた。
「ここは、亡くなられた方の思いを本にする場所です。本当はそれを見るのも、すでに亡くなられた方なのですが、時々貴方のようにここに迷い込んできてしまう方もいるのです。迷い込んできてしまうのには必ず理由があります。だから、そういった方たちには開示するようにしているのですよ。……満足して、いただけましたか?」
未来は頷くと、小さな声ではいと呟いた。いつの間にか勢いを増している雨の音も、未来にはちっとも嫌なものに聞こえなくなった。寧ろ、彼が近くにいるような気がして、心地よい。
「さあ、もうお帰りになった方がいいでしょう。紅茶をそれ以上飲んでしまったら、私のように帰れなくなりますから。何でしたら、傘もお好きなものをお選びください。記念に差し上げますよ」
未来はふるふると首を振ると、快活に笑った。
「いいえ、濡れて帰ります。私、貴方のおかげで雨が好きになりましたから」
「そうですか、それはよかった」
恭弥に急かされるまま、未来は花々が刻まれたドアをくぐる。ぽつぽつと自分を濡らす雨が、気持ちいい。
「そのまま真っ直ぐ、後ろを振り返らずに歩いてください」
「はい。ありがとうございました」
「いえ、お元気で」
笑顔で手を振る恭弥に手を振り返して歩き出すと、後ろからドアが閉まる音がした。
そして気が付けば、いつの間にか未来は自分の家の前に、雨に濡れながら立っていた。右をみても、左を見ても、後ろを見ても、もうそこにはいつもの光景が広がっている。未来は微笑むと、口の中にまだ残る芳醇な紅茶の香りを楽しみながら、家の中に入っていった。
桃源堂 久山明 @nemui349
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます