男前
垂れ流されている。蝉の声も、汗も、恭平の弾丸も。今日の太陽はギラギラと形容するにふさわしい。
ふと思い立ってバスタオルを出してきた。必要なものは一式、ユニクロのビニル袋に入っている。
「プール行ってくる」
「えっ?」
恭平はゾンビの惨殺をやめて振り返った。
「プール行ってくる」
「おれも行く! 待ってて! あ、セーブしといて!」
恭平はコントローラーを放り出して自室へ駆けこんだ。一也はメニュー画面を閉じてゲームを再開した。早く出かけたいので、すべてのゾンビを避けてセーブポイントへ直行する。ランクは下がるだろうが、仕方ない。セーブをしろとしか言わない恭平が悪い。かわいそうなほど熱を持ったゲーム機本体の電源を落とし、扇風機のスイッチを足で切る。
玄関でビーチサンダルを引っかけ、自転車の鍵で遊びながら恭平を待った。
珍しいこともあるものだ。いっしょに行くらしい。プールは嫌いではなかったか。プールに限らず、運動全般が嫌いなはずだ。理由は簡単。運動音痴だからだ。恭平はそのコンパスからは信じられないほど鈍足で、水に入るともれなく沈む。スキー板を履かせると、生まれたての小鹿より弱々しい。
「すぐそこの市民プールだぞ!」
ウォータースライダーも、流れるプールも、波の出るプールもない。ビーチボールも浮き輪も禁止で、この時期は小学生の溜り場になっているしがない公共施設だ。
「待ってー!」
「いや、置いてかねぇけどよ」
どういう風の吹き回しだろう。今までは、一也がプールに行くと言っても、いってらっしゃいしか言わなかった。急に水泳に目覚めたという話は聞いていない。行きたいと言うなら止めはしないけれど。
「……焼きたいのか?」
焼いたところで、恭平は数日で元の白さに戻ってしまう。典型的な、赤くなっても黒くならないタイプだ。本人は自身のもやし具合――細い白い長い――をいたく気にしているようだから、今年は黒くなるまで頑張るつもりなのかもしれない。黒くなっても焦げたもやしにしかならないと思ったが、それを言うと泣くかもしれないので思うに留めることにした。
「お待たせ。水着すっごい奥に入れてた」
「タオル持ったか?」
「あっ! あっ、あ、待ってて!」
一也の後ろから自転車でついていく。汗が流れて顎を伝う。赤信号に引っかかるたび、タイヤが溶けて貼りついてしまうのではないかと思った。日陰を求めて遊歩道に入ったら、蝉がすさまじくて何も聞こえなくなった。名前を知らない木々が守ってくれる。それが途切れると、すぐに子どもの声が聞こえてきた。フェンス越しにテニスコートを過ぎ、プールが見える。
駐輪場は無法地帯だった。隙間という隙間に自転車が押し込まれている。恭平がきょろきょろしている間に、一也はさっさと自転車を避けて隙間を作り始めた。
「ん、ここ」
指で示し、また違うところに隙間を作る。恭平は大人しくそこに自転車を停めた。
すでに真っ黒に日焼けした男の子が三人、競うように、隣接した公園に駆けていく。目で追うと、かき氷の屋台があった。ああいう屋台は不思議だ。昔からずっとそこにあった気がするのに、明日にはもうない。
「行くぞ」
「うん」
券売機でそれぞれにチケットを買い、受付を抜けるともう塩素の匂いがした。プラスチックの簀子の前で靴を脱ぐ。
「うわっ」
簀子が濡れていて靴下に染みた。べちゃっとして気持ち悪い。
「お前なんでプールにスニーカーで来るんだよ」
「だってぇ」
だってと言ったが、特に理由はない。靴下を脱ぐ間、一也は待っていてくれる。ロッカールームは薄暗く湿っぽかった。ロッカーは硬貨を入れないと閉められない上に返金されないので、先に更衣室で水着になった。腰の曲がったお年寄りがロッカーの前で堂々と着替えていたが、さすがにそれはできない。
「誰か落としてませんかー?」
プールの方から来た男性がスポーツタオルを掲げて見せる。お年寄りは首を振った。
「俺らのじゃないです」
一也が代わりに答えてくれる。男性は頷き、ベンチにタオルを置いた。
水中メガネとキャップを持ったことを何度も確認して鍵を閉めた。昔それで何百円か損をしたことがある。一也はすでにプールの入り口近くにいた。いつも少し先を進んでいる彼を追い掛ける。
一也の水着は高校の指定のものらしい。競泳用ではないけれど、ぴったりと体にフィットしている。黒かと思ったらとても濃い紺色で、右の側面に一本蛍光緑の細いラインが入っている。前後を間違える生徒がいるからこのデザインらしいが、本当だろうか。
一也の身体はバランスがいい。マッチョと言うほどではないけれど腹筋は割れているし、太腿やふくらはぎが引き締まっている。身長が低いから、あまり筋肉がつきすぎていてもおかしいだろう。そういう意味でも、ちょうどいい。肌はホットケーキの真ん中のような色だ。白くて薄っぺらな自分とどんどん差が開いてしまう。
小さなブースで出の悪いシャワーを使った。角を曲がると通路が凹んで水が溜まっている。左がプールの入り口で、正面の通路は女子更衣室へ続いているようだ。
「これ冷たい? 地獄のシャワー?」
頭上を走る数本のパイプからは、不穏な水滴が垂れている。
「懐かしいな、地獄のシャワー。これは出ないけどな」
「どこでも同じ名前かな。分布図あるかな」
アホバカ分布図や、方言周圏論が好きだ。大学でも民俗学と社会学の相の子のようなことをしている。
一也は出ないと言ったけれど、万一に備えて身を竦めながら消毒液に足先を浸す。外はまぶしかった。水面がきらきら光る。濡れたプールサイドも光る。水から上がったばかりの肌も光る。何もかもが輝いて見えた。一也はもう屈伸を始めていた。慌てて恭平も続く。あちこちの筋を伸ばしただけで汗が流れた。
「多分ずっとあっちにいる」
ゴムの水泳キャップがぱちんと音を立てる。一也は奥の方のコースロープで区切られたレーンを指した。手前はロープが取り払われ、遊泳ゾーンになっている。恭平はぽつんと取り残された。
足の裏が焼ける。
「えっと」
子ども用の浅いプール。
二十五メートルのプール。
「どうしよっかな」
つぶやいてみたが、入る方は決まっている。恭平は遊泳ゾーンの手すりにつかまって、そろそろと段を降りた。震えるほど水が冷たい。底に足がついても、恭平はしばらく爪先立っていた。足を踏み出すと、水にふとももを撫でられた。腰を落としてみたらやっぱり冷たかったので背筋を伸ばした。
歩いていると質量を感じる。掌にすくった水はこんなに柔らかいのに、プール一杯分になると固いゼリーのようだ。大きく水を跳ね上げながらも全然進まない少年とすれ違い、頭から水をかぶった。なおもじりじりと歩き、もっとも深いところまで来てしまった。意を決して水中メガネを装着し、大きく息を吸う。
顔に触れる水が気持ちいい。帽子の中にも侵入してくる。人の声が遠くなり、よく知った音だけが耳元で鳴っている。薄く青い視界ですばやく動けるものは何もない。脚が何本も見えるし、息を止める競争をしている子どももいるというのに、一人ぼっちになった気がした。
顔を出すと、水の上は騒々しい。そのまま残りの半分を歩いた。一方通行のレーンを見ると、一也がクロールでこちらへ迫ってきていた。宙をかく手がすっと伸びている。学校で先生に褒められたきれいなフォーム。息継ぎは、二かきに一回。水に運ばれているように見える。
(あ、いっちゃん来た)
一也は立つことなくロープをくぐってもう一本奥、反対方向のコースへ入った。潜って壁を蹴るところが見えた。次に一也が水面に現れたときは、ずいぶん先に行ってしまっていた。
(すごいなあ。カッコいいなあ)
クロールで二十五メートルを往復しても平気なのだ。一也は身体は小さいけれど体力がある。そう言えば、マラソン大会も上位入賞者だった。
一也を見ているうちに恭平もその気になってきた。水中メガネをかけて、大きく息を吸い、壁を蹴る。一也のようには進まない。クロールをしようと思って腕を振り回す。息継ぎをしたら口と鼻に水が入った。せき込みながら立ち上がる。めげずにそこからもう一度始める。
恭平の水泳の進路は下降線だ。クロールは沈む。背泳ぎも沈む。平泳ぎが一番もつけれど、二十五メートルを待たずに沈む。バタフライに至っては浮かんでいた例がない。結局、残りは犬かきで進んだ。思うように進まないのに、息だけは切れる。なんとか二十五メートルを渡り切って一也を探すと、彼は平泳ぎに移行していた。黒い水泳キャップが見え隠れする。
(平泳ぎも速い。いっちゃんカッコいい)
水泳部を除けば、一也はいつでもクラスで一番速かった。平泳ぎも背泳ぎもバタフライもできる。
一也は足も速い。陸上部を除けば、いつもクラスで一番だった。バスケットもサッカーもできるし、柔道も強かった。チームに分かれるときは、必ず一也争奪戦が始まった。恭平はお荷物なので、いつも取り残される。中学の三年間は、一也が必ず同じチームに入れてくれた。
『俺が速いんだからこいつが遅くてもいいだろ?』
『俺がこいつの分まで点取ればいいんだろ?』
『こいつの近くも俺が守備しとくからいいだろ?』
台詞も一々格好いい。思い出すと恥ずかしくなるくらいだ。
一也のように走れたら、一也のようにシュートができたら、一也のようにボールを取れたら――けれどもしそれが叶ったら、きっと一也をかっこいいと思う気持ちはなくなってしまうだろう。
何往復かしているうちに人が少なくなってきたので、平泳ぎをしてみることにした。蹴伸びはあまり進まない。いざ、と思ったら手足の動かし方がわからなくなって立ち上がる。同時に曲げ伸ばしすればいいことを思い出し、気を取り直した。
指の間を水が通ってくすぐったい。クロールよりは余裕がある。しかし、先ほどから水面に頭が出ていないので、止まって息を吸った。あと少しで半分だ。
(今日はおれがんばってるなあ)
ひと掻き、ふた掻き、まだ浮いている。ビシッと左足に衝撃があった。反射的に足を押さえたら沈んだ。右足だけで立とうとするが、床が滑る。水が鼻にも口にも入ってくる。まずい。どうしよう。どうしよう。
急に呼吸ができるようになって驚いた。耳と鼻の奥がツンと痛い。咳が続いて喉も痛くなった。涙が止まらない。
「おい、大丈夫か?」
何か言われたようなので、わけもわからず頷いた。落ち着いてくると、忘れていた足の痛みが戻ってくる。溺れている内に手を離していたらしい。押さえようとしたら背後の何かを蹴った。
「ってーな!」
「ご、ごめんなさいっ」
「このまま締めんぞ、コラ」
「ぐえっ」
腹を圧迫され、恭平は自分が後ろから腰を抱きかかえられていることに気がついた。振り返ると、一也がいる。
「いっちゃぁん」
情けない声が出た。
「足痛い」
「足? 攣ったのか? じゃあ、外出なきゃな」
プールサイドに上がると、左足の薬指が気持ち悪い方向に曲がっていた。かかとだけで歩いてベンチに腰かける。
「こっち側に曲げてると治る」
反対の膝に足首を置き、一也の言うとおり、甲の方へ指を曲げると痛くなくなった。
「いっちゃんスゴイ!」
が、手を離すとまた痛い。
「すぐには治んねぇよ。しばらくじっとしてろ」
「どうかしましたか? あ、攣っちゃった? ちょっと待っててください」
中年の監視員が来たと思ったら、すぐにどこかへ行ってしまった。
「恭平、水中メガネ」
「あっ」
かけっぱなしだった。一也はいつの間にかメガネも帽子も取っている。片手で苦労して頭の上に上げる。太陽が直接目に飛び込んできたようだ。隣のテニスコートを覆っている薄いネットがギラギラしている。更衣室から出てきたときよりも、日差しが重い。
「これ使ってください。温めると治るんで」
「ありがとうございます」
先ほどの監視員が、湯を入れたバケツと手拭を貸してくれた。手拭を浸して軽くしぼり、足に当てる。相変わらず甲の方へ曲げていなければならないが、温かくなったら心がほっとした。
いい天気だ。さえぎるものは何もない。身体が乾きはじめていた。肌が焼かれているのがわかる。オーブンに入れられた鶏肉は、こんな気持ちなのだろう。
上手に焼けるといい。今年こそは黒くなりたい。筋肉もつけたい。一也には毎年同じことを言っていると指摘されるので黙っている。
「恭平」
「なに?」
「子ども用プールのな」
「うん」
「真ん中に子ども二人いるだろ」
「うん」
「その向こうに女の人が座ってるだろ」
「うん。お母さんかな」
「胸でかい」
突然何を。
「いっちゃん、目悪いくせにそういうのは見えるんだ」
「そこまで悪くないし、ぼやけてても色や大きさはわかる。あと、ぼやけてる方がエロく感じることもある」
一也はむっつりスケベだと思う。巨乳好きだが、どちらかと言えば尻派なところがさらにむっつりだと思う。
恭平は手拭を温め直し、また足先を包んだ。なかなか治らない。もう少しな気もするし、まだまだな気もする。一也は子ども用プールを見るのをやめ、あくびをした。
「いっちゃん、プール入んないの?」
「考え中」
「おれ、一人でも大丈夫だよ」
返事をしなかったから、一人では大丈夫じゃないと思っているのだろう。乾いてしまった肌に汗が流れ始める。早く治らないだろうか。足が攣ることは滅多にないが、攣ってもすぐに治っていた気がする。今日はなんだかおかしい。
ホイッスルが鳴って休憩時間になった。みんな一斉にプールから上がる。少しするとラジオ体操が流れ始めた。
「いつも思うんだが、」
「うん」
「じいちゃんばあちゃんってやたらラジオ体操うまいよな」
確かに、腕を振り回しているだけの子どもや、動きが思い出せない大人よりも、お年寄りの方が機敏でしっかりしている。
「やっぱ毎日してるからか」
「毎日なの?」
「NHKかなんかで朝放送してんだよ。うちのばーちゃんもやってる」
「健康にいいの?」
「いいんじゃねぇの?」
ツバメがやってきて水面をかすめていく。そんな水、体によくないから飲まない方がいい。言葉が通じるなら教えてあげたい。さっきしこたま飲んだ自分が言えることではないけれど。
ラジオ体操は第一だけで終わった。監視員がメガホンで休憩時間の終わりを告げ、足先からゆっくり水に入るようアナウンスをする。恭平の足はまだ治らない。一也も座ったままだ。やっぱりいっしょにいてくれるつもりなのだろう。雑談は恭平から話しかけることの方が多いのに、胸のこともラジオ体操のことも、一也が話を振った。
「いっちゃん」
「ん?」
「ごめんね」
一也はかっこいい上に優しい。準備にもたもたしていても置いていったりしないし、足が攣ったら傍にいてくれる。自分が女の子だったら、恋をしていただろう。こんなに男前なのに、バレンタインデーにはチョコレート難民なのだから、世の女性は見る目がない。でも、一也に彼女がいたら、きっと自分とは遊んでくれない。
(それはやだな)
ルームシェアもできない。もちろん、いっしょに寝られない。なんだか悲しいことばかり考えてしまう。恭平はため息をついた。
「あ」
手を離しても痛くない。
「いっちゃん、治った!」
「ん、よかった」
よかった。これでプールに――
「そんじゃ帰るか」
「え? なんで? 治ったよ。プールは?」
「しばらく攣りやすくなってるからやめとけ。バケツ返してくる」
一也はバケツと手拭を持って立ち上がった。恭平も慌ててついていく。管理室には先ほどの監視員がいた。
「治りました?」
「ありがとうございました。今日はもう帰ります」
「それがいいね。無理するとよくないから。気をつけてね」
にこやかに手を振ってくれる。二人そろってお辞儀をした。プールサイドをぺたぺた歩く。もう爪先をつけても大丈夫だ。
「おれ一人で帰るよ。いっちゃんはまだいればいいよ」
「どうせまた来る」
「でも」
一也が目を洗う蛇口を開くと、水が二メートルほど飛び出した。顔には出さないが、少し驚いているようだ。きゅるきゅると高い音をさせながら、水量を調節している。
「いっちゃん」
「ん?」
「ごめんね」
目を洗いながら謝ると、一也はいつものように「ん」とだけ言った。
せっかくシャワーを浴びても、一歩外へ出ればすぐに汗が噴き出す。裸足にスニーカーは蒸れる。一也のビーチサンダルが気持ちよさそうだ。ぬれてしまった靴下は水着といっしょにビニル袋に入れている。
自転車は後から詰め込まれたものと絡まりあい、一塊になっていた。サドルから湯気が出そうだ。一也は自分の荷物を自転車のかごに放り込み、恭平の自転車を救出しようとしている。二人がかりで邪魔な自転車を通路に出し、まずは一台。一也の自転車は、スポークの間に隣のペダルが入っている。
「恭平、両方いっしょに出すからそっちの自転車持て」
「うん」
「せーの」
ひとりで大丈夫と言ったけれど、本当はいっしょにいてほしかった。ひとりで帰れると言ったけれど、本当はいっしょがよかった。
でも、我慢してほしかったわけじゃない。
「おい、こいつ鍵差しっぱなしだぞ。バカじゃねぇのか」
一也はぶつぶつ言いながら、自分のものと絡まっていた自転車を元のスペースに収めた。
「いっちゃん」
「ん?」
「ごめんね」
ついてこない方がよかったかもしれない。
「喉渇いた」
「うぇ? あ、そうだね。ジュース飲む? おれ奢るよ」
「あれがいい」
振り返ると、かき氷屋の屋台が見えた。
「うん。うん、そうだね。あれにしよう」
一也は自転車を押して歩きはじめる。追いかけようとしたら、鍵をかけたままだった。荷物のポケットから鍵を出す間、一也は待っていてくれる。
「いっちゃん何味がいい?」
聞かなくても知っているけれど、聞いてみる。
「イチゴ」
Fin.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます