人形と
人体模型だ。
人体模型がある。
等身大の人体模型。
ポーズがダビデ像っぽい。
「なんだ、これ?」
木枯らし吹きすさぶ中帰ってきたら、居間に人体模型があった。状況を問わずしてどうしよう。
「いっちゃんおかえりー。あ、これ? えっとね、手足のないやつだと思ったんだ」
そして、同居人の回答が的外れだった場合、どうしよう。
ガラスの向こうを女子グループが一様に肩をすくめて歩いていく。チークを入れた頬どころか、耳も鼻も赤い。風が強く、彼女達の髪は勢いよく湯を注いだとろろ昆布のようだった。肩も脚も出して、見ているだけで寒い。恭平はサンドイッチにかぶりつきながら、むっちりした太腿を見送った。
構内のカフェは昼時で込み合っている。空調と人の熱気で頭がぼうっとするくらい温かい。事実、恭平はぼうっとしていた。いっしょにサンドイッチを食べている相手がいたことを失念する程度には。
「おい、恭平」
「うぇ?」
「聞いてた?」
「ううん」
「だから、人体模型がさー」
理学部の友人の話は明瞭だった。教授が昔趣味で買った人体模型が研究室にある。今度また趣味で新しいものを買うため、それを処分する。いらない人体模型は希望者に下賜されることになり、切り刻んでも売ってもいいという許可が出た。友人が名乗りを上げた。
「安全なんとかってやつで廊下に置けないし、控室はみんなにヤな顔されるし、置き場がないんだよ。俺電車だし、実家だし? お前んち近いし、シェアしてるから広いよな?」
「広いかなあ?」
シェア対応の間取りなので、一人で住めば広いだろうが、二人で住んだ時点で普通になると思う。
「ちょっとの間でいいから預かってくれよ。今リサイクルショップ比較中なんだ。一番高く買ってくれるところにしようと思ってさ。お前んちまで俺が運ぶし、直接引き取りに行ってもらうから」
中途半端なニヤニヤ顔で、売れたら食事を奢ると言う。それは魅力的だ。一也は嫌な顔をするかもしれないけれど、人体模型恐怖症というのは聞いたことがないから、少しくらい大丈夫だろう。
(いっちゃん今授業かな)
文学部棟はここからは見えない。風が木の葉を巻き上げる。外に出たくない。これから授業があるけれど、できればここでぬくぬくしていたい。文学部棟まで、できるだけ凍えずに行くにはどうしたらいいだろう。
「今日お前何限まで? 終わったらメールくれよ。運ぶから」
まだいいとも悪いとも言っていないのに、友人はすっかりうちを倉庫にする気でいる。恭平は残りのサンドイッチを口の中に押し込んだ。
「理由はわかったけど、こんなとこ置いとくなよ。自分の部屋置けよ」
手を振って恭平をストーブの正面から退け、自分の座椅子を引き寄せる。
「えー? おれの部屋置くとこないよ。いっちゃん、人体模型嫌い? 怖い?」
「怖くはないけど」
人体模型に好悪の感情を持ったことがないので、前半の問いは黙殺する。
「手足のないやつだと思ったんだ。小学校にあった頭と胴体だけのやつ」
人体模型は恭平より小さく、一也より大きい。男性の模型なので、ちゃんとついている。女性の模型には胸があるのだろうか。
「飯食う部屋にこれが置いてあるのは嫌だ」
「あ、それ、友達の友達もみんな言うんだって。だから控室置けないって言ってた。みんな普段から内臓とか筋肉とか、本物見てるのにね」
「本物かどうかってことより、俺は顔だと思うぞ」
「顔? ダメかなあ? 面白い顔してると思うけどなあ」
恭平も人体模型を見上げた。赤い体に無数の白い筋。剥き出しの歯。瞼のない目。威嚇されているようだ。現に、類人猿はこのような顔で威嚇をするのではなかったか。
「とにかく、お前が預かったんだからお前の部屋に置けよ」
「だって場所ないもん」
「掃除しろ」
床に置いてあるものをきちんと棚に戻せば、置けないことはないはずだ。縦には空間を占めるけれど、底面積はそれほどない。
「それか、ベッドに……それいいな」
「え?」
「一人で寝る練習。いきなり一人だとハードル高いだろ? こいつといっしょに寝て慣れるってのはどうだ?」
「いっちゃん、俺が人形じゃ寝れないの知ってるじゃん」
「ぬいぐるみだろ? これだけ人間っぽかったらいけるかもしれないぞ」
「別にいいよぉ」
「お前がよくても俺はよくないんだよ」
恭平が一人で寝られるようにならないと、いつまでも添い寝につき合わなければならない。毎日ではないにせよ、眠れない日があるのは辛い。安眠したい。
恭平は唇を尖らせた。いっちゃん俺のこと嫌い? と拗ねる。嫌いではない。でも、寝たい。それとこれとは話が別だ。
「きっと冷たいし」
「チンする湯たんぽ持ってるだろ。それで布団あっためとけよ」
「硬いし」
そう言って拳で人体模型の脚を叩く。コンコンといい音がした。
「俺だって別に柔らかくはないだろ」
でも、でも、と恭平はぐずぐず言っている。こういうとき、一也は待てない。
「ごちゃごちゃ言うな! 俺明日一限あるんだから、どうせ今夜はお前一人で寝るんだぞ」
「知ってるけどぉ」
「知ってんならゴネんな」
への字口の恭平を叱って、二人で模型を運んだ。それなりに重く、本物の人間のようにベッドが沈む。人体模型は瞼のない目で天井をにらんでいる。横になっている人体模型は初めて見たが、なんだか異様な光景だった。
「ホントにこれと寝なきゃダメ?」
「これとは飯が食えるんだろ? 寝れないはずはない」
「これがいる部屋でご飯食べるのと、これといっしょにご飯を食べるのは違うと思う」
それには同意見だが、ここは違わないことにしないと話が進まない。また嫌だと言い始める前に恭平を居間へ連れ戻す。
なんだかうきうきしてきた。今日は一人でゆっくり眠れる。しかも、上手くいけば恭平は一人で――人間サイズの人形は必要かもしれないが――寝るようになる。そうしたら、これからもずっとゆっくり眠れる。
「カレー、今日で最後だろ?」
三日目のカレー鍋を冷蔵庫から取り出し、コンロにかけた。恭平は拗ねて手伝おうとしない。唇を尖らせたままテレビを観ている。こういうときの恭平は意固地になるから、そっとしておいた方がいい。カレーを食べれば機嫌も直るはずだ。
福神漬けがない。自分はいらないけれど、恭平は漬物が好きだ。今、ないことを告げたら買ってこいと言うだろう。よし、黙っていよう。一也は何食わぬ顔でカレーをかき混ぜた。
「あっ!」
食べている途中、恭平が不意に声を出したので、ティッシュの箱を押しやった。恭平は口が大きいのによく食べ物をこぼす。
「ちがうよ」
なんだ、違うのか。まさか、福神漬けに気づかれたか?
「いいこと考えたんだ」
福神漬けも違うらしい。恭平はカレーで黄色っぽくなった唇を横に広げて笑う。
「いっちゃんも練習しようよ。人といっしょに寝る練習」
「は? なんで俺が?」
「おれだけ練習なんてずるいじゃん。明日はいっちゃんの番ね」
恭平は名案だとはしゃいでいる。気づいていないのだろうか。気づいていないらしい。損をするのは彼の方なのだが。
恭平は稀に、ほんのちょっと、お馬鹿さんだ。
「ん、わかった」
よし、黙っていよう。
一也のアドバイスどおり電子レンジで温める湯たんぽを布団に仕込んだ。おかげで足元が温かい。しかし、隣に寝ている人体模型は冷たい。触れている右肩がどんどん冷えていく。恭平は散々寝返りを打った挙句、引きだしを掻き回して貼るカイロを探し、人体模型の肩と胸に貼った。これで、もう少し温かくなるはずだ。
人間と寝ている気分を出すため、抱きしめてみる。硬い。
(いっちゃんの方がいいなあ)
一也は体温が高いから、冬場にくっついて寝ると例えようもなく幸せだ。目が覚めると一限がうらめしくなる。しかし、一限がないといっしょには寝てもらえない。恭平の日々で一番のジレンマだ。
それから、一也は抱きしめやすい。これは少し大きすぎる。背中を丸めて抱きしめたときに、鼻先に頭の天辺が来るのがいい。シャンプーや汗のにおいがするのがいい。試しに嗅いでみたが、人体模型からはなんの匂いもしなかった。強いて言えば、なんとなくビニル臭い。
(いっちゃんと寝たいなあ)
最初に一也といっしょに寝たのは小学生のときだった。休みの日に、恭平の実家でお泊り会をした。一也は全然眠れなかったようだ。次の休みに、今度は一也の家でお泊り会をした。もちろん一也は眠れなかったらしい。
中学生になって、男子ばかり五、六人で夏休みに撃沈するまでゲーム大会をした。会場がどこだったか覚えていないが、朝目が覚めると一也はいなかった。部屋を出たら、廊下で寝ていた。
どんなに仲良くなっても、親友と呼べるようになっても、二人とも寝ることが大好きであっても、いっしょには眠れない。ときどき、それがとてつもなく寂しい。
(いっちゃんのこと一番よく知ってるのおれなのに、)
身長を気にして毎日牛乳を飲んでいることも、しっかりしているのに時々とても天然なことも、赤面症なことも、全部知っている。神様はひどい。こんな、夜だけ七夕みたいな――
(いっちゃんと寝たいよぅ)
ず、と鼻をすする。ティッシュを取りにいくのが面倒で、袖口で拭う。抱きしめているのが一也なら、汚いとか泣くなとか言うだろう。別にティッシュを取ってくれるわけではないのが、一也だ。人体模型はじっとしているし、何もしゃべらない。湯たんぽとカイロと恭平の体温で大分温まっているようだけれど、放っておけばまた冷たくなってしまう。
やっぱり人間じゃない。
やっぱり人間がいい。
(いっちゃんがいいよぅ)
めそめそしている内に眠くなってきたが、最後の一線が超えられない。いつもこうだ。眠いのに、寝たいのに、何かがもやもやして夢の尻尾を捉え損ねる。人体模型を横にして、向かい合って抱きしめる。抱きしめ返してくれない。
一也が抱きしめ返してくれたことはないし、そもそも向かい合ってくれたことはないが、少なくとも一人じゃないことは実感できる。
(いっちゃん……)
抱きしめても一人。
咳をしても一人と言ったのは誰だったか。
(いっちゃんがいればすぐに教えてくれるのに)
朝のバラエティ番組をかけながら朝食を摂っていると、恭平が起きてきた。酷い顔だ。眠れなかったらしい。目は充血して潤んでいるし、鼻の周りが赤い。恭平はまつ毛が長いので、泣くと涙が付着してかなり哀れに見える。スウェットの袖が濡れているのは、ティッシュを取るのが面倒だったのだろう。
「どした?」
「いっちゃん、おれのこと捨てないで!」
言いながら、また涙ぐむ。わけがわからない。
涙ぐみながらも、恭平は一也を座椅子ごと引っ張ってストーブの正面から退け、自分の座椅子を持ってきた。
恭平がぽつぽつ語ったところによると、昨日は眠れない間に色々なことを考えた挙句、それがネガティブな方向に流れ、自分に捨てられるのではないかという妄想に至ったらしい。妄想で朝から泣かれ、迷惑なことこの上ない。そもそも、捨てるの捨てないのという関係になった覚えはない。
一也は焼きすぎたトーストをガリガリかじって牛乳で流し込んだ。
「人形ヤダ。いっちゃんがいい」
チッ。
まあ、仕方がない。儚い夢だった。
「今日はいっちゃんと寝る」
「無理だろ」
「え? なんで? 今日はいっしょに寝る日だよ!」
「今日は俺が練習する日だろ。さすがに三人は並べないぞ」
案の定気づいていなかったらしい。恭平は驚愕の新事実を聞かされたという顔をしている。涙も引っ込んだようだ。漫画だったら黒背景に雷が飛んでいるだろう。
「練習やめるか?」
「うう……練習はしてほしい」
「じゃあ、今日も一人で寝ろ」
「それもやだぁ」
練習を明日にすればいいだけのことなのだが、気がつかないらしい。気がついたところで、人体模型が明日の夜までここにある保証はない。もしかしたら、今日の夜にはもうないかもしれない。恭平はしばしば、とてもお馬鹿さんだ。
食べ終わって食器を片づけても、恭平はまだ唸っている。テレビの時計を見ると、そろそろ出る時間だった。
(走って行きゃいっか)
面白いから、もう少し見てから行くことにした。
Fin.
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