第22話
リナリアとレブンは婚約に向けて少しずつ進んでいく。
変わったことがあると言えば、スターチスがリナリアの護衛から外されたこと、そしてスターチスが酒をたしなむようになったことだろうか。
今日もまたスターチスは一人、部屋で木の杯に安物の麦酒を自分でそそいで喉に流し込んでいる。
どうして酒を飲みたい気分になっているのか、彼は目をそむけていたし、その自覚もあった。
それでも改めようという気にはなれかったし、そのような己の弱さを恥じ入る感情もある。
複数の感情が心という鍋の中で激しくかき混ぜられた結果、自分でもよく分からないものができあがってしまったような形だ。
それを理解してはいけないことを、本能的に感づいているからこそ、余計に苦しい。
リナリアの周囲の人々も、このスターチスの様子を気づいているが、放置している。
何故かと言うと彼の勤務態度が悪くなったわけではなかったし、誰か迷惑を被ったという話も聞かなかったからだ。
節度を守るのであれば酒をたしなむくらいかまわない。
ハンプトン伯爵家ではそう考えられていたのである。
また、何人かはスターチスに対して同情的であった。
彼が分を弁えていなければまた違っていたかもしれないが、彼は常に一騎士として行動していたからである。
最も同情的だったのはメイドのクリコだろう。
レベッカも似たような心境だっただろうが、何しろ彼女はリナリアとともにロアノーク侯爵家へと向かう身だ。
スターチスに気をまわしている余裕などなかったのである。
姫君とその従者が故郷を去り、一人の若者がある想いのかけらを失う。
少なくとも前者については誰も疑っていなかったが、ある日ハンプトン伯爵領にあざ笑うかのような報せが舞い込んでくる。
レブンが心変わりをして、リナリアとの婚約を破棄したいという。
理由を聞けば「リナリアが悪い」としか言わない。
そればかりであればまだ騒ぎは起こらなかっただろう。
諸侯の一族とは程度の差はあれ、基本的にわがままで気が変わるものだからだ。
いつの間にか貴族社会でリナリアは不届きな娘で、レブンは危ういところで魔の手から逃げ出した悲劇の主人公とされていた。
納得できないのはハンプトン伯爵家だったが、相手があまりにも悪すぎる。
ロアノーク侯爵家は国内屈指の名門であり、軍力も国内屈指。
諸侯の一角と言えど、諸侯という枠組みで言えば下から数えた方が早いハンプトン伯爵家如きが逆らえる相手ではなかった。
この時代、この国において貴婦人の貞操をみだりに疑うのは、貴族にあるまじき愚劣な行為であるはずだが、ロアノーク侯爵家の威光で押し通されたのである。
リナリアは身に覚えのない汚名を着せられて、耐えがたい屈辱の泥にまみれても泣き寝入りするしかない。
……いや、実のところハンプトン伯爵家にとって、たったひとつ挽回する手段が存在している。
それはリナリアの名誉、尊厳をかけた決闘をロアノーク侯爵家に申し込むことだ。
もしこれでハンプトン伯爵家が勝てば、ロアノーク侯爵家はリナリアを侮辱したことを詫び、彼女に対する評価を撤回しなければならなくなる。
誰がどの情報を信じるかまでは干渉できないが、少なくとも貴族社会においてリナリアには何の落ち度もなかったと扱われるのだ。
平民には理解不能の仕組みだが、それが厳然たる事実である。
問題があるとすれば、一体誰がロアノーク侯爵家と闘うのかだ。
名誉をかけて決闘をする以上、ロアノーク侯爵家も全力で立ち向かってくるであろう。
そして貴族が互いの名誉をかけて決闘する際、相手を殺しても不問とされる。
殺されるような未熟者が決闘の場に出た方が悪いし、選んだ家が愚ろか者とみなされるのだ。
今回の場合、ハンプトン伯爵家が敗れれば二重三重に不明を積み上げることになる。
そのせいか、当代ハンプトン伯爵は、娘がいわれのない汚名を被っているのにも関わらず、腰を上げようとしなかった。
一族の者も、騎士団の者も、誰も不満の声はあげない。
彼らが立ち向かうには、ロアノーク侯爵家はあまりにも強大すぎる。
泣き寝入りすれば、リナリア一人の不名誉ですむと考える者さえいたくらいだった。
……内心、忸怩たる思いを抱いている者は、きっと一人は二人ではなかっただろう。
だが、伯爵の弱腰を批判するほど強い想いを抱いていたのは、おそらく一人しかいない。
その唯一のスターチスは、以前よりも酒を飲んでいた。
ロアノーク侯爵家に物を申したいし、できることならばレブンのあのいけ好かない顔にいっぱつ拳を叩き込んでやりたい。
しかし、それをやれば彼は打ち首だし、最悪ロアノーク侯爵家とハンプトン伯爵家の間で戦争がはじまる。
それだけは避けなければならなかった。
(何かないのか……?)
スターチスは酒精のせいで濁った脳に鞭を打つ。
彼が思案しているのは、ハンプトン伯爵家に迷惑をかけずにロアノーク侯爵家に一矢を報いる手段であった。
決闘はたしかに唯一の正当な方法ではあるものの、敗れた時が危険である。
そしてスターチスは残念ながら決闘で勝つ自信はなかった。
(決闘となれば向こうはデイジー卿、あるいはデイジー卿を抑えて最強と言われる騎士が出てくるだろう)
彼がためらっている理由がまさにこれである。
彼は己の敗北や死を恐れているわけではない。
負けた結果、ハンプトン伯爵家に火の粉が降り注ぐことが怖かった。
リナリアの名誉のために戦おうとするのに、彼女をさらに窮地に陥れてどうするというのか。
そのせいでどうしても足を前に踏み出せない。
ただ、黙って酒をあおぐ日々を送りながらも、鍛錬を欠かさなかったのはせめてもの意地だろうか。
ある夜、いつもの安い麦酒が入ったビンを手に部屋に戻ろうとした時、ばったりクリコと遭遇する。
ずいぶんと久しぶりに彼女の顔を見た気がしたものの、何となく気まずくてそっと視線を外す。
一方の彼女はまっすぐに彼を見つめてくる。
いつになく真剣な面持ちから、何かあったのかと嫌でも彼は思わされた。
「お話がございます」
「部屋で聞こう」
酒を片手に若い女性を部屋に連れ込む外聞の悪さ、女性の名誉が傷つく可能性について、今のスターチスは考慮する余裕をすっかり失くしてしまっている。
そのことに胸を痛めつつもクリコは誘いを拒まなかった。
彼女が部屋に入ったとたん、彼は問いかける。
「話とは?」
「スターチス様は決闘を申し込みたいのでしょう? ロアノーク侯爵家に」
真剣な顔で確認してくるメイドに、スターチスはうなずいた。
「ああ。だけど、勝てるかは分からない。勝てばいいが、負ければ迷惑が伯爵家に迷惑がかかる。それだけは避けたい……」
彼の表情は袋小路に入って途方に暮れる子どものようである。
「負けても迷惑をかけない方法はございますよ」
クリコは悲しそうな瞳を向けつつ、断固たる口調で言う。
「……それは?」
その口調にスターチスは一筋の希望の光を見出す。
「あなたが辞職願いを出せばよいのです。そしてそのままロアノーク家に戦いを挑む。勝てば辞職願は握りつぶされます。負ければ受理されてあなたはハンプトン伯爵家を追い出された後、無謀にも大貴族に戦いを挑んだ愚か者として処分される。ハンプトン伯爵家はどう転んでも傷はつきません」
「そうか……」
スターチスの表情に明るさが戻ってきた。
辞めるところまでは考えていたのだが、リナリアにどう説明すればよいのかという悩みがある。
今ここで彼が去るようなことを言えば、彼女は余計に傷つくだろう。
だが、決闘に挑むための措置ということであれば、あるいは許されるかもしれない。
「教えてくれてありがとう。お願いしてみるよ」
スターチスはさっそくリナリアの部屋へと向かう。
「バカ」
その背中に投げ捨てられた小さな声は、誰の耳にも届かずに消えた。
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