第19話
「リナリア様に縁談が?」
ある日、クリコがこっそりスターチスに教えてくれた。
「ええ、お相手はロアノーク侯爵家のレブン様らしいわ」
「侯爵家……」
スターチスではロアノーク侯爵家がどういう存在なのか知らないし、一族の名前も分からない。
彼に理解できたのは、ハンプトン伯爵家にとって今回の話が良縁だということくらいだ。
通常、伯爵家の次女となると、伯爵家の次男あたりが手頃な相手である。
「領主様は何と?」
彼の問いかけにクリコはちょっと気の毒そうな表情を作った。
「殊の外、お喜びみたい。通常では考えられない縁ですからね」
彼女の言葉はほどなく証明される。
スターチスがリナリアに同行した一族の会食で、ハンプトン伯爵はいつになく上機嫌で、珍しく饒舌であった。
「いやー、本当に驚いたよ。まさかリナリアがロアノークのレブン様に見初められるとはな」
「本当にね」
伯爵ばかりではなく、夫人や兄たちも似たような表情である。
リナリアのわがままなところなどを知っている人間にしてみれば、「まさかこの子が」という気持ちが強いのかもしれない。
「レブン殿は次男だが、れっきとしたロアノーク侯爵家の直系だ。でかしたぞ、リナリア」
「ありがとうございます、父上」
褒められたリナリアは微笑で応じる。
それが愛想笑いだと見抜いたのはレベッカとスターチスくらいのものだ。
末娘への賞賛の嵐の会食が終わり、屋敷に戻ってからスターチスは、リナリアとレベッカしかいないところへ呼び出される。
「一体、何がおめでたいのかしら」
とあろうことか嘆いたのは、リナリア本人であった。
スターチスにしてもレベッカにしても、十分予期していたため今さら驚いたりはしない。
それでも主人をたしなめなければならないのが、二人の立場である。
「リナリア様。ロアノーク侯爵領と言えば、王国東方の大領地にございます。さらに積年の宿敵である帝国に睨みを利かせている軍力をお持ちの名家でもあります。そことの縁組となれば、貴族の誉れにございましょう」
とレベッカは言う。
諸侯同士と言えども、ハンプトン伯爵家とは大きな差があった。
ロアノーク侯爵は王家への影響力を持った大貴族なのである。
うかつな発言は慎んだ方が身のためだ。
「ムベ団長から聞いた話によりますと、騎士の数もハンプトン家の三倍はいるそうですね」
スターチスも続く。
団長と話す機会を作って何か知らないかと聞いてみたら、そのような回答がきたのだ。
王国では騎士の数が領地の力であり、諸侯の軍の力という見方ができる。
ロアノーク侯爵家はハンプトン伯爵家の三倍は強大だと言うと単純すぎるが、あながち間違いだとも言えないのだ。
「おそらく三倍ではすまないでしょう。失礼ながらハンプトン伯爵領地は長らく平和が続いていますが、ロアノーク侯爵領は対帝国戦を見据えて、ここより遥かに厳しい戦闘訓練が課せられると聞きます」
レベッカが苦い顔で推測を口にする。
彼女も己の故郷と主家に対して誇りと愛着を持つ人物だ。
いくら名門の大貴族が相手と言っても、みだりにハンプトン伯爵領や領主一族を貶めるようなことは言いたくない。
「それは分かっているわよ。社交場で散々聞かされたもの。レブン様本人からね」
リナリアは彼女にしては珍しく、露骨に嫌悪を込めて発言する。
「俺はロアノーク侯爵の息子、ハンプトン伯爵よりもずっと偉大な父を持っているだなんて延々と聞かされたら、うんざりするとは思わない?」
「そ、それは……」
レベッカは言葉に詰まってしまう。
はっきりと言えば諸侯の姫君に対して聞かせる内容だとは思えない。
ロアノーク侯爵家の威光のおかげで誰も何も言えないだけで、そうでなければ肘鉄の十や二十、叩き込まれているのではないだろうか。
「それでもロアノーク侯爵家から正式な申し込みがあった以上、断れないでしょうね」
レベッカは憂いを込めてつぶやく。
ハンプトン伯爵も諸侯であるから、子ども同士の話であればまだ何とかできただろう。
しかし、レブンはリナリアの反応が鈍いと見てとると、父親を動かしてきたのである。
ロアノーク侯爵家の当主がその気になってしまえば、もうハンプトン伯爵家では逆らえない。
もっともハンプトン伯爵本人はとても喜んでいて、逆らう気があるとは思えなかった。
リナリアは悔しそうに唇を噛み、スターチスに青い宝石のような目を向けるが、彼には何も言えない。
諸侯の領域となってくると、一介の騎士に過ぎない彼はあまりにも無力だった。
「しかし諸侯の姫はいずれ他領に嫁ぐのが宿命ですから……」
レベッカがリナリアに言う。
自分自身を説得しようとしているかのような響きがあった。
「そうね」
リナリアはつまらなそうに返す。
ありきたりの言葉を聞きたかったわけではないのだろう。
それくらいはレベッカも百も承知しているが、ロアノーク侯爵家が相手となると自然と口が重くなる。
「レブン様の人となりしだいでしょうか」
スターチスはそう言ったが、リナリアから冷たい目を向けられた。
「家の自慢しか能がないような男にしか見えなかったわね。どうせ自慢するなら、自分の能力の高さを自慢してもらいたいものだわ」
嘆きと怒りの両方の感情がしっかりとこもった言葉に、彼は己のうかつさを悟る。
ロアノーク侯爵のレブンという男は、自分の手柄自慢ならば聞く耳を持つ者がいても、家柄自慢などしても呆れられるだけだと知らないのだろうか。
一瞬スターチスはそのようなことを思ってしまった。
どちらにしても彼にできることは限られている。
「スターチス、今度レブン様のところに行く時、あなたもついてきなさい」
「えっ?」
突然の命令にスターチスは目を丸くした。
ちらりとレベッカの方を見る。
彼女は渋面を作りながらもうなずく。
「騎士の同行は認められているし、あなたが行ってもいいはずよ。リナリア様は初めてロアノーク侯爵領に赴かれるのですから、気の許せる相手を連れていくのは当然です。オトギ卿も一緒でしょう」
彼女の言葉を聞いたリナリアは肯定する。
「ええ。本当はムベも連れていきたいところだけどね。さすがにお父様の直属は無理だから」
伯爵家の騎士団長を連れていけば、何事かと耳目をいたずらに集めることになるだろう。
オトギとスターチスであれば何とでもなるはずだ。
「行くところはここから馬車で十日と行ったところかしら。本当にわたくしが欲しいなら、こちらに来てもらいたいものだわ」
「リナリア様、それでは波風が立ちますから」
レベッカがたしなめるのも無理はない。
身分が違う家同士で縁談が決まった場合、まず身分の低い方から高い家を訪問するのが習わしである。
恋愛段階であればそのような制約はなく、身分の高い男が熱心に女のところへ足を運ぶ、という例はしばしばあった。
今回、レブンは家の権力を使っていきなりその段階を飛ばして、決めたのである。
それほどまでに自分は愛されている、と考えたりはしないのがリナリアという女性だった。
レブンの一体何が不満なのか、とスターチスは問いかけたりしない。
質問してしまうと何かよからぬ展開が起こりそうな予感が、彼を自重させていた。
「とりあえずスターチスはリナリア様に同行するつもりでいてね」
「はい」
レベッカの表情と声色から、彼はリナリアに一礼をして引き下がる。
自室に戻ろうと廊下を歩いていると、クリコとばったりでくわした。
「リナリア様は何とおっしゃっていたのですか?」
この問いに彼は一瞬迷ったものの、正直に打ち明けることにする。
ロアノーク侯爵家のレブンとリナリアの縁談は、すでに伯爵家に仕える者たちの間で広がっているからだ。
「まあ。残酷な」
クリコは口元に手を当てて、小さく叫ぶ。
彼女の発言がどういう意味なのか理解できず、スターチスは怪訝そうな視線をメイドに向ける。
彼女はそのような彼の反応を見ていて、やがて肩を落とす。
「いえ、スターチス様がお気になさるようなことではなかったのかもしれませんね」
とりつくろうとして作ったらしいクリコの微笑は、どこか儚げだった。
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