第18話

「いかがですか、リナリア様?」


「だいぶ上達したと思うわよ」


 スターチスの問いにリナリアは笑顔で答える。

 彼らは今、伯爵の許可を得た上で遠駆けに来ていた。

 遠駆けとは文字から推測できるように、馬で遠くまで行って帰ってくる行為で貴族のたしなみのひとつとされている。

 特に領主に仕える騎士は馬に乗って走らせるのも求められる能力だし、姫君となれば男性に乗せてもらうのも役割のようなものであった。

 十六歳になったリナリアも遠駆けを経験しておく必要があり、相手としてスターチスが選ばれたのである。

 美しくなった少女を鞍に乗せ、その後ろから青年となったスターチスが手綱を操っていた。

 彼らが乗る黒馬は領主一族が飼っている一頭で、彼にとって最も相性が良い相手である。

 いくら練習を兼ねているからと言っても、きちんと操れる自信がない馬に領主の姫君を乗せるわけにはいかない。

 リナリアが上達したと評価したのは、自分を乗せても問題ないくらいの腕になったということであろう。

 彼女はスターチスが乗馬に苦戦していた時代を知っているからだ。


「姫様を馬にお乗せするのも、騎士の務めですので」


「あら、務めだから頑張ったの?」


 謙虚に答えた騎士に対してリナリアは切り返す。

 彼を見る青い宝石のような瞳には、いたずらっ子のような輝きが宿っていた。

 リナリアのために頑張ったと彼の性格では言えないと分かっていて、意地の悪い言葉を投げたのである。

 年月は彼女をより美しく魅力的に成長させたが、このような性格はなかなか治らないらしい。


「も、もちろん、リナリア様のためでもある、ます」


 ところが今日のスターチスはひと味違っていた。

 頬を紅潮させたあげく噛んでしまったが、それでもきちんと言ったのである。


「あら、まあ……」


 この反撃は微塵も想定いなかったらしいリナリアは、頬を朱色に染めて前方を向いてしまった。

 貴婦人が恥じらっている時は、追い討ちをかけるような真似をしてはならないというのが、ハンプトン伯爵家の騎士の教えである。

 スターチスは黙って馬をゆっくりと歩かせた。

 彼にしてみれば、無言でいるというのもかけがえのない時間である。


「……このわたくしをからかおうだなんて、見上げた騎士道精神だこと」


 やがてぽつりと少女は漏らす。

 本心ではあるまい。

 スターチスに対して素直になれない、複雑な乙女心によるものだろう。


「申し訳ございません」


 昔の彼ならばいざ知らず、今の騎士スターチスならば可愛らしく思いながら受けとめることができた。

 その余裕がまたリナリアには憎たらしいのだが、彼にしてみればそこまで付き合いきれるものではない。


「なにぶん不器用なものでして。リナリア様は器用な騎士をお求めでしょうか」


 ささやかな抗議を込めた問いを放つと、彼女は悔しそうにうなる。


「意地悪」


 複雑な思いが含まれた一言が返ってきた。

 スターチスとしては心外であるが、彼女と議論するつもりはない。

 そもそも議論が成立する身分でもなかった。

 リナリアが望んでいるからこそ、人目がないところではこのようにして言い合えるだけである。


「申し訳ございません」


 もう一度彼が謝ると「もういいわ」と彼女は言う。


「あなたって昔からそうなのよね」


 すねたような言葉だが、そればかりではない。

 どこか変わらずにいる彼の性格を喜んでいるようでもあった。

 歳月は人を成長させるが、歳月だけでは変わらないものもある。

 少なくとも今はまだ、彼らの関係もそうだった。

 ……残された時間は後どれくらいだろうか。


 彼らが遠駆けから戻り、スターチスがリナリアに手を貸して地上へ降ろし、担当者に馬を返すと待っていたレベッカやメイドたちと合流する。

 お姫様はこれからいろいろと忙しくなるのだ。

 スターチスの方も今日の出来事をムベに報告しなければならない。

 何事もなければ何事もなかったと言うべきなのが、騎士団という組織である。

 面倒ではあるものの、その積み重ねが組織運営には欠かせないのだ。


「ご苦労であった。リナリア様の屋敷に戻ってくれ」


 ムベに言われて彼はリナリアのところへ戻る。

 そのまま建物の中には入らず、外で立ち番をしている女性騎士のところへ行く。


「戻りました。代わりましょうか」


「気持ちはありがたいけど、少しは休んでからにしなさい」


 年長の騎士は優しく微笑んでスターチスをたしなめる。

 はりきっている弟を制止するような姉のような顔であった。


「失礼しました」


 彼は赤面しながら建物の中に戻ると、気づいたクリコがお茶を入れてくれる。


「遠駆けはいかがでしたか?」


 おしゃべり好きのメイドたちが、色とりどりの瞳を輝かせて彼に問いかけた。


「何もないよ。ただ馬を歩かせて帰ってきただけさ」


「なあんだ」


 メイドたちは露骨につまらなそうな顔をする。

 彼女たちは別に彼とリナリアのロマンスを期待しているわけではない。

 珍しい鳥を見たとか、ネズミに驚いた馬が走り出したといったちょっとしたエピソードが欲しかったのだ。

 これからも分かるようにスターチスがリナリアと二人きりで遠駆けに行けるのは、誰も彼らの間に何か起こると思っていないからなのである。

 スターチスにしても、この信頼を裏切るつもりは毛頭なかった。

 身分の違いというものが骨の髄まで染みているし、第一リナリアに迷惑がかかるだけではないか。

 この国の今の時代で身分違いの想いというものは、片想いであっても両想いであっても幸福な結果は生まれないだろう。

 身分の高い女性と低い男が駆け落ちした場合、騎士団が追ってとして差し向けられるし、二人に手を貸した者たちもまた処刑されたという前例がある。

 つまり何かあっても彼の味方をする者はいないということだ。


(馬鹿馬鹿しい)


 スターチスは内心否定する。

 彼自身、自分へのリナリアへの想いは友情の延長だと思っていた。

 男女間で友情が成立するのかどうかという議論はさておき、この国の人々はなかなか信じてくれないのはたしかである。

 一方で姫君と騎士の美しい主従関係に関しては誰も疑わないのだから、奇妙で複雑であった。

 メイドたちとおしゃべりと適度な頃合で切り上げて外に戻ると、オレンジ色の髪の騎士がちょうど彼を見つける。


「スターチス、今日こそお前を倒す!」


「いや、もう私が八十五戦八十五勝と圧倒しているのですから、一本とられても戦績は代わりませんよ?」


 スターチスは十二歳年長の騎士の物言いに苦笑する。

 彼とオレンジ色の髪の騎士はライバル関係にある……というのが向こうの主張であった。

 スターチスとしてはただの一度も負けたことがない相手を、対等なライバルと見るのは非常に難しい。

 それがまた彼は悔しいらしかった。


「おのれ、貴様は自分こそがハンプトン家最強の騎士だと思っているのだろう!」


 憎たらしそうに叫ぶ騎士に対して、スターチスはゆっくりと首を横に振る。

 彼がハンプトン家の騎士団最強と認められてから早くも一ヶ月が過ぎていたが、正直風当たりはあまりよくない。

 このような問いはひとまず否定しておかなければ、いたずらに敵を増やしてしまう。

 騎士の中には実家が爵位持ちの者が何人も混ざっており、彼らにしてみれば永代騎士言えども、しょせんは貧乏騎士の息子に過ぎない男よりも弱いとされるのは、かなり屈辱的であった。

 本人が気にしていなくとも、実家の家族たちが気にするのだから貴族という生物は面倒である。

 今、スターチスの目の前にいるオレンジ頭もその一人だが、本人は彼をライバル視して正々堂々真っ向勝負で勝つつもりしかないため、まだまともな手合いだった。


「何の騒ぎですか?」


 彼らのやり取りが聞こえていたのか、わざわざリナリアがレベッカと騎士を従えて出てくる。


「リ、リナリア様……」


 オレンジ頭は慌てて跪く。

 領主の姫に対して最大の礼を尽くすのは、騎士として当然である。


「ツバタ、何事ですか?」


 リナリアの問いにオレンジ頭の騎士、ツバタは恐縮しながら答えた。


「はっ。今日こそスターチスから一本とりたく、勝負を挑みに参りました」


「まだ言っているのですか」


 ツバタがスターチスをライバル視し、勝負を挑み続けている話はリナリアも知っている。

 彼女の声や表情にあきれが色濃く出たのも無理もない。

 ツバタは主筋に当たる女性に対して無礼にならない程度に、意見を述べる。


「おそれながら伯爵閣下より騎士の位を賜りし身が、己より強き者に挑まずしてよいものでしょうか。このスターチスを打ち破らんとする気概こそ、騎士のあり方かと愚考いたします」


「たしかに強者から逃げ回るだけでは困りますね」


 リナリアは意外とあっさり認めた。

 元々彼女は美しい外見に反して荒事を厭わない性格である。


「ではわたくしが見届けましょう。あなたが我が騎士スターチスに挑む姿を」


 これにツバタは驚いたものの、スターチスには予期できたことだ。


「それではお目汚しになりますが、失礼をいたします」


 彼としては今さら言葉を取り消せない。

 むしろ美しき姫君に己の力量を披露するよい機会だと考える。

 立ち上がったツバタは彼女に願い出た。


「大変不躾とは存じますが、もし私めがスターチスを倒したあかつきには、姫様の騎士に取り立てていただきたく存じます。姫様の御心はいかがでしょうか」


 リナリアは髪と同じ色の形のよい眉をぴくりと動かす。

 一介の騎士風情が彼女に褒美を求めるなど、本来は無礼千万である。

 実はスターチスとレベッカ以外に対しては厳しい彼女だが、今回は「無礼者」と一喝しなかった。


「そなたがそれだけの武芸をわたくしに披露できると申すなら、考えてもよいですよ」


 と言ってから意味ありげにスターチスを見る。

 一見すると身分の高い姫君が、どちらが己の騎士に相応しいか競わせて楽しんでいるようだ。

 しかし、視線を向けられた方はそのようなわけがないと理解できる。

 彼女の今の心情を彼なりに語るとすれば「こんな男、粉砕してしまえ」であろう。

 綺麗なバラには棘があるという言い回しは絶妙で、スターチスにしてみればリナリアのために作られたのではないかと本気で考えたこともあるほどだ。


「ありがとうございます! では勝負だ、スターチス!」


 ツバタは白い手袋をスターチスの足元に投げる。

 これは騎士が決闘を申し込む合図であり、戦いの前に行うのが通例だった。

 二人だけの勝負であればいざ知らず、リナリアの目の前でやるのだからやらない方がおかしい。

 スターチスもまた己の白い手袋をツバタの足元に投げて、決闘を受けるという意思を表す。

 そしてリナリアの意向どおりツバタを瞬殺する。

 彼女は白い扇で口元を隠したが、とても満足そうであった。

 対してレベッカは嘆息する。

 このようにスターチスは貴婦人の前で相手に花を持たせることができない性格が、敵を増やすのに一役買っているのだ。

 もっとも、貴族たちの性格上、彼が手加減したところで「情けをかけられた」と逆上しかねないため、彼ばかり責めるのも筋違いだが。

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