第9話
スターチスはまるで目の前にルーフの大群を見たかのような、信じられない気持ちであった。
実際の彼の目の前にあるのは大きな鳥の群れではなく、領主側に用意された食卓である。
家の近隣を合わせたよりもさらに広い家、派手さはないが立派なものだとすぐに分かる調度品、清潔な白いテーブルクロス、そして銀の食器に盛り付けられたできたての料理。
仕官を望む下の者たちに、領主の力の一端を見せつけるという目的も含まれたこのもてなしは、スターチスをはじめとする騎士見習い試験の一次合格者を圧倒した。
「皆さま、ようこそ。どうぞお召し上がりください」
そう呼びかけたのは燕尾服を着た白髪頭の男性である。
柔和な言葉遣いと物腰、それでいて有無を言わせぬ静かな迫力を備えた男の言葉に、三十ほどの少年たちは急いで食事にとりかかった。
彼らの食事風景をありていに言うとひどいの一言に尽きる。
ないよりはマシ程度のマナーしか身についておらず、食器の音がカタカタ聞こえるし、ナプキンもたちまち汚してしまう。
それを見ている白髪頭の男性も、近くに待機しているメイドたちも、顔色ひとつ変えないのは大したものであった。
この時点で彼らが領主の家に雇われている理由の説明がつくというものだが、受験者たちの中に気づいた者は一人もいない。
スターチスはまだいい方に分類される。
無作法な音を立てることは少なかったし、汚れもあまりない。
だが、上級階級としてマナーと教養を叩き込まれた者にしてみれば、他の者と大差なかっただろう。
彼らが風呂のために去り、後片付けをすることになったメイドたちはぼやいていた。
「ああ、やっぱり今回もひどかったわね」
「仕方ないわよ、教養のきの字も知らないような、貧しい平民が多いのだもの」
「どうして伯爵様は貴族の子弟から選抜されないのかしら?」
「しーっ、めったなことを言うものじゃないわよ」
同僚の疑問に他のメイドが、怖い顔で注意する。
領主である伯爵のやり方に疑問を抱くだけで不敬罪に問われかねない恐怖が、貴族社会の闇のひとつだろう。
ハンプトン伯爵はそのような横暴な人物ではないが、他人の言動にケチをつけて立場を悪くしたい者は山ほどいるのが上流階級である。
攻撃の糸口となるような隙を見せないのが肝要だ。
注意されたメイドもそのことを思い出し、真っ青になって首を上下に振る。
「この募集は直属騎士への道が開かれていると言っても、基本的に末端の補充であって幹部候補の採用じゃないわ。伯爵一族の側近候補は爵位持ちから選抜されるのが通例なのよ」
無言になった頃合いを見計らって、古株のメイドがぽつりと言う。
爵位持ちとは今回の場合、男爵以上の地位のことだ。
騎士は一代かぎりでも永代であって貴族階級には違いないが、この国では爵位とは見なされないのである。
「なるほど……使い捨てもありえる下っ端に、貴族をつけるわけにはいかないか」
「当然でしょう? それでも平民が騎士の地位と称号、俸給を受け取れるのよ? 大出世よね」
メイドたちは意地の悪い笑みを交わし合った。
実のところ末端の騎士よりも商人や大きな土地を持っている農民の者の方が裕福な場合もある。
彼女たちはそれを百も承知で言っていた。
平民でも下手な貴族よりは裕福な者がいるという事実に対する暗い感情、上級階級という特権は容易には手に入らないという歪んだ優越感が混ざって彼女たちの無意識の奥底に沈んでいる。
「お前たち、おしゃべりは休憩時間にしなさい」
とそこへ燕尾服を着た白髪頭の男性からの叱責が飛ぶ。
彼はスターチスたちには優しかったものの、管理・監督する対象であるメイドたちには厳しい。
スターチスたちが何をしでかそうとも彼には無関係だが、メイドたちの所業は全て彼の管理責任となるという決定的な差こそが原因だ。
一方メイドたちにそのような目で見られていると夢にも思わない受験者たちは、執事たちの案内で風呂に入っている。
「これが風呂ってやつかあ」
「お貴族様の家には、こういうものがあるんだなあ」
風呂という単語は聞いたことがあっても見たことはないというのが、平民たちの実態だ。
これはスターチスも例外ではない。
自分の家に匹敵するほどの広さにまず圧倒され、温かい湯がなみなみと浴槽を満たしているという事実に驚愕する。
さらに各自体を洗うためのタオルと濡れた体を拭くためのタオルを与えられるという、信じられないぜいたくさだ。
おまけに石鹸という体を洗うためのアイテムも用意されている。
「騎士になったのならまだわかるけど、俺たちはまだ合格したわけじゃないのになあ」
誰かが感嘆し、皆はそれに共感した。
彼らは領主の財力と懐の広さを嫌というほど見せつけられてしまったのである。
ここまですごいと「俺たちの納めた税金で」という反発心などわいてこない。
平伏し、服従するしかないという気持ちだった。
元々反骨心など持っていなかったスターチスはと言うと、改めてリナリアは天上世界の住人だったのだと思い知り、少し怖くなっている。
(リナリア様にお仕えしたいという気持ちさえ、大それた望みだったんじゃないだろうか……)
騎士までであれば、領主一族に認められさえすれば誰でもなれる地位だ。
だから認められさえすればよいと思っていたのだが、「領主一族の騎士」という立場をまるで理解できていなかったことが分かってしまったのである。
彼は一人元気なく寝所へと向かう。
寝所は三十人でひとつの部屋に押し込められる形であるものの、まず三十人が一緒に寝られる部屋というものを彼らは見たことがない。
「すっげええ」
「寝るだけの部屋がこんなに広いのかよ……」
少年たちはぽかんと口と目を大きく開けて、きょろきょろと室内を見回す。
床に敷かれているシーツもいつも使っている古いぼろけた安物ではなく、洗い立ての清潔な一品だ。
布団はふかふかとしてやわらくてよい匂いがする。
一体これは何なのかと本気で疑問を抱いた者は、両手足の指の数ほどもいた。
スターチスはその中の一人である。
(リナリア様って毎日こんな暮らしをしているんだろうか?)
と思ったものの、すぐに彼は己の過ちに気づく。
(いや、もっといい暮らしをしているんだよね)
リナリアは伯爵のお姫様であり、彼らは貴族の中で身分の低い騎士である。
彼らの暮らしと姫君の暮らしが同じ程度のはずがなかった。
彼にはこれ以上の暮らしというものがさっぱり想像できなかったが。
(明日は本番だ。早く寝よう。頑張るぞ)
今は仲良く一緒に寝ている彼らも明日は倒すべき敵だ。
今日は何事も起こらないのは、試験以外での争いは伯爵への反逆行為とみなすと言われたからである。
領主への反逆行為は一族郎党極刑しかありえないだろう。
だから誰もがおとなしくしているのだ。
翌朝、スターチスは真っ先に目覚める。
そっと部屋の外に出ると若い騎士が一人立っていて、じろりと彼を青い目で睨む。
「このような時間帯にどこへ行く?」
「朝の素振りをしようと思いまして……」
若い騎士と言っても彼よりも立場は高いため、ていねいな言葉遣いを心がける。
「ふむ。鍛錬か。ならばかまわないだろう。我々の目が届かないところへ行かないのであればな」
「ありがとうございます」
スターチスは礼を言って建物の外に出て、そこで武器の類がないことに気づく。
一体どれだけ緊張していたのかと苦笑し、何もやらないよりはマシだと剣なしでもできる鍛錬を行う。
やがて朝食が用意され、それをすませた彼らのところへモリーが姿を見せる。
「おはよう諸君、目が覚めたかな?」
彼はスターチスが知っている口ぶりで言う。
「そなたたちにはこれから伯爵閣下立ち会いの下で試合をしてもらう。閣下のお眼鏡にかなった者だけが合格となる。全員が合格する可能性もあるし、全員が不合格となるかもしれぬ。覚悟しておくように」
「は、はい」
ハンプトン伯爵が直接やってくると聞かされた受験者たちに緊張が走る。
ハンプトン伯爵は文字通り伯爵領内の最高権力者であり、絶対的存在だ。
「では準備に取りかかれ」
モリーが言うと受験者たちは飛び上がるように食堂から出る。
準備といってもここでは大したことができないと既に気づいていたスターチスは、建物の外に出てゆっくりと体を動かす。
適度に体をあたためておいた方がよいと判断したのだ。
半時ほどやっていると、騎士たちが鈴を鳴らしながらやってくる。
「まもなく領主様がお見えになる。者ども、集まれい」
騎士の声を聞いた受験者たちは大慌てで集合した。
領主が到着する前に集まっていないというのは、それだけで無礼となってしまう。
彼らが建物の庭で跪いて待っていると馬に乗った騎士が十名、そして彼らに守られるように二頭の立派な馬に引かれた赤く華やかな馬車がやってきた。
客室のドアをモリーが開けると、まず最初に小柄な人影が降りて来る。
「リナリア様、いらっしゃいませ」
モリーが少し驚きを含んだ声であいさつをすると、スターチスは危うく反応しそうになった。
もし今彼が動くと近くで待機している騎士に首をはねられてしまうかもしれない。
「ええ、出迎えご苦労、モリー」
リナリアはスターチスがよく知る無邪気で可愛らしい声ではなく、お高くとまった冷たい感じの声を出す。
貴族の姫君としてのリナリアなのだろうと彼は感じる。
「今年は有望な者がいるといいんだがね」
続いて皮肉の棘を含んだ若者の声が響く。
「いらっしゃいませ、グラジオラス様」
モリーが若者の名を呼ぶ。
他の受験者たちには誰のことなのか分からなかったが、スターチスには分かる。
リナリアがいつの日か「グラジオラス兄様が」と言っていたことを、彼は覚えていたからだ。
つまりリナリアの兄であろう。
「いるか分からぬからこそ、試すのだ。グラジオラスよ、その手間を省いてはならぬと心得よ」
「かしこまりました、父上」
最後には低く威厳と品格が混ざった中年男性の声がある。
グラジオラスが父上と呼んだ時点で、この声の主こそが当代ハンプトン伯爵なのだとスターチスは思う。
「皆の者、顔をあげることを許す」
伯爵の許可を得て、スターチスたちは初めて伯爵一家の顔を見た。
意外なことに彼らの服装は煌びやかなものではない。
伯爵は白いシャツにグレーのフロックコート、コートとお揃いの靴をはいたひげをたくわえた鷹のような目の紳士だ。
グラジオラスは青いシャツに白いフロックコート、グレーの靴をはいている犬のような目を持った青年である。
彼らの顔立ちはどこかリナリアと似ていて、血のつながりを感じさせた。
最後にリナリアはと言うと、金と銀の華やかな刺繍が多量に施された赤いドレスを着ている。
スターチスと会っていた時と比べると華やかで動きにくそうな格好なのは、伯爵の姫君としての立場がある上に父と兄が一緒だからだろう。
「では、これより試験をはじめる。木剣を貸与する。最後まで立っていた者が勝者だ」
モリーが簡潔な説明をして、受験者たちは軽くざわめく。
一次試験と似たような内容なのは、騎士に求められることによるものなのだろうか。
「ただの手抜き」という言葉がスターチスの頭によぎったが、慌てて追い出す。
伯爵とその家臣に対してあまりにも無礼だったからだ。
伯爵一家の前には護衛の騎士たちが立ち塞がり、さらに離れた場所で彼らは対峙する。
武器を与えた平民たちが伯爵一家に対してよからぬことを考えても対処しやすいように、という意図が透けて見えた。
「はじめ!」
騎士の一人が合図を送って戦いがはじまり、スターチスの圧勝で終わる。
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