第3話

 スターチスは翌朝も剣をふるっていた。

 リナリアがやって来れば剣の稽古どころではなくなってしまう。

 そのため、彼女がやってくる夏の季節はいつもより早めに起きている。

 領主の娘であるリナリアは彼にとって太陽や風と同じで、己の力ではどうにもならない存在だ。

 だから彼の方で合わせるしかない。


「あら、スターチス?」


 ところが、いつもならまだ来ないはずの時間帯に、いるはずがない少女の声が背後からスターチスの耳へと届いた。

 幻聴であってほしいと祈りながら彼が振り返れば念なことに地味でも上等な服を着て目を丸くしているリナリアと、どこか気の毒そうな顔をしているレベッカの姿が目に映る。


「剣の稽古をしているの?」


「ご存じなのですか」


 リナリアの声に反射的に訊き返し、直後に愚問だと思う。

 領主の城には何十人もの騎士が常駐でいるし、鍛錬の現場を見たことくらいはあるはずだ。

 案の定彼女は首を縦に振ってから小首をかしげる。


「スターチスは騎士の息子なのよね。やっぱりお父様から騎士に叙任されたいの?」


「はい」


 彼女の問いに小さくうなずく。

 この国では父が持つ騎士の位を受け継げるのは長男だけだ。

 スターチスは騎士の任命権を持つ国王か領主に認められ、叙任されなければならない。

 もしできなければ上級階級の身分を喪失して平民に落とされてしまう。


「ふうん。そうなんだ。スターチスは騎士を目指しているのね」


 リナリアはうれしそうに桃色の唇を動かす。


「何だったらわたくしの騎士になってみる?」


 突然そのようなことを言われてスターチスはびっくりして彼女の青い瞳を見つめたが、レベッカは血相を変えて叫ぶ。


「お嬢様! いけません! 騎士の任命は領主さまと王族だけの特権です! お嬢様がいかに伯爵さまのご息女であらせられても、不敬の大罪に問われるおそれがございます!」


 いくら何でも大げさすぎやしないかとスターチスは感じたものの、彼女の必死さが彼の口の動きを封じた。

 激しくいさめられたリナリアは不満そうに口をとがらせる。


「何よー。それくらい知っているわよ。でも、決めるのはお父様やお兄様でも、選ぶ権利はわたくしにもあるのよ?」


 任命権に口出しはできなくとも、選択権と拒否権は持っているのだというのが彼女の主張だ。


「それはそうですが……」


 レベッカの語気がやや弱くなる。

 彼女もまたリナリアに気に入られているからこそ、おつきでいられるのだ。

 幼い主人はわがままではあるが、理不尽でも横暴ではないと知っていても理屈ではない要素が働きかける。

 親から決して領主一族を怒らせてはいけないと叩き込まれてきた影響は大きかった。


「リナリア様には専属の騎士がいらっしゃるのですか?」


 スターチスはリナリアの言葉に疑問を覚えて問いかける。

 これまで彼が見たことがあるのは彼女とそのおつきの二人だけであり、騎士らしき者を視界に映した記憶はない。


「リナリア様?」


 返ってきたのは不満そうな声と刺すような視線で、彼は己の失敗に気づく。

 気まずそうに咳ばらいをして言いなおす。


「リナリアには専属の騎士がいるの?」


「いるよー。十人くらい」


「十二名です、お嬢様」


 リナリアの発言はレベッカが即座に訂正する。

 彼女が自分の騎士にあまり興味を持っていなさそうなのはほぼ確実だ。

 仕方なさそうな表情でレベッカがスターチスに説明する。


「お嬢様の望みで騎士たちはこの付近には来ていませんが、入口付近を固めています。お嬢様の身に何かあればただちに駆けつけて来るでしょう」


 聞く人によっては恫喝と解釈したかもしれない。

 しかし、騎士の家の三男坊は「姫の騎士たちにはそれだけの練度がある」と解釈する。

 入口からここまでは相応の距離があり、甲冑をつけたまま全速で駆けてくるにはよほど鍛えられていないと難しいはずだ。


「それでスターチスはどうなの?」


 思考の海に腰まで沈みかけたスターチスは、リナリアの声に引き戻される。


「えっと?」


 とっさに彼女の質問の意図を理解できず、青い双眸を見つめた。


「わたくしの騎士になりたいという気持ちはあるの?」


 再び放たれた率直な問いに、彼はためらいがちにうなずく。


「できれば家のためにも」


 と言ったのは彼なりの理論武装である。

 「分不相応な望みを抱いてはいけない」と彼の父も言っていたのだから当然だ。

 もっともリナリアはそれが不満だったらしく、口をとがらせる。


「あら、わたくしと仲良くしているのは、家のためなの?」


「リナリアさま……」


 レベッカがたしなめるような声を出した。

 スターチスの身分では口が裂けても「自分自身がリナリア姫と仲良くしたい」など言えるはずがない。

 リナリアと言えどもこれくらいは知っているはずである。

 それでもなお要求するのは姫のわがままでしかなかった。


「むー、何よ。ここにはわたくしとレベッカしかいないじゃないの」


 だから言っても問題ないとリナリアは頬をふくらませながら主張する。


「大それた望みはたとえどのような場所であったとしても、決して口にしないのが下々の処世にございます」


 レベッカは渋面を作りながら、スターチスの立場を懸命に説明してくれた。


「それでも本当にわたくしが大切なら、身分の壁くらい超えてみせると言って欲しいものだわ」


 目をそらしながらぽつりと放たれたリナリアの声には寂寥感があり、幼稚なわがままでは片づけられない深みを感じさせて、二人の男女をはっとさせる。


「え、えっと……」


 スターチスは困惑していた。

 リナリアのことは彼なりに大切ではあるが、身分差という巨大な壁に挑むほど強い気持ちを抱いているのか、自分で自分のことを今一つ理解できていなかったのである。

 レベッカが抜き放たれた名剣のような表情と迫力で、主人をいさめた。 


「お嬢様。お嬢様は軽い気持ちでおっしゃるようなことでも、わたくしども身分の低い者にとっては命懸けとなる場合は多うございます。スターチスが今すぐ返答できなかったところで、彼がお嬢様に対して不誠実だということにはなりませぬ」


「あ、うん……」


 リナリアはたじろいだ後、スターチスに謝る。


「ご、ごめんね? そこまで考えてなくて」


 彼女にとってはいつもの無邪気なおねだりの範疇だったのだろう。

 支配階級とそれに仕える階級の壁のぶ厚さと厳格さについては、知識はあってもこれまでに深く考えたことはなかったのかもしれない。


「いえ、めっそうもございません」


 スターチスはぎこちない笑みを浮かべて、彼女の謝罪を受け入れる。

 彼の立場では他に選択肢がないという指摘は、この場合野暮というものだ。

 リナリアが神妙な顔をしていたのは瞬きをするほどの短さで、すぐに名案が浮かんだとばかりに手を叩く。


「そうだわ。スターチスの騎士としての腕前、皆に審査してもらいましょうよ」


「えっ?」


 少年とおつきの女性は驚きの声を重ねる。

 一体どういう風に考えればそのような発想になるのだろうか。

 それとも斜めな発想は支配階級の血統によるものなのだろうか。

 スターチスは領主の姫君に対して無礼なことを考えずにはいられなかった。


「むー、何なの? 何がいけないのよ?」


 よい案だと思っていたのにも関わらず、二人の反応が芳しくなかったためにリナリアは不満を口にする。


「いえ、そのようなことをまるっきり考えたことなどなくて」


 スターチスは本音を明かす。

 決してリナリアの発想にケチをつけたいわけではないと主張しておきたいところだ。


「まあそうでしょうね。わたくしが今思いついたところだもの」


 姫君はたちまち機嫌がよくなる。

 ころころと表情が変わるのも彼女の魅力の一つと言えるかもしれない。


「スターチスが騎士を目指すなら、悪い話ではないと思うの。レベッカの意見は違うの?」


 レベッカはとっさに答えかねる。

 たしかにスターチス個人にとって悪い話ではないように聞こえるのだろう。

 リナリアにしても気心の知れた相手が身近なところに来るかもしれないというのは、好ましい展開だ。

 だが、話はそのような簡単ですむはずがない。

 スターチスのような貧乏な下級騎士が、姫君の発案で腕試しをしてもらうなど前代未聞である。

 他の騎士たちは快く思わないだろうし、嫉妬の感情がスターチスにぶつけられることになるはずだ。

 貴族社会において上位者からの嫉妬や恨みは買ってはいけない、などという教訓めいたものが存在している。

 スターチスの家は貴族社会においては最底辺なのだから、敵しかいなくなると言ってもよいかもしれない。

 それだけ領主の姫に気に入られるというのは、領地内の貴族たちにとって大事件なのだ。

 これまで問題になっていないのは、スターチスの存在自体が認知されていないからである。

 護衛として離れたところに待機している騎士たちも、彼のことを同じ貴族の一員だとは思っていない。

 領地内で偶然リナリアと出会って話しかけられるようになった、幸運な地元の子どもと見なしているだろう。

 何故ならばリナリアもレベッカもその点を周囲に詳しく話していないのだ。

 これはレベッカが機転を利かせたためである。

 リナリアの遊び相手になりたい子ども、子どもがリナリアと遊んでほしい大人は星の数ほどいるのだから、スターチスの存在を隠した方が彼のためであった。


「遊び相手と遊び場を話してしまうと、スターチスと遊べなくなるかもしれません」


 と言ってリナリアを納得させたのである。

 さすがに彼女の父親である領主、および肉親たちには隠していないが、彼らは何にも言わなかった。

 末の娘の気まぐれの延長程度にしか思っていないのだろう。

 スターチスはこれまで彼が知らないところで守られてきたのである。

 だが、曲がりになりにもリナリアが推挙するとなると、もう隠し通すことなどできない。

 並大抵の気持ちや覚悟では潰されてしまいかねない日々が待ち受けることになるだろう。

 果たしてまだ若いスターチスに条件その覚悟があるのか、レベッカは心配であった。


(いずれにせよ、リナリア様がいるところでしない方がいいかもしれませんね)


 と彼女は思う。

 まだ幼いリナリアがそこまで考えていないことは明白であった。

 おそらく仲の良い友達の将来を拓いてあげたいという純粋な好意によるものだろう。


「反対ではありませんが、スターチスも突然言われては困ってしまうでしょう」


「あっ、そうか」


 リナリアはきちんと指摘すればすぐに己の非を認めることができる性格だった。

 友達想いと並んで美点として挙げられる。

 レベッカが口うるさく注意しないのは、この美点を持ったまま成長してほしいと願っているからだ。

 領主一族の性格次第で、下の者の運命は簡単に変わるからである。


「後でわたくしが残り、上手くスターチスの気持ちを把握しておきましょう。お嬢様は先に騎士たちとお戻りになっていただけますか?」


「うん、その方がいいならお願い」


 リナリアはレベッカの申し出を全く疑わなかった。

 スターチスは展開についていけなかったが、元々彼は求められないかぎり己の意見を口にしてはいけない身分である。

 リナリアの判断が下った以上、黙っているしかなかった。

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