第2話

 やがてレベッカが太陽の位置で昼が近づいていることを確認して、リナリアに声をかける。


「お嬢様、そろそろお時間でございます」


「え、そうなの? じゃあスターチス、またね」


 お姫様は性格からは想像もできないほどあっさりと従う。

 これは「帰る時間を守らないと次からは自由で外で遊ばせない」という彼女の父ハンプトン伯爵から、直々に命令が出ているからだ。

 わがままで天真爛漫なリナリアも、さすがに父に本気で逆らう意思はないのである。

 何度も振り返り手を振る彼女に手を振っていた少年は、姫君とおつきの姿が見えなくなると置いていた木の剣を拾いに行く。

 彼女がいた場所にはまだかすかにいい匂いが残っている気がする。

 そのような考えを頭を振って追い出し、彼は再び剣をふるう。


(もっと剣の腕を磨いていけば、リナリアさまのお側にいられるかもしれない)


 という淡い希望を胸に抱きながらだ。

 現状ではリナリアがその気にならないかぎり、二人の距離が縮まることはない。

 しかしながら伯爵家の近侍として取り立てられれば、可能性が生まれる。

 それ以上は大それた望みであり、考えないようにしているのだが。

 太陽が真上に登ってきたのを見て、スターチスは一度自宅に帰る。

 彼が剣の稽古に時間を割り当てられるのは昼までで、昼飯を食べた後は実家の手伝いをしなければならない。

 彼が働くかどうかで食卓にも影響が出るのだから、なまけるわけにはいかなかった。

 スターチスの家は川から四半時(約三十分)ほど歩いたところに建っている。

 ハンプトン伯爵から貸与されている乱雑な造りのわらふき屋根の木造住宅であった。

 他の市民たちの家よりもひと回りほど大きいが、それ以外に特に違いはない。

 平民に毛が生えた程度に過ぎないのが下級騎士の実態である。

 それでも身分の違いは歴然としていて、スターチスの姿を見た人々は老若男女を問わずていねいな礼を行うし、彼がうなずいて見せないかぎりは微動だにできなかった。

 木の引き戸を開けるとちょうどよく母と遭遇する。

 平民と同じく粗末な麻の服を着て、彼と同じ青い髪はリナリアやレベッカと違ってつやがない。


「ああ、スターチスおかえり。リナリアさまとはお会いしたのかい?」


 彼女は息子と同じ黒い瞳で我が子をとらえると、真っ先にそうたずねてくる。


「うん、お元気そうだったよ」


 スターチスが答えると満足そうな表情になった。


「そうかい。リナリアさまのお相手をするのもお前の仕事だよ」


「うん、分かっているよ」


 母の言葉に彼は神妙に応じる。

 両親がスターチスに寛容な理由のひとつに関して、「リナリアに気に入られることを期待しているからだ」と察せられるだろう。

 実際、諸侯の一族と良好な関係を築けたおかげで栄達の道が開いた例は枚挙にいとまがない。

 それらの話を聞いてきた者はみな、我が子に同じことを期待するのだ。

 幸いなことに目下のところスターチスは見事「リナリア姫のお気に入り」となっている。

 でなければこの季節になるとほぼ毎日彼のところにやってきたりするはずがない。

 スターチスは両親の下心に気づかないほど愚鈍ではなかったが、産んでもらってそれなりに自由を与えられている点には感謝している。

 おまけにリナリアは彼から見てとても魅力的な少女だった。

 彼女の側にいられるならば努力は惜しみたくはないというのが、まごうことなき本心である。

 一家五人がそろうと母が食事を並べていく。

 昼飯はかたい黒パンに野菜と肉団子が二つ入った透明なスープであった。

 器は質素な木の皿だし、塩こしょうといった貴重品はほぼ入っていない。

 それでも五人家族なのにスターチスの小指ほどの肉団子が一人につき二つも入れられるだけまだマシであった。

 彼らは食べる前にまず、祈りを捧げる。


「大地を守る気高き乙女アシュトレよ、日々のお恵みに感謝いたします。これからも御身のご加護を賜らんことを」


 その対象は大地の乙女アシュトレであった。

 アシュトレは豊穣を司り、彼らに生きる糧を与えてくれるとこの国で広く信仰されている乙女の名前である。

 一同は目を閉じ両手を胸の前で重ねて、アシュトレへの感謝の言葉をつむぐのだった。

 終わると食事がはじまるが、スターチスはまずパンをスープにひたしてやわらかくする。

 そのままでは食べられないこともないものの、かなりの労力が必要となるのだ。

 他の者も皆、彼と同様にスープにパンをひたしている。

 誰も好き好んでしなくてもよい努力をしようとは思わないのだ。

 彼らは食事中、一言も発さない。

 それが生きる糧を与えてくれた大地の乙女アシュトレへの礼儀だと考えられているからだ。

 食事をすませると長男のフィラムが末の弟に問いかける。


「リナリア姫様にはお会いできたのか?」


「うん、お元気そうだったよ」


 内心うんざりしながらもスターチスはきちんと答えた。

 この家の命運は姫君の機嫌をとれるかどうか次第で、簡単に左右されてしまうということが分かる年齢になっている。

 さすがに側近に取り立てられるなどと思っている者は誰もいないが、多少俸給がよい職にありつけるかもしれない、と期待するのは仕方なかった。

 スターチス自身、多少なりともそういう気持ちがあるのは否定できない。


「スターチスが伯爵様の騎士団に入れたら違うのだがなあ」


 たとえ三男であっても、身内から諸侯の騎士団に入る者が出ると処遇が変わってくるのが貴族社会というものだ。


「それは無理じゃないかな」


 スターチスは長兄の言葉に苦笑する。

 彼は身内ほど自身の剣の腕を楽観していない。

 ハンプトン伯爵領の五州はいずれも豊かで人口も多かった。

 つまり伯爵家に仕える人数が多いということであり、彼の競争相手も多いということである。


「入団試験くらいは受けられるだろう? リナリア姫様にお願いすれば」


 ここで次男のディオムが口を出してきた。


「どうなんだろう……」


 スターチスは複雑な顔をして困惑を言葉として放つ。

 リナリアはお姫様らしくわがままなところがあるものの、基本的には気さくで親しみやすい性格だ。

 しかし、諸侯の姫君扱いされることを嫌っている。

 彼が騎士団に入りたいから試験に関する口利きを頼めばどのような反応をするだろうか。


(あの方に言うと怒り出しそうなんだよな。まだレベッカさんに頼んだ方が聞いてもらえそうだ)


 と思えてならない。

 この場合問題はレベッカにそのような力があるのかという点だ。

 そもそも彼女には彼の頼みを聞き入れる理由がない。

 こういった背景が、家族ほどスターチスが楽観していない要因である。

 家族たちはこの末っ子は一体何を言っているのかという表情をしたが、リナリアの人となりを知っているのはこの中で彼しかいなかった。

 リナリアはしてくれないだろうと彼が言えば、誰も何も言い返せないのである。


「それくらいにしておけ」


 見かねたのか父が止めに入った。


「リナリア様は気さくお方かもしれぬが、伯爵の姫君であることに変わりはない。我らではそのご意思に従うことしかできぬ。分不相応なふるまいは慎むべきだ。スターチスのようにな」


 彼とて息子への期待がないわけではないだろう。

 だが、騎士の家の跡継ぎと生まれて数十年、亡父の跡を継いで十数年生きてきた経験がある。

 その経験から淡い願いを抱いていたとしても、下の者から支配階級にみだりに働きかけるべきではないと学んでいた。


「はい、父上」


 父が発する言葉の重みを多少とも感じ取った長男と次男は素直に返事をする。

 父はまずは長男に目を向けた。


「フィラムこそどうなのだ。セチアとは上手くいっているのか?」


 セチアとはこのラバール町に本拠を持ち、プリズベン州で商いをしている商家の娘である。

 商家の規模はそれほど大きくはないが、堅実な手腕でなかなか繁盛しているいう。

 貧乏騎士の家が財力のある商家と縁を持ちたいと思うように、商家の方でも騎士とつながりを持ちたがっている。

 本人同士は純粋に愛情を育んでいるとしても、その親同士はそれだけではいけないのだ。


「ああ、先方の両親とも食事したよ。父上の許しを得られるなら婚約したい」


 フィラムは手短に報告し、さらに希望も告げる。


「セチアとならばかまわぬ。商家の娘らしく働き者で経済観念もきちんとしている娘だ。よき嫁になれるだろう」


 さらに実家から経済的援助も期待できるとなれば、申し分はない。

 父が口にしなかった言葉も、息子たちにはしっかりと伝わる。


「秋にでも婚約し、来年結婚してもかまわないかい?」


 フィラムは父に確認をした。

 貴族社会では必ず婚約期間を一年間設けるというならわしがある。

 お互いの家や家人について改めて調べるし、何らかの事情の変化があれば破談にできるという理由によるものだ。

 主に王族や諸侯のために作られた制度とされているが、彼らでも裕福に思えていた相手が実は借金だらけだったり、代々騎士の称号を与えられる家だと思っていたのに実はその資格を喪失していた、という例がなかったわけではない。


「そうだな。それでよかろう」


 父の許可が出たことにより、フィラムとセチアの縁組がほぼ確実となった。


「セチアなら優しい義姉になってくれそうだな」


 という表現でディオムが兄を祝福する。


「私と婚約してからは義姉上と呼ぶのだぞ」


 フィラムは照れ隠しに切り返す。

 これまでは身分差もあり、ディオムがセチアを呼び捨てにするのは当然だったが、フィラムの婚約者となり妻となる以上は許されなくなる。


「ああ、そうだよね。俺たちはちゃんとセチア義姉上と呼ばなきゃ」


 スターチスがさらに祝いの言葉で切り返せばフィラムは真っ赤になって黙ってしまう。

 純情な長兄はこの手の話題になると劣勢となるのが常だった。


「貴様ら、今度覚えていろよ」


 フィラムは恨めしそうな顔で負け犬の遠吠えのような言葉を吐く。

 これが彼の精いっぱいの反撃だった。

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