貴女は我が心の太陽~捨てられた貴族の姫君と幼馴染の騎士~
相野仁
第1話
スターチスはその日も東の空からを顔を出した太陽に背を向けながら、林の中で一人木の剣をふるっていた。
彼はハンプトン伯爵家に仕える騎士の三男として生まれた。
この国において騎士とは貴族階級に分類されるが、彼の実家は主たるハンプトン伯爵家に与えられた小さな土地で収入を得ている貧乏貴族である。
両親と三兄弟が生きていくだけならばまだしも、騎士はいざという時に備えて武具を買い揃え、日々の手入れと鍛錬をしなければならない。
そして年に一度、伯爵家が主催する集まりに参加するための服も用意しなければならなかった。
これらの出費が馬鹿にならず、彼ら家の者は倹約した生活を送っている。
(とは言え、俺はまだましか)
今年十三になって背がかなり伸びてきたスターチスは、手作りの粗末な剣をふるいながら考えた。
どうしてかと言えば、三人もの子どもを食わせられない家もあるからである。
そういった家は子どもを欲する家に養子に出したり、奉公に出したりしているのだ。
実のところスターチスの家も彼までも食わせるのは少々厳しい。
それでも彼が置いておかれているのには理由があった。
一つめは剣の腕である。
十一の時に兄たちよりも強くなり、十三となった今では大人たちにも引けをとらぬ強さだった。
こうなってくるとがぜん両親は彼の剣に期待を寄せる。
領地持ちの貴族、諸侯たちの中では腕が立つ者を近侍衆として召し抱えるのが習慣化されているからだ。
近侍とは諸侯直属の騎士であり、同じ騎士でもスターチスの家とは待遇が大きく違う。
彼ら貧乏騎士の家から近侍衆が出るのは非常な出世であり、親族一同の生涯の自慢の種になる。
もちろん近隣の子どもたちの中で強い程度ではあまり意味がない。
ハンプトン伯爵家が有する領地の者たちの中で上位の実力となる必要があった。
そのため、他の兄弟と違ってスターチスは剣の稽古の時間を多めに割いてもよいと両親に言われている。
剣の稽古と言っても、彼ら貧乏騎士ができるのは木を切って作った剣を愚直にふるうだけだ。
たっぷり半時ほど振り続けていると背中がぐっしょり濡れるし、青い髪から汗がしたたり落ちる。
そのことにようやく気づいたスターチスは、一度休憩して川に向かう。
近くに流れている川は水は清らかに澄んでいて、この季節はとても冷たい。
水を汲んで顔を洗えばとてもさっぱりした気分になれるのだ。
ひと口飲めば疲労が吹き飛ぶような感覚さえある。
日課の中でひそかな楽しみのひとつであった。
川原に転がっている無数の石の中から平らになっていてちょうどよい大きさの物を選び、腰を下ろす。
太陽の光を映す川面をながめながらせせらぎに耳をかたむけるのもまた彼の習慣である。
(こんないいところ、そうそうないんじゃないか)
まだ外の世界の広さを知らぬ少年にすぎないスターチスは、本気でそう思っていた。
彼がそのように考える理由はもうひとつ。
「お嬢様、あぶのうございます!」
遠くから赤髪の若い女性の焦っているような声が聞こえる。
スターチスが振り向けばそこには白い上等な生地で作られたワンピースを着た、見事な金髪を持った少女が危なっかしい足どりで彼の方へと近づいてきていた。
伸ばせば手が届くかどうかというところまで来て少女はバランスを崩して悲鳴をあげる。
「きゃっ」
何もなければ可愛らしい後頭部を石に打ちつけ、大けがをしたかもしれない。
しかし、スターチスがあらかじめ分かっていたかのように素早く彼女の背後に回っていて、優しく抱き止めたおかげで事なきを得た。
「あ、ありがとう、スターチス」
彼の方を向きながら少女は可憐な微笑を浮かべて礼を言う。
「いえ、どういたしまして」
同年代の少女と触れ合いつつ、間近でその美貌を見てぬくもりを感じるのはスターチスの体温をいやでも向上させる。
スターチスがひそかにこの地がいいところだと信じているもうひとつの理由こそ、彼女の存在であった。
そこに落ち着いた紺の服とスカートといういで立ちの若い女性がやってきて咳ばらいを繰り返したため、二人はそっと離れる。
「スターチス、リナリアお嬢様の危ないところを助けていただき、ありがとうございます」
その女性はリナリアを自身の背に隠すように確保した後、彼に軽く頭を下げ赤髪が揺れた。
「いいえ、めっそうもありません、レベッカさま」
それに対してスターチスは姫君のぬくもりとよい香りにドギマギしている己を抑え、右手の手のひらを己の胸に当てて礼をする。
これは父から叩き込まれた目上の者や貴婦人に対する騎士の礼儀であった。
まだぎこちなさが残っているが、年齢を考えればどうにか及第というところだろうか。
「もう、二人ともかた苦しいわね」
不満そうに口をとがらせたのはリナリアである。
「リナリアお嬢様……」
レベッカは赤い瞳に一瞬困惑の光を浮かべたものの、すぐあきらめたような顔になった。
「そうでございますね。ここにはわたくしとスターチスしかおりませんし」
嘆息しながらちらりとスターチスにくぎを刺すような視線を送る。
お嬢様に対してはあきらめるが、あなたまでハメを外してはいけないと言外で告げていた。
そのことを察した彼はこくりとうなずく。
レベッカに言われるまでもないことである。
何しろリナリアはハンプトン伯爵の実の娘、つまり諸侯のお姫様なのだ。
貧乏な下級騎士の三男坊に過ぎないスターチスにしてみれば、雲の上に座す高貴なお方である。
本来であれば両手を地面について出迎え、許可なしに顔をあげることも声を発することもできない相手だ。
まだ幼さの残るリナリア自身は気にしないにしても、レベッカが黙っていないだろう。
幼いリナリアのおつきを任せられている時点で想像がつくように彼女自身もまた貴族令嬢であり、父は伯爵の信頼が厚い側近であった。
家臣団の末端のスターチスたちとは爵位の違いだけでは計り知れないほどの差がある。
「しょうちしております、レベッカさま」
さんざん父と兄に言われているため、スターチスも慎重に対応しようとした。
「もー、レベッカ。スターチスをにらまないの!」
ところがリナリアは目ざとく彼らの仕草に気づいていて、レベッカのことを叱りつける。
困ったのはレベッカだ。
相手がリナリアだと大概の無理難題はひたすら謝って許しを乞わなければならない。
「レベッカ様もお仕事ですから」
見かねたスターチスがリナリアをなだめようとしたが、今度は青い宝石のような瞳が彼を射抜く。
「もー、スターチス。どうしてレベッカの味方をするのよ?」
自分のおつきにいじめられそうになっていた友達を助けた、というのが彼女の感覚だ。
その友達が自分に感謝もせずにおつきの方を庇うのは面白くない上に意味不明である。
身分や立場があるゆえにそうなってしまう、という貴族社会の事情をリナリア姫はまだよく理解していなかった。
一方のレベッカはリナリアが本気で拗ねると非常に厄介だと知っている。
できれば知りたくはなかったが、仕事上骨身に染みていた。
やむをえずスターチスに小声でささやく。
「リナリアお嬢様が本気で怒ると手に負えません。スターチス、お嬢様のごきげんを最優先にして」
「は、はあ……」
突然そのようなことを言われたスターチスとしては困惑するしかなかった。
彼はへそを曲げたリナリアの恐ろしさや厄介さを知らないのだから仕方ない、と思い当たったレベッカは簡単に説明する。
「リナリアお嬢様のごきげんを損ねたままなおせないとなると、あなたとわたくしの首が飛びます。ギロチンで」
「あ、はい」
実に分かりやすい説明に納得したスターチスは、慌ててリナリアの意に沿いそうな言葉を考えて舌を動かす。
「えーとリナリア? 会えてうれしいよ」
ぎこちない少年の言葉を聞いた姫君はぷいっとそっぽを向く。
「ふーん。よそよそしすぎ」
ダメ出しをされてしまったスターチスは、レベッカの無言のはげましを受けつつ再挑戦する。
「君の髪は黄金にも勝るほど美しく、白い肌は処女雪のように素晴らしく、青い瞳は至高のサファイアで、着ている服も素晴らしいよ」
「人から教わった褒め言葉をがんばって思い出しているみたいね」
スターチスの必死の言葉にも手厳しい批評を与えたリナリアだったが、その白いほほはゆるんでいた。
「でもまあ、スターチスなりにがんばったんだから許してあげる」
これを聞いたレベッカと少年は仲良く安堵する。
リナリアはスターチスが座っていた石の上に平気な顔をして座った。
「お、お嬢様、お召し物が!」
これに慌てたのはレベッカである。
「別にかまわないわ。外で遊ぶ時のための安物なんだし」
お嬢様本人は平然としていた。
白で統一された彼女の服の袖は肩が隠れるくらい、スカートも膝のすぐ上で動きやすさと涼しさを重視した薄めの生地が使われている。
余計な装飾は一切ない簡素なものだが、安物だと言っても諸侯の姫君が着るものなのだから、スターチスには想像もできないような値段であろう。
彼女はスターチスに笑顔を向けながら自分のすぐ近くの石にそっと手を置く。
自分の隣に座るようにという指示だった。
これは過去に何度も出ているため、スターチスは特にためらいもせずに従う。
リナリアはすっかりごきげんになって色々と彼に話を聞かせてくれる。
彼女の話は家庭教師が嫌だとか、兄が優しくしてくれたとか、母に説教をされたとかいったものだ。
実のところ貧乏騎士のせがれには半分も理解できなかったが、リナリアは黙って聞いているだけで満足してくれる。
その少女主人の背後に無言で立ち、静かに見守っているのがレベッカの役目であった。
話が途切れるとスターチスがリナリアに問う。
「今年も夏が終わるまでいるの?」
「ええ。こっちのお屋敷の方がお城よりも涼しいもの」
彼女は当然だと言わんばかりに首を縦に振る。
リナリアがこの地にやってきて彼と顔を合わせるのは決まって夏であった。
避暑という言葉をスターチスは知らなかったが、とても暑いところを避けてきているらしいというのは何となく理解している。
(暑さ寒さで住む場所を変えるなんて、さすがお姫様だなあ)
と思ってはいても言葉にはしない。
彼といる時のリナリアは諸侯の姫扱いされるのを嫌がるからだ。
レベッカが彼女のことを「お嬢様」と呼んでいるのもおそらくはそのせいだろう。
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