可視光線では見えない
1
廊下の窓からのぞく街路樹の紅葉も寂しいものになっていた。学校の図書館の暖房はまだついていなくてたまに肌寒く感じる。
隣の席に彼女はいるけれど、図書館で私語は厳禁だ。自分たちの受験シーズンが真っ盛りだから、お互いが相手の勉強の邪魔になったりしないよう気をつけながら過ごす毎日が続く。
気温が下がってきたせいで、いつもの竹林は語り合いには不適切な場所となってしまった。放課後、図書館から学校を出てしまうまでの距離をゆっくり歩くことで、俺と柚希はその時間を引き延ばす。
「
俺と彼女との会話は大抵、俺が彼女を呼ぶところから始まって、
「温度って、分子運動の激しさの指標なんだよな? だとすると、空気の存在しない真空空間の宇宙には、気温とか温度という概念は存在しないってことにはならないか?」
……語り合いはいつも、俺の素朴な疑問から始まる。今日もそのパターンみたいだ。
「確かに、けほっ、温度にはそういう面もあるね。ただ……気体のエネルギーの一つの指標と言った方がいいのかな。結論から言ってしまうと、宇宙にだってちゃんと温度という概念はあるよ。宇宙は電磁波で満ちているんだけど、その電磁波が持つエネルギーは何Kという言い方をするの。絶対温度のケルビン。けほっ、習ったよね」
「へえ、そうなのか……」
そんないつものやり取りに、彼女はなんの物怖じも不快感も表さずに話をしてくれる。
俺の質問は続く。
「いつも不思議に思うんだけどさ、宇宙空間って媒質が存在しないように思えるんだ。どうして電磁波は空っぽの宇宙を渡り歩くことが出来るんだろう? ……咳、まだ良くならないんだな」
彼女は最近マスクをつけている。試験前に風邪にかかるのを恐れてつけている人も最近は多いけど、柚希の話し声の合間合間には乾いた咳が入る。……柚希は手遅れの方らしい。
「けほっ、話す分には大したことないんだけどね……ええと、宇宙に媒質は存在しない――一昔前には、『エーテル』という媒質の存在が提唱されていたのよ。波が水面を伝わるためには水が、音が伝わるためには空気なんかが媒質となって必要であることや、光が真空中でも伝わっているという事実から、真空中でも光を伝える媒質が存在しているって予想された。でも、いくら観測しようとしてもそんなものは見つからず、その後にはマイケルソンモーレーの実験によって『エーテル』の存在は否定されたの。
電磁波が空間を媒質を必要とせずに伝わるのは、時間変化する電場が磁場を生んで、時間変化する磁場が電場を生み出しているからなのね、けほっけほっ」
本当に大丈夫なのかよ……。
「電場によって磁場が生まれ、その生まれた磁場によってまた電場が生まれて……。電場と磁場が互いに作用し合って、刻一刻と電磁波が生まれてるってわけだ」
柚希の言葉を丁寧に反芻する。そうしているときの俺の様子を、柚希はとても幸せそうに見つめてくれるのだ。
「そう、その通り。ファラデーの電磁誘導の法則って授業で習ったでしょう? あれも、磁場の時間変化によって電場が生じているという簡単な例よ」
なるほど、言われてみれば確かに。
話を温度……否、エネルギーの方に戻す。
「電磁波がエネルギーを持ってるってのはイメージしやすいな。γ崩壊なんかは、エネルギーの大きな原子がより安定な状態を求めて崩壊して、そのときに電磁波を放出してるって聞いたから」
柚希がふと足を止めて、窓の景色を見た。木枯らしが街路樹に吹き付け、枯れ葉が二、三枚落ちていった。
「『宇宙背景
その単語を今突然聞いて、思ったことはただ一つ。
「なんだそれ、知らね」
つい、思ったまま口に出してしまった。柚希がさも楽しそうに笑った。外の景色に見とれたまま、彼女は話を続ける。
「私たちが浴びているいわゆる『エネルギー』の源は、そのほとんどが太陽エネルギーなんだけど、だからってエネルギーを放射しているのは何も、太陽だけじゃない。けほっ、『宇宙背景輻射』っていうのは言ってみればビッグバンの残りカスみたいなものね。ビッグバンで生じた高エネルギーの光が、今も遠い遠い宇宙空間の淵で存在しているの。まあ、ドップラー効果によってそれは2.7Kという超低温な状態になってしまってはいるんだけど」
聞き覚えのある単語に対しては俺も反応が示せる。
「ドップラー効果って、あれだろ? 救急車が近づいてくるときはサイレンの音が高くなって聞こえて、遠のいていくときは低く聞こえるっていう、アレ」
「そう、それがドップラー効果。その現象が波において一般的に成り立つとしたら、どうなるかな」
彼女はその先を俺に委ねた。俺は彼女よりもずっと鈍い頭で、しかし一つずつ確実に思考を重ねていく。
光が粒子と波の二つの性質を持ってることは授業で習ったな。今は光を波ととらえて考えればいいんだろう? ……よし。
「ビッグバンで生じた高エネルギーの光の波長は、ドップラー効果によってどんどんと長くなっていく。つまり、今でも膨張する宇宙に引っ張られているんだ。光の持つエネルギーが波長に反比例することも授業でやった。波長が伸びれば伸びるほどエネルギーはそのままに温度だけが下がっていくというわけだ。……合ってる?」
「正解、よくできました」
「ふぅ……高エネルギーっていう言葉と超低温っていう言葉がやっと繋がったよ」
彼女は景色を見つめ続けるのを諦めて歩き出す。その表情は少し、寂しそうだった。……もう十数歩歩いてしまえば、玄関なのだ。
「太陽だけじゃなく、惑星や隕石――要は、全ての物質からも赤外線は放射されている。これが、『黒体放射』という現象よ」
「こくたい?」
「黒いからだ、で『黒体』」
靴を履いて玄関を出た。長いブーツが柚希の細い足をすらりと覆っている。
「ねえ。黒体放射って知ってる?」
俺たちの話は途切れることを知らない。俺たちの前に続く道が分かれてしまうまで、そこでどちらからとも無く「じゃあ、また」と告げて別れるまで、終わらない。
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