2

 また違う日の帰り道、俺は見慣れない道を足早に歩いていた。

「唯一無二の友人として言うけどね、紺崎こうざき。笑顔という表情を知っているなら、使った方がいいよ」

 級友駒浦こまうらの軽口が、冷風とともに俺の顔を叩いた。安物のネックウォーマーはやはり生地が薄い。

「無礼にも程度ってもんがあるんじゃないか?」

 どこから突っ込めばいいのか分からないが、失礼な態度はいい加減改めてほしい。

「笑顔は使いこなせるだけで十分な武器になる。防具にもなる。お前はその点で損をしてると思うね」

「せいぜい参考にするよ」

 歩き慣れない道を、駒浦を先に立たせて進む。理由らしい理由はない。目的地までの道のりを、駒浦が知っていて俺が知らないというだけの話だ。あいつが知っていて俺が知らないことがある、それは俺らの間ではよくあることだった。それが不本意だと思わなくなった点、俺も大人になったと思う。そんなこと言ったら駒浦になんと言われるか分からないから言わないけれど。

 しかし今回ばかりは不満を隠せない。というか、これは俺のミスだったとも言えよう。

「そんなことよりもな、よりにもよってどうしてお前に道案内してもらわなきゃいけないんだ」

「道案内する俺の身にもなれよ。内緒にしたまま俺一人だけで行くことだってできたんだぞ、少しは感謝しろよ」

 文句を言うと、このセリフだ。もはやこれは脅迫だ。

「……この、情報屋め」

「光栄だね、ほらここだ」

 小ぢんまりとした、しかしながら構えはしっかりしている一軒家だ。

「本人にも聞かずにどうしてその家が分かるってんだ」

「それは……企業秘密」

 貴様がウインクしたって可愛らしくもなんともない。俺は恐怖心を表に出さないので精一杯だった。

「ほら、寒いから早くインターホン押しなさい」

 押しなさい、とか言いつつ自分でインターホンのボタンを押しやがった。待て、心の準備が。

『はい、どちら様でしょうか?』

 これはきっと、お母さんの声だ。なんと言えばいいものか……言葉に迷っている俺を駒浦が肘でどついた。唇が(俺が言ってやろうか?)と動いた。

 ――それだけは、絶対に、嫌だ。

 小さく深呼吸して、一息で言い切ってしまう。

「ゆず……いや、四ノ倉しのくらさんのクラスメートです。学校のプリントをお渡しに来ました」

『あら、寒い中わざわざありがとうございます。今、開けますから』

 プチッと音声が途切れた。『四ノ倉』という表札の隣のドアが開く。

 ……なるほど、確かに柚希の面影がある。この人が柚希のお母さんか。




 急に秋めいてきたと思ったら、いつのまにか俺らの町でも初雪が観測された。それはつまり急な気温変化を伴ったということでもあり、そのせいなのかどうかは分からないが柚希が本格的に体調を崩したらしい。

「よくここが分かりましたね」

 その声色から、本当に驚いたらしいことが窺える。

「あ、友人に教えてもらったんです」

 自分の言葉に駒浦が一緒だったことを思い出し、振り返ったその視線の先に駒浦はいなかった。……あの野郎。

「そうなの。お一人でまあ……寒かったでしょう、温かいお茶用意しますね。上がって」

 女子の家の敷居なんて跨いだことも無いのに、よりにもよって柚希の家(親もいる)だ。今更ながら、駒浦がいないのが心細い。

 柚希は水曜日から体調を崩し、今日金曜日まで学校を休んだ。

「ゆ……四ノ倉さんの体調はいかがですか」

「えぇ、やっと食べ物がお腹に入るようになったから、来週には学校に行けますよ」

 それは良かった。駒浦がいるから話し相手には事欠かないものの、柚希のいない学校生活はやはり味気ないものだと感じていた。

 他愛ない話――主に柚希の学校生活全般の話だったが――の途中、居間の奥から足音が聞こえた。扉が静かに開かれ、柚希が顔を出した。

「あ、望道たかみち……だけ?」

 おい、人がさんざん気をつけてたのにいきなりその呼び方かよ。

「おう。これ、今週分のプリント。っていうか、寝てろ……寝てた方がいいぞ」

 お母さんのいる手前で言葉遣いが悪いのはまずい。そう気をつけようとしているのに、やはり少し怪しいような気がする。

「ふーん」

 俺の忠告など気にすることもなく、パラパラとプリントに目を通していると思ったら、物理の課題に行き着いてその手が止まった。

「……望道、これ分かった?」

 プリントの最後の問題を指さして、柚希はそう聞いてきた。

「先生に聞い……」

 柚希がじっとこっちを見つめてくる。目が訴えていることが、読み取れた。

「……聞いたけど、よく分からなかった。柚希が来たら聞こうと思ってた」

 その言葉に柚希は満足そうに笑ったが、俺はというと、今のが不自然な棒読みになっていなかったかどうかが気になった。

「じゃ、今教えてあげる。……お母さん、すぐ済むから入って来ないでね」

 念を押す柚希を見て、困ったように笑いながらも柚希のお母さんは頷いた。

 む、入って来ないでね、ってことは。

「部屋、あんまりきれいじゃないけど。気にしないでね」

 これはまた、予想だにしなかった展開だ。




 柚希の部屋は、想像していた通りよく整頓されてこざっぱりとした部屋だった。しかし圧倒的に本、というか本棚の量が多い。

「本当は、『先生に聞いてきたからもう分かる』んでしょう?」

 部屋に一つしかない学習机の椅子に腰かけた柚希が、さっきの俺の言葉尻を拾ってそう言ってきた。

 受験勉強も最終段階と言わんばかりに、このところの学校の雰囲気はそれ一色だった。俺の質問で柚希の勉強を邪魔したくはなかったし、最近は質問に答えてくれる教師の言葉も理解出来るようになってきた。だから最近は、不明な点を柚希に聞く頻度も減ってきた。

「ん、まあな」

 さて、あんまり長居も出来ないだろう。病み上がりの柚希に無理をさせる訳にもいかない。そういえば、声にいつもの張りがないような気もする。

「久しぶりだから、少し話したくなっちゃって。……ごめんね、引き留めて」

 素直な彼女の言葉の、その純粋さだけで胸を焦がされる。

「いや、俺も嬉しい」

 その素直さには、俺も正直に応えたい。

 しかし俺の言葉に、柚希は苦笑いで返した。

「望道さ、もう少し嬉しそうに言ってくれてもいいのにね」

 残念そうな色を隠すことなく、そう呟かれてしまった。

「それ、行きがけに駒浦にも言われたよ」

「やっぱり駒浦くんいたんだ」

「『やっぱり』?」

 柚希はベッド側の壁に歩み寄る。……あぁなるほど、カーテンだ。

「玄関はここから見えるの」

 カーテンの裏側には、ベッドに陽射しをもたらす小さな窓があった。そこからベッドに乗り出して覗いた景色は確かにさっき俺が歩いてきた道に違いない。こちらが道路側ということか。そういえば居間に柚希が入ってきたとき、『望道だけ?』とか言っていたような気がする。

「せっかく望道の隣にいるんだから、私にしか見られない望道が見たい」

 こうして窓から二人して顔を覗かせた。つまり、今二人で柚希のベッドに乗っている。これは……これはまずい。

「嬉しそうに笑う望道の顔を、私はいつも見ていたい……そう思うことって、変なのかな」

 俺の背中側から、柚希がふわりと腕を回してきた。高校の制服とは違う、パジャマの薄い生地を通して彼女の軽くて柔らかな身体がそこにある。

「変なんかじゃ、ないだろ」

 まずい、まずい、と言葉だけが頭の中で反芻される。

「あんまり思いつめたり無理したりすんな。そんなことで月曜日に会えなくなったりしたら、俺が困る」

 冷たかったはずの指先はどうしてか熱いほどになっていて、右肩の辺りにある柚希の頬を触れるのにはなんの問題もなかった。

「今日はゆっくり寝てな。柚希が元気になれば俺、絶対嬉しいから」

 そう言ってやると、右肩の上で柚希の首がこくりと頷き、腕がするりとほどかれた。そのまま大人しくベッドに横たわった彼女の、桜色に染まった頬とうるうると弱々しく光る少女漫画のような瞳に危うく吸い込まれそうになる。刹那、夏の旅行の夜を思い出していた。

 俺は彼女の柔らかい前髪を撫でて、そのまま顔を近づける。

 彼女の唇まであと、一センチという距離だったかもしれない、その時に。

「待って……風邪うつったら大変だよ」

 その距離のまま、俺は思わず笑った。

「じゃあ、何のために部屋に連れて来たんだよ」

 仕方なく、彼女の白い額に口付けた。まだ、熱を持っているのが伝わる。

「だって、二人きりで話したかったんだもん……」

 いじけた掠れ声がまた、俺の中で収まっていた何かを刺激する。刺激されたその何かが、胸の奥から込み上げてきた。……しまった。

 どうにかそれをぐっとこらえて、俺は屈めていた上体を起こす。

「じゃあ、またな」

 手を挙げて挨拶の代わりにすると、柚希も小さく振り返してくれた。

 額との温度差を唇に残して、俺は彼女の部屋を後にする。

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