第89話
もう俺にとって、今この瞬間が夢でも現実でも良かった。
既に一度処刑されているし、先ほどは未体験の性交までしてしまっている。
次の瞬間には実は現代に居て「意識が回復しました!」と病院でチューブに繋がれていても驚かない自信がある。
これもまた非現実で、またこの夢さえ拒絶し、否定し、逃避して──目が覚めればベッドに居るかも知れないのだから。
「はは……」
少なくとも、この世界に来るまでは夢と現実がごっちゃになることはなかった。
夢は感覚と言うものが曖昧か皆無で、どうしたって破綻した展開や有り得ない出来事が起こる。
だが、今日の俺が見たどちらも感覚があったのだ。
死刑になる夢、ヘラに犯される夢。
じゃあ今の俺が、他国でミラノを見ているのは現実だと何故言える?
弱い心が生み出した幻だとか、そう思った方がまだ辻褄が合った。
寝ていたはずなのに疲労が凄く、壁にもたれかかった。
音を立てて床に座り込むと、彼女が俺に気がつく。
罵倒されるかな、褒めてくれるのかな、それすらも分からない。
頑張りたくない、けど居場所を作らなきゃいけない。
居場所が欲しい、けれども辛いのも苦しいのも嫌だ。
痛いのも疲れるのも嫌だ、けれども誰かを見捨てるなんて出来ない。
全てを手放せば楽になれるのに、けれども掴んだ蜘蛛の糸を手放しておっこちたくない。
幼稚で、自侭な事しか考えていない俺の願望。
俺は立派な父親と母親の下に、長男として産まれ。弟と妹を持ち、家庭教師や様々な物を買い与えられながら幼い頃からやってきた。クラスで一番でも、学年で一番でもそれが当たり前で、ただただ褒めて欲しくて毎日同じ事を繰り返してきた。だから弟が勉学に優れて、妹が対人関係で上手くいって俺が褒められなくなっても、まだ最後の矜持が──”長男”という役割が俺には残っていた。長男は弟と妹の──家族の壁に、盾にならなきゃいけない。弟を苦しんでいたら救え、妹が無いていたら笑顔にしろ、母親が辛そうなら手を貸せ、父親が悩んでいたら話を聞け。それで、それでそれでそれでそれでずっとやってきた。だからやらなきゃいけないんだ、頑張らなきゃいけないんだ。頑張れ頑張れ死ぬ気でやれ候補生、ゲロ吐け糞尿漏らして一人前だ曹候補生。俺がやらなきゃ誰もやらない、自分の欲しいものが転がり込んでくるものだと思うな。筒持て走れ、それが仕事だ馬鹿者が。
何もしなければ得られない、働かなければお金は得られない。
居場所が欲しければ作り上げろ、傷ついたりしたくなければ強くなれ。
疾走し撃つ位しか出来ないが、その銃口を向ける先くらい選ぶ自由がある。
血と屍を高く積み上げて壁と座にするか、名を轟かせて相対することがバカらしいと思わせるか。
何も出来なかった、何も成し遂げられなかった、何も得られなかった、何も身に付けられなかった俺が失いたくないと、一つもマイナスを許容出来無いと言うのならこれくらい考えないといけない。
一人を助けたいのなら十人を助けるつもりでやれ、十人を助けたいのなら百人を。
それくらいやらないと──頑張らないと、やらないと……俺は、無能だから。
「アンタ──」
床に座り込んで、どれくらい経っただろうか。
見上げると少しばかり辛そうな彼女が居て、久しぶりに……その声を聞いた気がする。
そう言えば──前も同じだった気がする。
公爵家で公爵夫人が母親に似ているのに堪えられずに部屋に篭った時も膝を抱えて座り込んでいた。
そして今もまた、膝を抱えている俺に彼女は声をかけてくれている。
しかし、これは夢なんだ、これも夢なのだ。
ただ違いがあるとすれば──処刑される悲惨な未来でも、ヘラに搾取される受け入れられない劣情の夢でもない。
なら──もう暫く見ていても良いかも知れない。
「ミラノ、久しぶり……」
そう言うと、彼女は戸惑った表情をする。
しかし彼女は溜息を吐いて俺の額に指を当てると、少しばかり上を向かせた。
彼女の生真面目な表情が、澄んだ目が──俺を見据える。
「両目が赤くなってる……」
「はは、なら──これは夢なんだ……。前に俺が死んだ時も両目が赤かったし──いや、あれも夢だったけどさ」
「夢──」
俺がそう言うと、彼女は暫く何か考えているようだった。
しかし、直ぐに何かに納得したようで、頷いてみせる。
「かも、知れない。廊下に誰も居ないし、人の気配もないし、アンタは両目が赤くなってる」
「城って警備が厳重な筈なんだよ。けどそれが見えないって事は、現実じゃないんだ」
「そうね」
彼女はそう言うと、ゆっくりと俺の傍らに腰を下ろした。
服装も懐かしく、学園の制服だ。
学園を離れてそこそこ時間が経過しているし、ミラノ達と別れてから一週間過ぎている。
興味の無い事に関して忘れやすい俺でも、単純なその組み合わせは忘れたりしない。
彼女が歩くたびに風を切るような歩き方と靡くマント、それが彼女らしさだった。
多分……ミラノが主人じゃなかったのなら、それなりの生き方でしかなかったかも知れない。
アリアが主人だったらとか、そういった事を考えてしまうが──IFはIFでしかなかった。
「それで、どんな夢を見たの?」
「今は、神聖フランツ帝国にミラノが居るだろ。更に前だと俺がもしこの国で頑張る事を選んでいたらどうなったかと言う未来の映像のような物が見えたし、さっきはヘラと──」
「ヘラと……?」
「まあ、男女の交わり的な夢をぶへぁあッ!?」
即座に横からぶん殴られ、そのままゴリゴリと背後の壁で頭を削る痛みを感じた。
俺は頬と頭を抑えるが、殴った当人は涼しい顔をして周囲を見回している。
「今のアンタの変な声でも、誰も来ないみたい」
「来ないみたい、じゃないですよね!? いや、殴られるような事言いましたけど!」
この夢も痛みを感じるし、なんならミラノの個人的な香りだってする。
俺の現実って、どこと問いたくなる。
ミラノはそんな突込みをした俺に再び打擲を重ねてくる、なんと言う暴力の嵐。
「とりあえずこれで許してあげる。アンタも変な夢を見るのを止めなさい、それで私やデルブルグ家の騎士としてやっていけるの?」
「わぁお、夢の中でまで怒られてる……。俺って実はマゾヒストなのか──?」
「”まぞ”……なに?」
「被虐趣味、虐められたり自分が惨めである事に喜びを見出す人の事」
「え、やだ……アンタ、殴られたり言葉攻めされたり惨めで悲惨な境遇に喜びを見出すの?」
ズゾゾと、座ったままにミラノが引いた。
それを俺は待て待て待てと声をかけた。
しっかし、本当に誰も来ないな……。夢だからか、都合がいい事だ──。
夢の中で変な疑惑をかけられて、違うんです誤解ですと言い繕う羽目になるのは勘弁して欲しい。
「で、私を夢に見るくらい弱ってる?」
「弱ってるというか、帰りたいんだろうな……。変な夢も見るし、自分で選ぶんじゃなくて強いられるような事ばかりが起きてる。自分が今までやってきた事を、地道に積み重ねることの方が……一番楽なんだよなぁ」
「今までやってきた事って言うのは、学園でもやってたような訓練?」
「走って、身体を鍛えて、格闘をして、銃を撃って……。外交なんて、父親のやってた事で俺の仕事じゃない。それでも俺にしか出来ないならやるしかない──」
「やるしかない、か……」
「こんなの、他にやれる奴が居れば直ぐにでも代わるさ。けど誰も居ない。俺しかやれないから仕方がなくやってるけど、本当はやりたくない。誰かを守ったり、守るために敵と戦ったりする本分とはかけ離れすぎてる。まあ、弱音を吐いたってやるか死ぬかしかないのなら、やるしかないんだけどさ」
「なにそれ。今回の件、父さまがやらなきゃ罰を与えるって言ったの?」
「言ってないけど、俺が断れば迷惑がかかるのは国と家だろ? 何の後ろ盾も地位も無い俺が断るとか、まず有り得ない話だよな──っと」
俺は立ち上がり、尻を叩いた。
やれやれと溜息を吐いてから再び周囲を見るが、人の気配どころか物音一つしない。
傍にアイアスとロビンの部屋があるのを思い出して覗いて見るがベッドはもぬけの殻だった。
やはり夢に違いないと一人納得していると、ミラノが手を差し伸べるようにしていた。
「ほら、立たせて」
「ん」
ご主人様は夢の中でもご主人様だった。
まあ、それが良いのだけれどもと、彼女の手を引っ張って立ち上がらせる。
力加減を間違えるとそのまま窓を突き破って中庭に落下しかねないが、そこらへんは何とかなった。
「どうせなら中庭で話をした方が楽しいでしょ。ほら、先導して」
「はいはい、注文の多いご主人様だな……」
そうぼやきながらも、俺は少しばかり歩調を遅めにしながら歩く。
無意識で普通に歩いてしまうと、どうしても背丈や足の長さなどの問題からミラノを置いていってしまう。
それにこういった時は多少の危険性を避けるためにも、窓側は俺が歩いて陰を作らねばならない。
夢だとしても、出来るのなら目覚めは良いものにしたいから、その為にも出来ることをする。
「そう言えば、アンタにとってご主人様と仲間ってどう違うのかしら」
「ん?」
「私もやろうと思えば戦えるし、未熟だとしても成長は出来るし。けど、アンタは私やアリア……アルバートやグリムを守る時にだって誰にも頼らなかった。本当なら、学園で魔法の凄さを凄い知ってる筈なのに──」
「ん~、まあ、そうだなあ……」
少しばかり思考を整理して、それが上手く日本語……じゃない、言語として成り立っているかを考える。
言葉のサラダ、単語のみの羅列をした所で意味は無い。
ここらへん上手く伝えられるか、勘違いや誤解の余地を残さないようにしないといけない。
「仲間って言うのは、文字通り命を預けあったりする存在だから。お互いに生死の境を行き来して乗り越えるから、変な遠慮や壁は不要だけれど……ミラノとかの主人だとか、アルバートだとかは……仲間、と言うよりは、知り合い……かな」
「友、じゃ無くて?」
「友達って、どれくらいの事を言うのかよくわかんなくてさ。幼い頃から国を転々としてきて、数年で国を移動してきたから」
父親の仕事の都合上、一つの国に滞在する期間はそう長くは無かった。
三年……長くて五年居られる位で、その度に交友関係を断絶させてきた。
幼稚園の頃の関係は途切れ、小学生の頃の関係も途切れ、中学生の頃の関係も途切れ、ようやく日本に来て初めて途切れない人間関係を体験した。
だが、それじゃ遅すぎたんだと思う。
だから友達と言うのが、どれくらいの距離感なのか分からない。
知り合いとは色あせて消えてしまう存在で、仲間や親友と言うのは色褪せはしても決して消えない存在だと思っている。
それは自衛隊と言う軍事的な組織で言う『家族』という言葉に近いものだ。
家族、それが──俺の一番大事なものだから。
親や兄妹の為に頑張らない理由は無い、傷つき倒れたとしても出来る事をして決して見捨てない。
同じように……そう思ってくれているかは分からないけれども、大事にして居れば大事にしてもらえると思って、いるから──。
「友達って言うのは対等な関係で、仲間よりは一つ下かも知れないけど日常において大事な存在かなあ。仲間は非日常においても頼れる相手で、知り合いは──日常に居る方が好ましいけれども、それが……その人である理由が無い、的な」
「それさ、遠まわしに私を全否定してるって分かってる? 分かってる上でご主人様全否定してる?」
「だから、友達ってどういうものか分からないけど、命を預けるというよりは守らなきゃいけない相手なんだよ」
「守るって、そんなに私は頼りないかしら」
「だって、血がダメじゃないか」
ミラノは血が苦手で、クラインと言う自分の兄が目の前で刺された時の事がトラウマになっている。
そうでなくとも刃物を向けられる事を嫌っており、とてもじゃないが頼れる相手とはいえなかった。
「俺が傷つこうが倒れようが、最優先されるべきは脅威が排除されて安全が確保される事。頼るという事は、俺が気を回す事柄を減らす事。だのに、誰かが傷ついて血を見たり、敵が肉薄してきて刃を向けられたら戦力にならなくなるって考えたら……肩を並べたり頼る相手と言うよりは、最初から戦力として見るよりは守るべき相手として認識したほうが気休めになる」
「ねえ、殴っていい? 罵倒していい? 思いっきり蹴っても許されるわよね?」
「やめろ! 夢の癖にどこでも痛みだとか匂いだとか、そういったの全部生きてて辛いのは辛いんだぞ!?」
「それもまた不思議な夢よねぇ……」
中庭に入ると、そこだけ綺麗に空が見える。
周囲が建物で囲まれているから風は無いが、肌寒さだけは立派だった。
ただ、変な昂ぶりは思考と一緒に冷え込み、身体を温めるように両手の間に魔法で炎を出した。
「夢なのに寒いのなら、もういつの日か正気を失う日も遠くないかもな……」
「やめてよね。アンタは私に仕えてるんだから、その命も私のものなの。勝手に死ぬ事も──消えることも、許さないから」
ミラノは真面目に、俺に『命令』を下す時の顔をしていた。
俺にテーブルマナーだの字を覚えろといった時も、だいたいこんな顔をしてたっけな。
けれども俺は、それを素直に受けられなかった。
夢じゃなければ強がって「了解」と言えたが、残念ながら現実じゃないのだ。
「──どうかな。俺が結局ミラノの事を夢で見てるくらいに、弱いからなあ」
「弱い? アンタが?」
「仲間と一緒なら命は救えても心は救えない、ミラノ達と一緒だと自分の命は危なくなるけど心は救われてる……」
「仲間じゃ、ダメなの?」
「……そこも我ながら面倒臭いと思うけど、命は預けあったけど同じ立場じゃ無いという点ではマリー達もミラノとかと変わらないからなあ……」
俺がそう言うと、ミラノは静かに俺を見つめていた。
この瞬間に口が裂けて触手が飛び出て俺の首を絞め、背中から鋭い爪が生え出て俺を切り裂こうとしてきてもうろたえない。
緊張感が静かに根を張り出し、身構えるが──
「そ」
という、一文字で懸念はとりあえず払拭された。
それから彼女は寒そうに両腕をさする。
……マントの下はただの長袖のシャツだしなあ、そりゃ寒いよな。
「ほら、これ」
「なにこれ?」
「俺のいた国での、不思議で便利な道具だよ。こうやって生身に近い服の箇所に張っておくと温まるんだ」
ストレージからカイロを出し、それをミラノに渡す。
当然どこに貼って良いかは分からないし、それじゃあ失礼してといきなり触れれば殴られる。
殴られるのはゴメンである、幾ら善意であっても。
「で、それを貼って──あとは厚着だ。とは言ってもミラノは持ってないだろうし、俺のを渡すか」
どうせ夢だから、ストレージから何も消費されないさ。
そう考えながらジャケットを取り出した。
ミリタリー系統ではなく、中に羽毛が入っているコートでミラノが着ると膝下まで行ってしまうでかさだが……。
俺は実践するようにカイロをもう一つ出して「こうやるんだ」と示す。
そしてテープ箇所の保護をはがして服にベタシと叩きつけると、カイロは服に張り付いた。
「ほんっと、不思議な国ね」
「まあ、それに関しては否定しないよ」
「これって肌に直接張ったらだめなの?」
「肌に直接張ると火傷とか、低温火傷とかするし。それに──」
「それに?」
「まあ、なんだ。最悪お漏らしするから」
「なにそれ」
「いや、本当だって。俺が十三の時──」
ようやく……非日常ではなく、日常を体験できた気がする。
俺はどうせこのミラノも俺の弱い心が生み出した幻だと思って思いっきり話をする。
ミラノも、俺の思い描いたミラノの像からぶれる事無く反応してくれる。
この一時だけ、俺は背負っていた荷物の事を忘れる事ができた。
英雄でも何でもなく、外交や顔見せと言う役割も無しに。
俺は思う存分色々喋った、ミラノが疑問を抱けばそれも説明した。
そうやって会話をしていると、あっという間に時間が過ぎ去り既に二時間経過している。
MPをいい具合に消費し、ミラノはコートを羽織ってぬくぬくしている。
ただ、当初のお互いの真面目でおふざけも存在しなかった空間が、いつしかいい具合に解れて馬鹿な話や笑い話が出来ていた。
「っと、悪い。自分ばかり話して。どうも……やっぱり、自分の事しか考えてないんだろうな」
「ううん、私は楽しかった。アンタは私に質問する余地を残してくれてたし、答えてくれてた。一方的じゃなかった」
「そう言ってくれると有り難いけどね……」
そう言って俺は、暖をとるために出していた炎を消した。
これ以上起きていると明日に響きそうだ。
明日は手合わせをして欲しいと頼まれたりしているし、また誘われてそこらへんの偉い人とお茶だの食事だのをしなきゃいけない。
面倒臭いと思いながら「そろそろ寝ないと」と切り出すと、ミラノが背を向けようとした俺の手を掴む。
……その手は、暖かい。
「ねえ、夢から覚める前に聞きたいんだけど、いい?」
「どうぞ?」
「アンタって、あの……マリーのこと、好きなの?」
一瞬、何を言ってるのか分からなかった。
しかし俺は苦笑して、ミラノのおでこにデコピンをする。
渇いた音が響いて、ミラノが額を押さえた。
「いたっ」
「まったく、夢だからって相手にこんな事を言わせるなんて。俺はどこまでもクソ野郎だな……。いや、こういう時はミラノが俺を好いていてくれたら良いなって願望が混じって、その上での質問だと考えれば良い具合に俺好みのシチュエーションでもあるかな?」
「”しちゅ”……な~に~?」
「いやいや、こっちの話。そうだなあ。大事だと思う、失いたくないという意味なら──間違いなく”好き”ではある。けど、そんなものはミラノやカティアに対しても同じで……。だから、友達って言うのが分からないのと同じで、俺は”好き”って言うものがどういうもので、同じくらいに”好かれる”って言うのがどういうものか分かってないから──質問自体が、間違ってるんだよな」
俺がそう言うと、俺の手を掴んでいたミラノの手から力がゆっくりと抜けていく。
そして最後には彼女の方から、俺の手を離した。
色々間違えたかなと思ったけれども、ミラノはご主人様らしく──気丈な様子を崩さなかった。
「……それじゃ、アンタとはここでお別れね」
「ま、そうだな。夢から覚めればミラノはどこにも居ない。そして俺はまた強いふりをして、弱さを隠して一日を頑張る。それを毎日繰り返して帰るまでは……兵士のままだ」
「なら、またアンタが夢を見れば良いじゃない。現実では言えない事も夢なら言える、それを聞いている私が虚構の存在で目を覚ませば居なくなるとしても──アンタの心は救われてる、でしょ?」
「賢いご主人様は好きだよ」
俺がそう言うと、顔面に水球が飛んで来た。
それをモロに受けると、ミラノが「ばーか」と言った。
「ほら、格好付けてないで現実に帰りなさい。明日も忙しいんでしょ? なら……夢に感けてる場合じゃないでしょ」
「ん、そうだな」
「なんならお休みのキスでもしてあげるけど? 頑張ってる使い魔──もとい、仕える騎士へのささやかなご褒美くらい、してあげても良いし」
「キスは……いいや、けど──これで我慢させてくれればいいかな」
「これって──」
俺はミラノの言葉を待たず、恐る恐る彼女に近寄った。
そしてゆっくりと両手を彼女に伸ばし、その存在を思い切り抱き締める。
……夢だと分かっている、どうせ目を覚ませば居ないと理解している。
この場に居る彼女は俺にとって都合の良い存在で、俺の考えるミラノと言う人物像から外れずとも俺の願望を叶えてくれる。
「ちょ、ま──ッ!?」
「──……、」
「こっ、これはこれで恥ずかしいんだけど。と言うか、抱きつくなんて有り得ないし! 有り得ない、んだからね……?」
「……──」
ミラノは物凄いうろたえ、そして抵抗するようにもがいていた。
しかし、俺が抱き締めたままにそれ以上何もしないで居ると彼女は徐々に落ち着いてゆく。
そして……最後には、ミラノも俺を抱き締めてくれた。
「そう、夢だもんね。私は、どうせアンタの頭の中の、悲しい妄想。アンタがどれだけ弱音を吐いても、どれだけ傷ついても──夢から覚めれば、ただの独り言だから」
「うん」
「けどね、独り言も言えないぐらい……弱音を吐いたり、弱い所を見せられない事の方がずっとずっと辛いもんね。それを受け入れてもらえないのも、否定されるのも──」
「うん……」
仲間とは、命を預ける存在だ。
けれども……彼女たちは、背中を預け命を助けてはくれても、俺の心だけは救えない。
マリー達は俺が居ても居なくても変わらない、強かで絶対な存在だ。
だからこそ、俺は依存しているのだ。
俺の方が理解していて、俺の方が凄くて、俺の方が強いから──無くてはならない存在で居られる相手が。
ミラノを守らなきゃ、アリアを守らなきゃ、アルバートに稽古をつけなきゃ、グリムに認められなきゃ。
それらは、俺が依存するための言い訳でしかなかった。
俺が居なくなれば困るだろう相手を見つけて、その人たちに擦り寄る事で俺の居場所を寄生するようにして作っている。
分かってる、甘えだと分かってる。
けれども、一つだけ言わせて欲しい。
友達がどういう存在か知らなくて、家族も仲間も知り合いも居ないこの世界で俺は一人なんだ──。
カティアを家族だと言い張って、彼女を庇護すると上からの立場で物を言っているようで、その実「守らなきゃ」と言う行為に依存しているのは、俺なのだ。
その俺が、カティアと言う最大の依存相手すら失って宙ぶらりんでいる。
五年間家に引き篭もり続けて、久しぶりに他人の温もりを知ってしまった。
だから、人間強度が──著しく、下がってしまった。
心が餓えている、飢餓を訴えている。
満たされたい、満足したい、安心したいと叫んでいる。
だから俺はミラノが居ると安心するのだ、気丈でやる事なす事を凛々しく言い渡す彼女が。
どうしたら良いか迷い続ける俺に、これをしなさいと道標になってくれる彼女が羨ましくて。
鼻腔にも身体にも彼女と言う存在を俺に取り込むように抱き締めた。
そして震える息を吸って、ゆっくりと吐き出すと俺は彼女から離れる。
「──それじゃあ、またねといえばいいのか……二度と会いたくないというべきなのか」
「またね、でも良いし。ばいばい、でもいいんじゃない?」
「そっか。なら、また会う日まで──じゃあな」
「うん、じゃあね」
俺は彼女を中庭に残し、ゆっくりと部屋に戻る。
一歩ずつ部屋に向けて歩を進めるたびに心が軋む音が聞こえる。
泣きそうで、あの甘い空間と依存できる相手の居る場所に戻りたいと喚き散らす弱い自分が居る。
しかし、軋む心の上に泥を塗りたくり、焼けた薬莢と銃の熱で泥を乾燥させ固めていく。
ベッドに入り、深く息を吸って吐く頃には──心は静かになっていた。
何も痛まない、何も感じない、感情は波打たない。
多分、目覚めは最悪だろう。
そしてそれは、どんな甘美で耽美な夢を見ても否定し、卑下して台無しにしてしまう俺の弱さだった。
――☆──
翌日、ヤクモは挨拶回りの如く忙しく様々な所を行き来していた。
午前中は立食会で知り合った人々と手合わせをしたり、訓練内容を教えて欲しいと頼まれている。
昼は若い連中と一緒に食事を共にし、午後には教会に顔を出して魔法に関して色々話をする。
そういった詰め込まれた日程に対して、英雄達はやる事が無いと言わんばかりに暇ばかり持て余していた。
ヤクモが窓の外で先ほど宗教騎士の一人に絡まれ、喧嘩を吹っ掛けられていた。
その人物はマリーによって手痛く口撃をされ、蔑ろにされた人物であった。
決して悪い人柄ではないのだが、彼にとって英雄とは素晴らしい存在であり、手柄を立てたにしてもただの人であるヤクモがマリー達と親しくしているのが納得いかなかったのだ。
どのような訓練をしているのかと若い人に言われ、走ったり腕立て伏せをしたりなどと実際にやって見せながら説明していたが、子供だましのような訓練だと──つい言ってしまったのが発端だった。
その結果、手合わせが行われ──刃引きされている武器を使ったとは言え宗教騎士は惨敗した。
宗教騎士からして見れば、戦い方が綺麗じゃ無いとか色々思う所があったが、それを口にした所で自分の品位が疑われるのを知っていて黙る他無い。
その様子を眺めていたマリーが、室内でずっと質問を重ねる枢機卿と国王に辟易しながら目線を戻す。
「なので、私達は危惧を抱いているのです。彼の方が、実際に信ずるに値するのかと」
マリーは既にこの話に価値を見出して居らず、それについてはその場に居る他の全ての英霊達も同じ意見だった。
表ではいい顔をし、その裏で彼らは分断を狙うかのように言葉も顔も使い分けた。
その魂胆も既に見え透いたものであり、全てはここに集約している。
「既に幾らかの声が上がっています。貴方がたと彼を同列視するような、親しげにしているのは──」
「はいはい、冒涜だとか、おかしいとかそう言うのはもう聞き飽きた」
庭で”楽しそうにしている”ヤクモと比べて、進展する事の無い退屈な話にうんざりしたマリーはサックリと話を終わらせようとする。
既に数時間が経過しており、紆余曲折しながら話の本題や核心に触れそうで触れないままにここまできているのだ。
ファムは本質が獣であり、考える事よりも戦う事に全てを置いているので眠さと退屈を隠せずに居る。
アイアスも椅子を傾けて考え込むように腕を組んではいるが、片目を細めもう片目を閉ざして半寝をしていた。
ロビンは相変わらず無表情で、聞いているのか聞いていないのか分からないままにケーキをぱくついている。
ヘラも苦笑を浮かべてはいたが、既にそこには疲れが浮かんでいた。
タケルこそ一番真面目に応対しているが、だからこそ疲弊が滲んでいる。
話は単純な事で、ヤクモが英霊であるマリーやアイアスたちと親しげなのが宜しくないと。
下心があったのでは無いか、そもそも襲撃されたというがそれが自らの手駒であり、演じただけじゃないのかと──。
本人が聞いていたのなら溜息をついて「やっぱり、そっか」と許容と傷つきから来る言葉を発していただろう。
その場に父親似の枢機卿が居るからこそ、隠し切れないダメージを負っていた事だろう。
「じゃあさ、国王サマ? 歴史に名を連ねる事が出来ずに消された一人の英雄……、彼が裏切ったとして──それを知ってそのまま立ちはだかれる人は居るかしら?」
「ふむ、そのような勇士ならいくらでも──」
「ええ、『知っていたら』の話よね? それ。何の準備もなく、ただ巻き込まれただけで相手が誰であり、襲われているのが誰とも分からない状況で──同じ事が出来た人は?」
「──……、」
「別にいいけど? 私が英雄だと知って死んでも守らなきゃと思った奴でも、相手が英雄だと知らずに正義心から立ちはだかったとかでも。けど、アイツはね。そのどちらも無かったし、そのどちらを知っても変わらなかったの。それで本人は血を流しすぎて暫く寝床から出ることも儘ならない重傷だったんだけど、それが演技? 姉さんが来てくれなければ確実に死んでたのに?」
「来ると、知っていたら?」
「姉さん。私は姉さんがお忍びでヴィスコンティに来たって聞いたんだけど、聞き間違いだった? それともこの国は英霊の動向を他国に居ながら筒抜けにするほど情報に関して間の抜けた意識を持ってるの?」
マリーはうんざりしていたし、それ以上に全くの縁もゆかりも無い理由によって貶められ、貶され、本人が望んでいない栄誉に勝手に泥を塗りたくって穢す行為に苛立っていた。
そして……本人は少なくとも否定するだろうが、好意的であるからこその感情でもあった。
同じ苦しみを共にし、同じ敵を相手にし、同じようにボロボロになった。
同じように海に投げ出され、同じように全く見知らぬ土地に漂着し、同じように旅路を共にした。
同じ飯を食べ、同じ出来事に遭遇し、同じように人を助けた。
仲間意識がマリーからは少なからず存在していたのだ。
「失礼ながら王様、俺も同意見です。この中で見知って間も無く、道中名を騙って同行してました。けれども彼は此方の素性を知らずにただ同じ船の同乗者であり、漂着した相手と道を共にしてくれました。その上、少なくとも二度は民の為に行動しています」
「その結果、数日の来訪の遅れが出た事は?」
「俺はそれを申し訳ないとは思いますが、罪だとは決して思いませんし、それに関してはこの場に居る皆が同意見だと思います。蔑ろにしたわけでは無いですが、だからと言って目の前の出来事を放り投げるのは良い事だとは思いません。少なくとも十数名程度の命をこの旅路で救ってきました、人柄も信ずるに足ると思いますが、如何か」
タケルの言葉に、枢機卿も国王も言葉を無くす。
そもそもな話、国王も枢機卿も難癖に近いと理解している。
理解してはいるが、その声が小さくないのが問題なのだった。
マリーが窓の外で見た光景が、その分かりやすい例であった。
「ひつよ~なら、みんなのまえで、いう」
「あのね、ロビン。たとえ私達が懇切丁寧に、それこそ一人一人の前で説いた所で表向き『分かりました』と言いながら、裏では『何かがあるに違いない』って勝手に疑うものよ」
「なら、ど~する?」
「どうするもなにも、そんなの私達の知った事じゃないわ。勝手に呼び出して、勝手に人様の関係で嫉妬拗らせて、勝手に国内問題みたいにされてもね」
「英霊の皆様、どうかそれくらいに。私も、頭を痛めてはいます。ですが……どうしてこうなったのか──」
そう言って枢機卿は眼鏡を外し、汗を拭い眼鏡を拭いた。
知恵熱とでも言える様な物によって一人だけ発汗し続け、眼鏡を曇らせているのだ。
国王も枢機卿が堪えかねたといわんばかりに行った行動に対し、深い溜息を吐いた。
「……英霊の方々に迷惑をかけて申し訳ない。だが、昔はこうではなかったのだ」
「へえ、じゃあ私達が呼び出された事をそもそもの原因にする? 私達が召喚されなければ平穏なままだって──」
マリーはイライラの捌け口を口撃に費やそうとした。
相手を挫けばこの退屈な場面が終わり、少なくとも解放されると思ったからだ。
そうすれば部屋でまた研究が出来るし、それでもイライラが収まらないのであれば庭で道化になりつつある人物の所まで行っても良いと考えていた。
しかし、それを許さない人物が居た。
アイアスが寝ていたかと思うと、大きく息を吐き出すと傾けていた椅子を元に戻した。
「やめときな、マリー。こいつらはただの代表だ、下にとって都合が悪くなれば挿げ替えられて、結局なんにもかわんねぇ」
「わ、アイアスくんが場を納めると思わなかったな」
「茶化すな、ヘラ。面倒な事になるだろうってのは、再三呼び出されてた時点で予想できてたっつーか? 下が暴走すると上は大変だな?」
アイアスがそう言うと国王は頷くようにして少しばかり項垂れた──ように見えた。
そしてその言葉は事実であり、別に家柄だとか何かによって国王の座に居る訳ではなかった。
ただ英霊を信仰する国是を大切にし、それを長年続けている内に国内での身分が高くなり、その結果何と無く推薦されただけとも言える。
国民たちにとって自分たちに都合が良ければ神の思し召しだというが、都合が悪ければ神の意に反していると弾劾する。
そうやって国王になっても短命だった人物も居るし、逆に何もしなかったというだけで寿命が尽きるまで在席した者も居るくらいであった。
枢機卿も、何かしら下を納得させ溜飲を下げるような材料が無いかと突いては見たが、そのどれもが苦しいものだと理解していた。
そもそもの話、マリーの言うとおり「勝手な押し付け」でしかないのだ。
英霊とはこうであると勝手に決めつけ、その存在を勝手に尊いものにし、そこに異物や異質な存在が混ざる事を許さない──という事を、相手に押し付けているのだ。
誰と親しくなろうが、誰と懇意になろうが勝手だろうと思ってはいるのだが──それを聞いてくれる程聡くなかったのだ。
信仰が依存を生み、依存が目を曇らせた。
それによって、国王と枢機卿が頭を悩ませているのだ。
「ま、マリーの言葉は無視して、だ……。いつからそうなった?」
「と言うと?」
「まさか俺達が呼び出される前から”狂信”だった訳じゃ無ぇだろ?」
「あぁ、はぁ。まあ──ヘラ殿が召喚されてから、大分経ってからでしょうか。誰が悪いとか、英霊殿が悪いと言う訳じゃないですが、むしろ良かった事の方が多いのです。ヘラ殿が召喚されてから、医療や衛生に関して多くの事を学ばせていただきましたし、魔物による被害もかなり抑える事が出来ました。魔石だとか、魔力を回復させてくれる果実だとかも見つけていただき、そのおかげでかつて無いほどに安定はしたのです。が──」
「ははぁ、ヘラが何でもかんでも良かれと思ってやった事が神の御業や奇跡にでもされたか? それで、依存して、目が曇って……と考えれば、筋は通るな」
「あ、あれ。これって私が悪いとか──そう言う話になっちゃうのかな?」
「いんや? ヘラは悪くないだろ。ただ、この国のあり方とヘラのやった事が悪い方に噛み合って、その結果こうなっただけだろ。そりゃ、ヘラが居てこれだけ安定したのなら、もう一人、さらに一人、出来れば全員ってなるわな」
アイアスがそうやってこの捻じ曲がった状況を分析するが、まるで興味を抱かないマリーはただ面倒臭がっただけだった。
「は、なにそれ。私達は民草と言う乳飲み子の面倒を見る母親になる為に来たんじゃないんだけど?」
「マリー。おまっ……。気持ちは分から無い訳じゃねぇけど、少しは包め」
「だって、実際そうじゃない。いつ危うい状況が訪れるか分からないのに、前線からタケルとファムを引き抜くし、自国で兵の調練に参加してるアイアスとロビンを引っこ抜く、私は研究に勤しみたいのに拘束されて自由も無い。なのに、その上内輪揉めに首を突っ込めってこれ以上とないくらい馬鹿馬鹿しい話よ」
「その馬鹿馬鹿しい事を纏めてた奴にお前は殺されかけたんだろうが」
アイアスのその言葉に、マリーは黙り込んだ。
名も無き裏切り者は、その言葉の通り汚れ役を担っていた。
纏まりを欠かぬように、裏切りや不必要な勢力争い、或いは馬鹿げた論争等を文字通り斬り捨ててきた。
その結果、英霊である彼女たちは表舞台で綺麗なままに兵を束ね戦い続ける事が出来たと言える。
「申し訳ありませんが、どうか……滞在中、彼との接触は幾らか控えては頂けないでしょうか?」
「へえ、今度は要求までするんだ? ねえ、その面倒な連中全員を連れてきてくれない。何人か見せしめにすれば……大人しくなると思うし」
「マリー?」
マリーが影を含んだ笑みを浮かべ、指を鳴らして指先に火球を作り出す。
国王と枢機卿はそれに戸惑いを見せたが、ヘラの一声がその火球を消し去った。
「私は嫌だな。妹が、そういう事を平気でするのは」
「姉さん。優しさと甘やかしは別だって分からない?」
「分からない」
「──優しさって言うのは時に厳しさを含むものなの。与えるだけ、許すだけの姉さんのやり方は優しさじゃない」
「マリーは気を許したり認めた相手以外にはそもそも優しくしないでしょ。やらない善よりやる偽善って言うよね」
「花は愛でて水を与えるにしても、触れすぎればボロボロになるし、水を与えすぎれば溺れて死ぬって分かってる?」
ヘラとマリーの思想がぶつかった。
突如として姉妹の関係が悪化したのを見て主催者である国王たちはどうして良いか分からずにいる。
ロビンやアイアスは事の成り行きを緊張感を張り詰めさせて見守り、タケルはどちらの言い分にも理解がある分何も言えなくなっていた。
「と、とりあえず今ここでする話題じゃないからさ。すみません、国王に枢機卿。とりあえず接触の頻度や時間はある程度考慮します。けれども、俺達にも誰と付き合い、誰と親しくなるかは自由にする個人の自由と言うものが有るのを考慮頂きたいです」
このままではまずいと、タケルは場を切り上げる事にした。
それには反対するものは出ず、すぐさま解散と言う事になる。
それぞれが散っていく中、マリーは苛立ちを隠せぬままに先ほどの話を鼻で笑う。
「べっつに、私は自由にやるし」
マリーにとって、どうでもいい事であった。
この国はそもそも自分が今居る場所でも何でもなく、無理矢理呼び出されたようなものだった。
ただ昔を思い出せるかもと、同行者の面々を見て辛うじて許諾しただけで、元々外交的な意味合いでの意識は低い。
彼女もまた、個人的に言われた事がイライラを募らせている。
引き抜きだとかそういったモノに近く、生活や待遇に関して保障するから居て欲しいという話だった。
一瞬、マリーは自分を使役している主人の辺境伯を思い浮かべ、彼との関係を考えれば喜ばしい事だと思った。
しかし、彼女個人の考えとそぐわないし、何よりもそれが当たり前であるかのように言ってくるこの国の思考そのものが嫌いだった。
「人の交友関係にまで口を出すとか、バカじゃないの?」
そして、彼女は今の自分に出来上がりつつある交友関係にケチをつけられた事が気に入らなかった。
その性格上、彼女の関係と言うものは決して良好とは言えない。
狭く、深く。
姉に指摘されたように、気に入った相手としか上手くやれていないのだ。
数えるほどしか居ない繋がりにケチを付けられ、その上──記憶や思い出とも言える出来事や、それに連なる感情までケチを付けられたようで気に入っていないのだ。
彼女の中では……召喚されてからの灰色の日々の中に、僅かに良い記憶がある。
その始まりが窓の外で舞闘を演じていた人物であり、どうしてもかつてただの少女だった頃と重ねてしまうのだ。
騎士に庇われて背中を見つめる事しかできずに、守られる存在で居た昔。
ヤクモに守られて、かつての仲間と対峙しながら共に戦った現在。
英雄だと知っても変に尊重せず、変に遠ざけたりもしないで付き合ってくれる。
無茶な注文や、変な言いがかりに近い事に対しても鵜呑みにせず、かといって拒絶もしない。
対人関係において壊滅的だと自覚しているからこそ、出来上がった”対等”の二文字で完結する関係が心地良かったのである。
一方的に与えるのではなく、一方的に与えられるのでもなく。
そして──彼女自身、気に入っているのだ。それは好意と言っても良い。
ただ、その感情を知るには人間関係と言うのを経験しなさ過ぎた。
普通の人としての生活よりも、色濃い死と血と戦いの記憶の方が濃かった。
だから……彼女は失敗する。
踏み込みすぎて、或いは触れなさ過ぎて。
距離感を、理解できなくて。
「あ~、マリーいたあ!」
自分の部屋にたどり着いたマリーの背後から、実の姉の声が聞こえる。
先ほど短い間とは言え険悪な雰囲気を作ったとは思えないほどに、純粋な笑みを浮かべていた。
逆にマリーは言い争ってしまった事に気まずさを覚え、何も言えずにいる。
無かった事とするには彼女の中では大きな出来事で、だからと言って引っ張り出してきて継続するには姉の声と表情が邪魔をした。
「う……。ね、姉さん──なに?」
戸惑うマリーを他所に、ヘラは妹へと近寄っていく。
そして目の前でニコニコとして何も切り出さない姉に対して「へ、部屋に入る?」と問いかけた。
こういった時にお茶などを用意してくれるような部屋仕えが居らず、マリーは心の中で舌打ちした。
「ごめん。今お茶とか出せそうに無い」
「ううん、いいよ。ただ、ちょっとね、お話がしたくて」
「お話?」
「うん。船から投げ出されてから、ここに来るまでの事が聞きたくて」
先ほどの事柄とは無関係に、姉が身内らしく心配してくれているのだろうとマリーは察した。
少なくとも血の繋がった唯一の家族なのだから、無事とは言え聞きたいのも当然かもしれない。
そう思ったマリーは、言葉拙くも船から投げ出されてから泳げずに何かにしがみ付いた事を語った。
それがヤクモによって両断されたクラーケンの半分側であり、運よく合流する事が出来たという事。
タケルとファムも一緒で、ずっと一緒に歩いてきた事。
少し言うべきかマリーは迷ったが、途中で脱走兵の相手をした事。
馬車に乗ってから襲撃を受けた事も全て話した。
それだけじゃなく、宿を取ってから飲み食いした時の事や、時折昼はヤクモが作ってくれたものを食べたりなど。
語り出しは言葉の引っかかる事の多かったマリーだが、徐々にその語りは滑らかに、饒舌になった。
それは今の状況との比較もあり、彼女にとって楽しかった記憶といえた。
遠い昔のようで、或いは束縛もなく自由と言えて、もしくは良い出来事の一つとも言えたのだから。
ヘラはそれらを黙って聞いていた。
あるいは、壊れたラジオのように相槌を打ち続ける。
凄いね、うわ~、大変だったね。
そういった、会話を円滑に進める為のもの”だけ”が、繰り返され続けた。
だから彼女は自分の話の種が尽きるまで気がつかずにいた。
ヘラの表情から笑みが徐々に消えて、ただの微笑みに成り下がっていた事に。
「マリーは、またそうやって楽しんで」
「楽しんでなんか無い。結果として楽しかったのは事実だけど、同じくらい大変だった」
「大変かな? 大変だけど楽しいよね? 何も無いよりずっと良いよね?」
「──姉さん?」
そして、そこでマリーはようやく気がつく。
自分の姉が向けている笑みが好意的なものではない事に。
貼り付けた、相手を畏怖させるものだと理解してしまった。
彼女の中で、かつての姉を思い出してしまい、怯んでしまう。
目を逸らすと、ヘラはマリーを押し倒し床へと拘束した。
抵抗し、押し返そうとした。
しかしヘラはそんなマリーの両手を押さえつけて、額が重なるくらいに顔を近づける。
笑みを浮かべているが、両目を見開いて威圧するようなものに──攻撃的な物へと変わっている。
その瞬間、マリーは英雄ではなくヘラの妹へと戻っていた。
「マリーだけさ~、ずるいよね? 私はずっと、ずっと。ずっとずっとずっとずっといつ死ぬか分からない身体で、助けてもらうまで、病気が治るまでずっと一人ぼっちだったのに。マリーだけ冒険してさ、マリーだけ色んな場所見てさ、マリーだけ色んな人とお話してさ、マリーだけ沢山の思い出作ってさ。ずるいよね? ずるいずるいずるいずるいずるい」
ヘラは呪詛のように、マリーへとそれらをぶつけた。
そしてマリーも、忘れかけていた自分と姉の関係を思い出す。
病弱でいつ死ぬかも分からぬ姉は床に伏せがちで、世界が魔物で溢れ帰り国が危うくなるまで常に待つだけの人だった。
ヘラが死の恐怖と戦い続けている間、マリーは優秀な娘として名を馳せていた。
ヘラが一人で床に臥せっている間、マリーは沢山の出会いや別れ、そして様々な地を見てきた。
ヘラが恐れを抱いている間、マリーは喜びや悲しみ、苛立ちや解放を味わっていた。
姉に負担をかけたくないから常に前に出てきた、姉に楽をさせたいから戦い続けてきた。
マリーにはマリーの言い分が有ったが、その多くが『生きている証』として自分に蓄積されているのに対して、姉はただ部屋と薬と苦痛と孤独しか味わってこなかったのだ。
それこそ、回復するまで──今のように、元気になるまでは。
マリーにはマリーなりの苦労があった、だから相手を選ぶような物言いをしている。
マリーにはマリーなりの苦痛があった、だから戦いで接近戦になろうとも諦めずに戦っていられる。
様々な彼女なりの言い分があったが、負い目が──彼女を盲目にし、黙らせた。
自分が妹であり、ヘラが姉である事も加味して。
「ねえ、楽しかった? 外の世界を旅するの。ねえ、楽しかった? 皆で何も考えずに飲んだり食べたりしながらお話したの。戦って、良かった事を褒めて悪い場所を指摘するの。背中を任せたり、背中を任せられたりしながら戦うの。勝って喜びや思い、感情を他の人と共有するの。悲しみや苦しみを別ち合って、同じ悩みに向き合うの。ねえ? ねえねえねえねえ」
「ひぅっ……」
今まで、マリーに罵倒され、貶され、その口撃によって膝を屈してきた人物が見たら驚くだろう。
姉相手とは言え、やり込められて何も言い返せずにいる今の状況がありえないと思う。
同じように、ヘラを知るものが見れば驚くだろう。
嫉妬を露わにし、実の妹を相手に英雄と言うベールを脱ぎ捨てて醜さを見せている。
その服装や普段の言動、救いや施し、救済を与えてきた人物とはかけ離れた現状に。
しかし、マリーは忘れていた──忘れようとしていた恐れに直面して何も考えられなかった。
怨んでいるのではないか、妬んでいるのではないか、自分が健康なままに表舞台を張っていて良いのかと言う懸念。
その”最悪な状況”に直面し、その相手が姉だから何も出来ずに──外見どおり、ただの少女と化していた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい──」
「私は謝って欲しいんじゃないんだけどな~?」
マリーは、ヘラが自分を怨んでいるのではないかと言う恐れに立ち向かえなかった。
その後、マリーは自分がどういう存在で、どういう人物かを姉によって思い出させられる事になる。
――忌み子であり、その生を祝福されてなどいなかった事を──
そして彼女は涙を流し、顔をその刻印だらけの両腕で覆っているからこそ気がつくことは無かった。
ヘラの目が、朱の淡い光を奥底から発していたという事を。
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