第9章:レインが決着をつけるまで

レインとトーリス

「はぁ……はぁ……」


 その日、トーリス・キルメンは、一本の大樹に自身の体もたれかけ、全身から疲れを滲ませていた。

 もうどれくらいこの世界を彷徨い続けたのか、彼には最早知る由もなかった。


 あの日――ダミーレインと言う理想的な存在が世界中に勝利の凱旋を行った翌日以降、彼は自らの帰るべき場所を失い、世界中を彷徨う生活を余儀なくされるようになった。だが、どこへ行っても待っているのは彼を襲う残酷な仕打ちの数々であった。魔王を一度は倒し、力を増して蘇った『魔物』に対してもダミーレインを指揮して圧倒し続けた『最後の勇者』であるはずの自分を、どの町もどの村も一切認識せず、ただ薄汚いコソ泥としてしか扱わなかったのである。確かに少々強引な手を取った時もあったかもしれないが、それでも彼は自分をトーリス・キルメンだと認めないまま追い出そうとした人間たちへの憤りを持ち続けていた。


 僕は勇者だ。世界で最も権力がある素晴らしい存在だ。それなのに、どうして誰もわかってくれないんだ。やっぱり彼らは、自分の利益ばかりを優先して勇者への敬意を忘れた裏切り者だったのか。

 人々を散々欺き、日々の鍛錬も完全に怠り、口八百だけで世界を動かしていた自分のことを完全に棚に上げ、トーリスはただこの世界そのものに怒りを覚えていたのである。


 だが、次第にそのはけ口すら、彼の元から次々と奪われていった。『魔物』に制圧された場所は一夜にしてトーリスを含む人間が一切立ち入ることも出来ず、触る事すら不可能な漆黒の半球に包まれ、二度とその中の様子を垣間見ることが出来なくなってしまうからである。そして、今や彼の周りに広がるのは、まるで昼の中に夜が生まれ続けているかの如く、世界中に広がる漆黒の空間であった。食べ物も碌に漁れず、飲み水の確保にも難儀するようになった彼は、最早歩くことすら苦になるほど心底疲れ果てていたのである。

 それでも、トーリスは懸命に生き続けようとした。ここまで自分を追い詰めた真犯人は誰か、世界をここまで歪ませたのは誰の仕業か、彼はすでに分かっていたからである。だが、今の彼自身の力では、何とか根気強くこの世界で生き延びる事だけが、その存在に対する唯一の抵抗手段である、とトーリスは考え続けていた。奴らはきっと自分の命を奪おうとしている、ならばそれに抗い続ければ、きっと自分は『勝利』を掴める事だろう――。



「……うぅ……」



 ――どこまでも腹の音が鳴り響く今の彼は、そうやって自分を鼓舞していかなければやっていけなかったのかもしれない。

 だが、トーリスは昨日から何も食べておらず、その場を動くことすら億劫、いやままならない状況であった。このままでいれば本当に自分の命は自分自身によって奪われてしまう、こんな情けない最後は絶対に嫌だ、しかし体は碌に動けない、いったいどうすれば良いのだろうか。



「……?」



 深刻に考え始めたその時だった。突然、彼の目の前に『食べ物』が現れたのは。

 最初は当然幻影か何かかと思い、自分の感覚を疑ったトーリスだが、鼻に向けて漂うその香りや手に触れたパンの感触、そして何よりも見るだけで美味しそうな視覚が、それを現実であると嫌でも教え続けていた。最早彼には、自分の欲望を我慢できる理由などなかった。



「ハムハムハムっ、ガブガブガブ、アグアグアグアグっ!」


 人間とは思えないような音を立てながら、トーリスは目の前の食べ物を貪り食った。近くの地面に散らばるのも気にせず、ただ彼は食欲に任せて行動を続けていた。腹一杯になるまで次々に彼のもとに現れる様々な料理、そして食べれば食べるほどあっという間に気力が回復する自分の体と言う不可思議な現象など、全く気にする余地もなかった。そして、これまた突然現れた大量の水も、トーリスは全く警戒せずに飲み干したのである。それはまるで、用意された飲食物を食い尽くすのようだった。



「……はぁ……はぁ……」



 そして、先程まで今にもその場で干からびそうだった痕跡を一切残さず、元気を取り戻したトーリスは、深い呼吸を何度か繰り返した後、ようやく立ち上がった。今度こそを最後まで苦しめるべく生き続けてやる――そう決意を固めた、まさにその瞬間だった。そのの片割れが――。



「おはよう、トーリス♪」

「……!!!」



 ――何の前触れもなく、目の前に現れたのは。


 あまりにも唐突な事態に、立ったまま固まってしまったトーリスの視界に入り続けたのは、1人の女性の姿をした存在だった。

 長い髪を1つに結い、顔には優しげな微笑みを見せ、健康的な肌やたわわに実る豊かな胸を純白のビキニ衣装のみで覆う――彼はこの女性を、長い間嫌というほど同じ時間を過ごしてきた。彼女の理想論や誠実さ、謙虚さに苛立ち、最終的に彼女を完全に見放した。そして長い間、トーリスは彼女が魔王との戦いの末命を落とした、と見做し、世界中の人々にその事を流布させ続けたのである。だが、彼はとっくに気づいていた。彼女=レイン・シュドーは生き永らえ、魔王と手を組んだ挙句、世界を我が物にしようとしている事を。



「……どうしたの、トーリス?あまり嬉しそうじゃないわね……?」

「……あは、あははは……」



 口八丁で自分に降りかかった様々な非や困難を凌ぎ、ここまでたどり着いた彼であったが、流石に今回ばかりは頭の中で物事を整理する事に時間がかかった。どうしてレインが何の前触れもなく自分の前に現れたのか、ある程度は予想できたのだが、それを受け入れるまでに時間がかかっていたのである。当然だろう、彼女の存在こそがトーリスにとっての死刑宣告に等しいものだったのだから。

 そして、しばし無言で向かい合った後、ようやく彼は口を開き、まともな言葉を話す事が出来た。



「……ははは……はぁ……随分、時間がかかったようだね、レイン・シュドー」

「……まあね、貴方にはそう見えるかもしれないけど」

「それは失礼。君にも君なりの、理解不能な考えがあったんだろうし」

「そう考えてくれれば、こちらもありがたいわね。人間にはわからない、崇高な考えだもの」


 軽い言葉のやり取りの中に、2人は相手に対する敵意をたっぷりと織り交ぜていた。そして同時に、双方とも拳や剣を交えるつもりはないという事も、互いの構えややり取りの中で理解していった。かつて、様々な感情を抱えながらも恐るべき魔物に立ち向かい続けた頃、まさに阿吽の呼吸で魔物を退治し続けていたトーリスとレインが、皮肉にもこの場で再演されていたのである。


 だが、両者共に和解したいという思いは一切残されていなかった。


「……レイン、さっき僕に、山盛りの料理や水を渡したのは君だろ?」

「ええ、そうよ……美味しかった?」

「そうしたいけれど、生憎礼は言わないつもりさ。むしろここで全て吐き出したいぐらいだ」


 彼が生きる上で欠かせないはずの飲食物に対する感謝の念を相手に送る事すら、トーリスは放棄していたのだから。だが、既にレインが彼に渡した食べ物や飲み物の数々は、トーリス・キルメンの体の一部となり、こうやってたっぷりと嫌味や皮肉を存分に交えた会話をする活力の源に変貌していた。毒は入れていないから安心して欲しい、と告げたレインの言葉通り、彼の頭はその料理のお陰でますます冴えていくように感じた。

 君の策略には毎回悪い意味で驚かされるばかりだ、とため息交じりに告げた後、トーリスははっきりとレインに尋ねた。既に答えは予想しきっていたが、彼女本人からぜひその答えを聞きたかったのだ。



「……レイン、何故君は勇者の名を捨て、魔王に魂を売ったんだ?」

「……トーリス、貴方のような愚かな人間は、もうこの世界に要らない。私がいれば、それでいいのよ」


「その考えこそ、愚か極まりないね。君は、この世界に大事な物をすべて否定したんだから」



 レインから発せられた予想通りの言葉に、自分の口から思いっきり反論をするために。

 だが、心の中に沸き上がったくすぐったいような嬉しさに狂喜の思いを抱き始めた彼は、その反論に対してレインの表情が一瞬だけ変わった事に気づかなかった。まるで世界で最も汚らわしく醜い物を眺めるような、冷たい目線も含めて……。

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