二章

峻別の王Ⅰ

「おはようございます」

 寒気とともに竜也は目を覚ました。それは人間がほとんど失ってしまった危機感、あるいはほんのすこしばかり残っていた野性の本能がさせたことだった。

 声のした方とは逆側にベッドの上から転がり落ち、声の主に視線を向ける。なんだろう、あの声は。どこかで聞いたことがあったはずだが、背筋が凍るような恐怖が全身を包む。シェイドでさえもここまでの恐怖はなかった。人ではないタナシアやフィニーを初めて見たときもこんな気持ちは起こらなかった。

「どうかされましたか?」

 どこか含みあり気な顔ばかりしていたイグニスが本当に驚いたような表情で竜也を見下ろしている。ベッドの縁を掴んで立ち上がった竜也をまるで気が狂ったのかと心配しているような風でさえある。

「いや、お前か。気のせいだったか。夢見が悪かったのかもな」

「それはそれは。昨日少しタナシアと和解したと聞きましたが。寝首をかかれるようなことはないと思いますよ」

「そうだな」

 息を一つ吐いて竜也は自分の住処すみかとして少し慣れてきた中庭を見渡す。昨日フィニーが持ってきた白いテーブルセットもそのままだ。竜也の行動範囲を制限していた魔法陣は変わらず足元に描かれていはいるが、心なしかその光を落としているようにも見えた。

「どうですか、目覚めに一杯? なんならコーヒーもありますが」

「そうだな。コーヒーにしてみるか」

 イグニスは昨日のフィニーのように銀のトレイに置かれたカップを並べ、白磁はくじのポットからコーヒーを注ぐ。

「コーヒーも用意できたのか?」

「えぇ。フィニーが今日用意して行ってくれました」

「それはありがたいな」

 勧められるままに一口。本物ではないとは聞いているが、今まで口にしてきたものと何の遜色そんしょくもない。

 寝惚ねぼけたままのまぶたを擦り、覚醒した頭でもう一度辺りを見回すとさっきは気付かなかったことにも気付くようになるものだ。

 そして今まで気付かなかったものが眼前でコーヒーを啜る和装の大男だったしても、寝起きってそんなものだよな、の一言で片付けられてしまう。

「で、この方は?」

 すさまじい威圧感に竜也はとりあえずの敬意を込めつつイグニスに尋ねる。

「あぁ、閻魔えんま様ですよ」

「そっか、閻魔様か……ってなんだと!?」

 持っていたカップをテーブルに叩きつけ、平然と答えたイグニスに向き直る。イグニスはと言うと竜也の驚きが予想通りだったらしく、嬉しそうに声を漏らして腹を抱えていた。

「素晴らしい反応ですね。わざわざ朝早くに来た甲斐がありましたよ」

 さきほどの逃げ出したくなるような闘気の持ち主はこの閻魔から放たれていたものだったらしい。座っていても一目でわかる巨躯はゆるやかな和装の下でもその力強さをありありと主張している。一見穏やかそうにカップを傾けているように見えて、なにかしかければたちまちくびき殺されてしまいそうな恐ろしさがあった。

「それで何で閻魔様が俺の目の前で優雅にコーヒーを飲んでるんだ?」

「あぁ、それはですね」

 説明しようとしたイグニスの言葉を閻魔が受け取った。

「代わりだ。フィニーがタナシアを連れて人間界に遊びに出掛けちまったもんでな。今日は俺の仕事は休みだし、ちょっと面白そうな人間がいるって聞いたもんでこうしてきたわけだ」

「そうですか、ってあいつはついに職務放棄どころか仕事場から逃げ出したのか」

「どちらかと言えばフィニーが強引に連れて行ったというところでしょうが」

 まったく、と竜也はこめかみを掻く。どうして自分がタナシアの仕事ぶりを心配してやらなければいけないのかとも思うが、一度気になってしまった以上は仕方ない。

 そして一緒にサボりにいったフィニーともう一人。この古城で一番厳しいメイドの姿が見えないことに気付く。

「シェイドもついていったのか?」

「いえ、片付けられる雑務を片付ける、と部屋にこもっていますよ」

「真面目なんだか甘いんだか」

 どうせならついていって三人仲良く羽を伸ばしてくればいいというのに。竜也とて家主のいない古城を漁るほどの神経は持ち合わせていない。ただいつも以上に手持ち無沙汰にはなるだろうが、こうしてイグニスの相手をするよりかはいくぶんか気が楽だろう。

 さらに今はタナシアよりも簡単に竜也の命を奪ってしまえる御仁ごじんが目の前にいるのだ。カップを持つ手も勝手に震えてくれる。

「それにしたってどうしてまた閻魔様がわざわざ?」

「キスターだ。役職で呼ばれるのは好きじゃないんでやめてくれ。なに、こいつから面白い人間がいるって聞いたもんでな。ちょっと様子を見に来ただけだ」

 そう言ってキスターは空になったカップをイグニスに差し出す。どこか捉えどころのないイグニスもさすがに上司に軽口を叩くこともなく、次の一杯を注いだ。

 しかし揃いも揃って竜也の何が面白いと言うのだろうか。

 イグニスやキスターの言う面白いとタナシアが言う面白いはきっと意味が違う。そのくらいは竜也にも理解はできているが、特別なことなど一つもない自分が死神たちに興味を持たれる理由なんて想像もつかない。

「お前からしちゃそうなんだろうが、俺らからすりゃあてこでも動かなかったタナシアが人間界に降りるなんて天地が返るようなもんだ。気にするなって方が無理ってもんだ」

「そうですね。その人身掌握術をご教授願いたいものです」

「あいつは人間じゃねぇだろ」

 軽口を叩きながら竜也は空になったカップを置く。緊張からか喉が渇いて仕方ないように思う。体はもうないのだから気のせいのはずなのだが。

「まぁな。それじゃ本題といこうか」

 微笑んでいたキスターの顔色が変わる。真剣な眼差しに思わず竜也は息を飲んだ。

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