四.一九三六



 ビターゼはギターばかり弾いていた。

 熱中すると周りが見えなくなる性分らしく、ダッツェから貰い受けたシングルオーの弦は、二週間に一度は張り直さなくてはならなかったし、夜中にふと目を覚ました時、隣の部屋からギターの音が聞こえ叱り付けた事るも一度や二度ではない。

 初めてギターに触れてから一か月ほどで『サリー』をマスターし、次は往年の名曲『リンゴの花の咲く丘』、それも半月で覚え『スウィート・ナッシングス』へ、これはラシャ・ミュージックの客からの頂き物だった。店の狭いカウンターの中で、子供が背中を丸めてたどたどしくギターを練習している様は音楽好きの大人達のお節介心を擽るらしく、その内のひとりが歌詞入りの譜面を譲ってくれたのだ。王道中の王道であるカノン進行に乗ったメロディラインは大きく緩やかで、弾き語るには容易い曲だ。しかし、まだ十にもならないビターゼが、『だれにでもあまいことばをささやいてるの、まちじゅうのおんながしってるわ』等と歌うのがどうにも可笑しくて、タイプを打ちながら、笑いを堪えるのが大変だった。

 



 そんな穏やかな日々が、三年と少し続いた。




 疲れた。

 酔いが回った足で、アパートの階段をふらふら上る。深夜一時を過ぎ、静まり返る町に雪は深々と降っている。

 玄関を開ける。鉄のカンテラは、出掛けに置いた靴箱の上。全く困った奴だ。

ビターゼに声を掛けるか、と思ったが、ドアの前で耳を欹ててもギターの音がしない。珍しい、もう眠ってしまったのだろうか。

 自室に入ろうと一度は離れたが、ふと思い至り踵を返した。一応様子だけ見ておこう。

ビターゼの部屋のドアをノックする。

 返事はない。もう一度叩き、間を置いてそっとノブを回す。眠っているならそれでいいのだが。

 青暗い部屋、床に放られたいつもの薄っぺらいコート、ああもう、カーテンが開いたままだ。

 ビターゼはちゃんとベッドに入っていた。ただし、顔は真っ赤、ぜえぜえと苦しげに息を吐き、首の付け根まで隙間なく毛布を被った有り体で、だが。

 こちらに気付いたビターゼは、決まり悪そうに毛布を顔まで引き上げる。そう言えば喧嘩をしていたんだった、しかし今はそれどころじゃあない。

 「一時休戦だ、ビターゼ」

 隠し切れず出ていた額に手を当てる、かなりの熱だ。汗も酷い。

 「大方流感でも貰ったんだろうが……。待ってろ」

 こんな時間から医者には掛かれない。取り合えずどうにかして熱を冷まさねば。部屋を出て、洗面所に急いだ。洗面器に水を張り、オルを浸す。左手で、端から握り潰す様に絞る。肌に刺さる冷たさただが、酔いも熱も冷ますには都合が良い。戻り、冷たいタオルで顔の汗を拭う。呼吸は荒く、指を掠める息もかなり熱い。

 「熱は?」

 「八度……七分」

 「高いな……いつからだ」

 「お店で歌ってたら、途中から……女将さんに帰れって言われた」

 「急にか、じゃあ飯は食ってないんだな」

 「いらない、空いてない」

 「何か腹に入れないと薬も飲めないぞ」

 絞り直したタオルを額に乗せて、良し、後は飯だ。今度は台所へ。この間の安売りで買ったポリッジが残っているはずだ。

 片手鍋に牛乳とポリッジを入れ、火に掛ける。調味料は砂糖、塩っ辛いので喉が痛むといけない。シンクに灯りを付けただけの台所は、板床から冷えが上がってくる。こっちも悪くなったらどうしようもない、まだ着たままだったコートの前を閉じて、コンロの火に冷えた爪先を翳す。

 出来上がった少し水っぽいポリッジをビターゼの部屋に運び、少しでいいから食べろ、とサイドチェストに置いた。そしてまた台所に戻り、薬探しを始める。確か食料のラックに、違った、なら戸棚の引き出しだったか、と開けばビンゴ。いつぞや医者に貰った熱冷ましの粉末が残っていた。取り合えず明日まではこれで凌ごう。マグに水を汲んで、三度ビターゼの部屋へ入る。

 「食えそうか」

 「甘い」

 「甘い物好きだろ」

 そう返せば、ビターゼはこくり頷き、緩いポリッジにスプーンを入れた。ボウルに半分の量だ、食べ切れるだろう。

 椅子に腰掛け、漸っと息を付く。視線を壁にやれば、もう今は使う事も稀になったあのシングルオーが目に入る。パブの様な喧しい所で歌うには、このサイズの馬力ではどうしても物足りなくなる。今のビターゼの相棒はその隣のD18。中古でも中々の値だったが、戦艦の名を頂いた馬鹿でかいボディが放つ音は、軽いストロークからでも鮮烈で、華やかだ。十年前にはなかった型だ、本当なら自分で鳴らして、鳴りを試してみたかったが。

 「ごめんなさい」

 「ん?」

 薬を飲ませ、汗だくの体を拭き、寝間着を変えさせ、ベッドに寝かし付けると時間は二時過ぎだった。

 「パパ、ごめんなさい…」

 俺、我が儘ばっかりだ、咳混じりの声で言う。薬が効いているのだろう、ただでさえ眠そうな瞼がもっと下がっている。

 「怒ってない」

 「……だけど」

 「もう良いから、寝ろ。酷くなったらしばらく歌いに行けないぞ」

 「パパは?」

 「お前が寝たら寝るよ、おやすみ」

 グッドボーイ、といつもより熱い頬を撫でてやると、もうボーイじゃないんだけど、と擽ったそうに目を細めた。

 



 ビターゼは比較的丈夫な子供だったが、数年に一度こうして流感に当たる事があった。

 初めて熱をを出したのは、共に暮らして一年ほど経った冬だった。朝、いつもの様にビターゼを起こそうとドアをノックするも返事がない。また夜遅くまでギターやってたな、困った奴だ、そんな事を思いながら部屋に入り、そこで初めて異変に気が付いた。ベッドに潜り背中を丸めたビターゼは、ガタガタと体を震わせ、真っ赤な顔で浅い呼吸を繰り返している。おい、どうした、と触れた頬の焼石の様な熱さに驚き、慌て、着のみ着のまま雪の散ら付く道を近所の診療所に駆け込んだ。

 医者はベッドに寝かされたビターゼを見るなり、来るのが遅い!と怒鳴った。その見立てでは、ビターゼは流感と、それに伴う腸炎を発症しており、軽い脱水まで起こしていると言う。放っていたら死んでいたぞ、と締められ、血の気が引いた。どうして、寝る前は元気だったのに。つい漏れた一言に、この状態ならば調子を崩してから一日以上は経っている、医者はそうきっぱりと言い切った。

 ──そんな馬鹿な、昨日、ビターゼは朝いつも通りに学校へ行き、放課後ラシャ・ミュージックにやって来た。そしていつも通りにダッツェにお菓子を貰い、夜は一昨日の残りの野菜の煮込みとマッシュポテトをいつも通りに食べていた。食後はリビングで『スマイル』を弾いていた。こうなって半年程だが、それでも最早日常と言っても良い、当たり前の一日だった。それなのに。

 深夜、寒気で目が覚めた。椅子に座ったまま眠っていたらしい。首の筋がじくじくと痛む。看護婦から借りたブランケットはリノリウムに落ちていた。

 壁の時計は一時を過ぎた所だった。窓の外はまだ雪だろう。室内も相当冷えている。薪ストーブはとっくに消えていた。

 暗がりの中、ベッドに目をやる。ああ、少し楽になったのだろうか、呼吸が深くなっている。昨夜はきっと苦しくて眠れなかったろうから、今は体が欲するだけ寝かせてやりたい。

 しばらくぼんやりとビターゼの寝顔を眺めていたが、冷えからか少し催し、トイレに行くかと立ち上がると今度は腰がずきんと痛い。クッションも借りるべきだった。

 手を洗うついでに顔も洗うと一気に眠気が飛んだ。真冬の夜の水は、爪も肌も凍るんじゃないかと思う程冷たい。

 病室に戻ると、ビターゼは目を覚ましていた。

 「びょういん」

 腫れと乾きで枯れた声でビターゼは呟いた。

 「そうだ」

 吸い飲みで水を飲ませ、小さな額に手をやってみる。まだ熱いが、朝のそれに比べれば随分平熱に近付いた。

 「つめたい」

 「さっき水を触ったからな」

 熱があるから気持ち良いだろ、と頬を撫でてやると、目を閉じて擦り寄って来る。

 「ごめんなさい」

 「どうして謝るんだ」

  謝るのはこっちのはずだ、が、情けない大人の懺悔は後だ。医者からはとにかく休ませろと言われている。

 「寝なきゃ駄目だ。早く元気になろうな」

 柔らかな頬を撫でながら、おやすみ、そう言うと、

 「……おきたら、まっくらでね、いなかったから」

 またおいてかれたのかなって、おもった。

 ビターゼはそのまま、うつらうつらと眠りに付いた。

 ああ、そうか、そうだったのか。

 良く躾けられた、手の掛からない子。

 俺は何も分かっちゃいなかったんだ。

 



 その後、 一週間の入院を経て、ビターゼは無事全快した。退院時、ありがとうございました、と、世話になった医者や看護婦にぺこり頭を下げる姿は、大人達を大いに喜ばせた。出来た子だ、賢い子だと。

 そして、俺は腹を括った。




 診療所を出て、さあ帰れるぞ、そう言ってビターゼの手を取った。ビターゼは、少し驚いた顔をして、それでもこの左手をそっと握り返して来た。数日振りに晴れたオデロンの空は、真冬には珍しい澄んだ水色をしていた。

 「つもってるね」

 「昨日までは大雪だったからな」

 道の端に延々と連なる山と積まれた雪。ボロ長屋が重みで潰れてなきゃいいが。

 正午を疾うに過ぎていたが、昼飯はまだだったので、近所のカフェに寄る事にした。いつもならなんでもいい、と言うビターゼに、病気が治ったお祝いだ、と好きな物を選べ、と言ってみた。いつもと違う色々に戸惑っているのか、こちらと取り取り並ぶパンや焼き菓子を交互に見てから、じゃあ、と遠慮がちに指したのは、タンジェリンのデニッシュペストリー。さっくりとした生地の上で、砂糖を塗して焼いたタンジェリンがキラキラと光っている。他に幾つかを見繕って、レジに並ぶ。すっかり馴染みになったカフェのオーナーに、坊やは久し振りね、と声を掛けられ、ビターゼはまたぺこっと頭を下げた。

 「ちょっと酷い流感に掛かってな、今し方退院して来たんだ」

 「あら、可哀想に。今流行ってるらしいわね」

 元気になって良かったわね、とオーナーがレジの傍にあったクッキーを袋に入れてくれた。

 「ふたつ入れておくから、パパと分けっこしてね」

 「悪い、気を使わせて」

 「良いのよ、また来てね」

 ビターゼ、とまた手を引いて、店を出た。

 「クッキーくれたね」

 「俺はあんまりお菓子は食べないから、ビターゼが食べたら良い」

 「でも」

 「何だ?」

 「おねえさん、パパとわけっこしなさいって」

 繋いだ手に、ぎゅっと力が込もった。

 「……そうだったな」

 じゃあ俺も少しだけ貰おうかな。

 そう笑んで見せると、ビターゼは、じゃあぼくがチョコチップのほうね、とにいっと笑って返した。




 「おはよう」

 「ビターゼ、熱は」

 「ない」

 嘘じゃないよ、と自分から頭を近付けてきた。触れれば確かに下がってはいる様だが。

 「熱冷ましがまだ効いてるだけじゃないか?」

  いいから医者に行けよ、ボウルに卵を割り入れながら言う。これは昔から片手でやれる。母親の真似をして覚えた特技だ。

 「フレンチトースト?」

 「焦げたの食いたくなけりゃ黙って顔を洗って来い。九時には病院開くからな」

 滑り止めのクロスを畳んでボウルの下に敷く。こうすれば、ボウルを支えずとも中をかき混ぜられる。これは不便さを補う知恵だ。冷蔵庫の中から数日前に買ったオレンジを取り出し、ナイフで何とか半分にしたら、絞り器で果汁を絞る。それを砂糖、卵、少しのミルクと混ぜ合わせ、切ったバケットの両面をその液にひたひた浸す。正しくは馴染むまでそのまましばらく寝かせるべきだが、朝食に時間は掛けられない、精々五分か十分。待つ間にフライパンを用意する。熱したバターで軽く焼き、両面に色が着いたら皿に盛る。最後にマーマレードを乗せて完成だ。オレンジフレンチトーストは、我が家の定番のブレックファースト。

  洗面所から戻ったビターゼが、隣の火口に薬缶を掛ける。

 「アールグレイってもうなかったっけ」

 「棚の奥に残ってないか」

 「あ、ありそう」

 コンロの上の棚が紅茶倉庫。大抵は一番使うアッサムとブレックファーストが前に出て、その後ろに変わり種が並んでいる。

 「古くないかそれ」

 「うーん、大丈夫じゃない?」

 鼻が詰まって匂い分かんないや、とビターゼが蓋を開けた緑色の缶を鼻元に寄せて来た。ベルガモットの爽やかな香りがする。

 頷いて見せると、ビターゼはポットの準備に入った。こちらもそろそろ焼き上がる頃だ。ぱちぱちとバターが小さく弾けるフライパンから、フォークでパンを引き上げる。

 良し、我ながら中々の出来だ。




 一日病人の見張りをしたい所だが、今日は取材に出なくてはならない。ビターゼはひとりで大丈夫だと言い張ったが、病院の入り口までは着いて行った。

 「カメラ下げて病院とかホント目立ち過ぎ!過保護!」

 ニコロズから借りっぱなしのライカⅡは中古品だが良く働いてくれる。カメラマンの付かない取材は、ライター自ら写真素材も用意しなくてはならない。

 「しょうがないだろ、お前ひとりで行かせたら、病院行かずに楽器屋にでも入り浸りそうだからな」

 「……そんな事」

 「するつもりだっただろ」

 ほら見ろ、顔に図星と書いてある。親を舐めて貰っては困る。

 「診察が終わったら真っ直ぐ家に帰る事。いいな」

 「でもお店が」

 「何と俺の今日の仕事はダラス通りのギター工房の取材だ、仕事ついでに店にはしばらく休むと謝っておいてやるよ」

 「そこ知ってる!」

 ずるい僕も行きたい、とごねるビターゼを、治ったら連れてってやると説き伏せ、病院に押し込んだ。受付の看護婦に、くれぐれも診察が終わるまで逃がしてくれるなと頼み、病院を後にした。ここ中地区のオデロン中央病院から、東地区のダラス通りまではバスで二十分程。天気は良いが、昨日の雪の名残か良く冷えている。コートのポケットの手帳で工房の住所を確認し、バス停に向かう。

 市内東のルボル地区は、あの列車砲の攻撃時、最も破壊を受けた地域だった。半数以上の市民がそこから他所へ移り住み、十年が経とうとする今日でも未だ空地や廃屋も多く残る。しかし、ここ数年はその地価の安さを逆手に取り、特に二十代から三十代の若い実業家やデザイナー達がアパレルショップやカフェ、パブレストラン等を次々にオープンさせ、嘗ては人も疎らだったルボルは、今や若者や新し物好きが挙って集まる、アドイノラの流行の発信地になりつつあった。ビターゼの働くパブや、今日の取材先のあるダラス通りとその近辺がその中心地だ。




 古い煉瓦の壁に『Made in Adoinora』と言う分かりやすい看板の掛かった工房に入ると、黒淵の分厚い眼鏡を掛けた、棒の様にひょろ長い男が出迎えてくれた。まだ若い、二十代半ば程だろうか。ビターゼと同じブルネットだが、癖の強さはこちらさんが数段上だ。まるで茶色い綿菓子の様。

 「ああ、記者のリューベンさんですよね、ニコロズさんから話は聞いてます。クラフターのシモンです、シモン・タロシャン」

 初めまして、と出て来た右手。これもこの十年幾度となく困った事だ。済まない、こんななんだ、と右腕を上げて見せる。コートの袖がぺこり頭を下げた。

 男の顔がさっと曇る。驚き、同情、繕いが混ざった、一言で言えばやっちまった顔だ。

 「すいません、僕考えなしで」

 失礼しました、と丁寧に詫びて貰ってはこちらとしても申し訳ない。そもそもこっちに手がないのがイレギュラーなのだ。

  気にせず、と笑みを返し、改めて取材の概要を伝える。オデロンでは珍しいオーダーメイドギターショップ、素材に強いこだわりを持った、『アドイノラの音』を追求する工房とクラフター、と言うのがニコロズから貰っていた前情報だ。

古い煉瓦の建物を改装した店舗はかなり狭い。客用の赤いソファーにローテーブル、シモンは立ったままで話をしている。黒い前掛けは木屑で所々白くなっていた。作業中だったのだろう。

 「トップ材のスプルースは確かにアドイノラ産なんですけど、バックのローズウッドは輸入物なんですよ」

 「そりゃローズウッドは南方の木だからな」

 「お詳しいですね」

 「一応これで子供食わせてるんでね」

 「いやそれにしても。じゃあ行きましょうか、こちらです」

 狭い店頭の奥には、これまた狭い工房があった。そこは削った木の臭いと、バニッシュのつんと鼻を付く臭いと、それと何故だか知らないが動物の死骸の腐った様な悪臭とが混じり合い、お世辞にも良い香りだとは言えない。ダイニング用程のテーブルの上には、木製のモールド(型枠)が鎮座している。寸胴だ、ドレッドノートに近い。

 「今やってるのが、ドレッドノートの五パーセント小さいサイズの物なんですよ」

 「五パーセント?」

 「はい、オーダー主さんが比較的小柄な方なんですが、トリプルオーのフォルムは好みじゃないそうで」

 「ケツがでかくてセクシーだけどな」

 「僕も好きですよ、可愛らしいですよね」

 腰の括れた、下膨れ八の字のトリプルオーは嘗ての相棒だ。悪く言われれば反論もしたくなる。

 「まあ仕事ですので」

 僕は何でもやりますよ、とシモンは肩を竦めた。

 「昨日からサイドを成型してて。今からカーフィングの貼り付けをしようかと」

 シモンがモールドの中を指差す。

 「モールドの内側にぐるっと張り付いてるのがサイド板です。昨日一日掛けてこの形に近い所まで曲げて、今は型に馴染ませてます」

 厚さは十五センチ程、括れの少ないドレッドノートの形に組まれた木製の型。その内周には、型木とは別の風合いをした薄い木材がぐるり張り付いている。これも恐らくローズウッドだ。それを、鉄製のジャッキの様な物が三本、左右に腕を伸ばし型へ押し付けている。

 「で、このサイド板の淵に、これを貼り付けます」

 と、シモンが作業台の下から取り出したそのは、一メートル程の細い木材だった。良く見れば、二本あるその両方に、一センチ幅ほどの小さな切り込みがびっしりと入っている。

 「カーフィングですね。これがサイドと、トップバックの板をくっつける糊代みたいなものです。これをサイドの両端に貼り付けるんです」

 これも一昨日ひたすら鋸で切ったんですよ、とシモンは事も無げに言って退けたが、考えただけで気分が悪くなりそうな作業だ。

 「で、今隣の部屋で膠を煮てるんですけど」

 「その臭いかこれは」

 「すいません」

 慣れないとキツいですよねこれ、とシモンがドアを開けると、途端に凶悪な臭気が一気に雪崩れ込んで来る。昼飯を後回しにして良かった。でなければここで全部出していただろう。

 「……窓開けて良いか」

 「駄目ですよ、近所がら苦情が来ます」

 シモンが肩を竦めた。仕事の内です、と。




 すっかり気分が悪くなったまま何とか取材を続け、カーフィングの貼り付け作業とヤスリ掛けまでは見学出来た。これをしばらく放置し、完全に固定させた後にバック、そしてトップとを貼り合わせ、その後にネックを作り始める、との事だ。完成までには後一週間程だと言う。

 「トップのブレイス貼りの日とかに来て貰えば良かったですね、実質音決めの作業はそこなので」

 「その方が絵になりそうだな」

 「明後日にはやろうかと思ってるですけど、いらっしゃいますか?」

 「そっちが構わないなら。今日の写真じゃあギターの中身がすっからかんだからな」

 「僕はいつでも。ただまた膠貼りですけどね」

 「マスクを持ってくる」

 「ちなみにあの膠もアドイノラの牛から作ってます」

 「今バーガー食ってるからそれ言ってくれるな」

 工房の近所のカフェは二時を過ぎてもほぼ満席だった。テラス席なら空きがある、と案内され、仕方無くコートを着たままランチタイムと相成った。

 「しかし大したもんだな、ひとりで全てやってるんだろ」

 「まあクラフターは職人ですから、ひとりの方が気楽です」

 シモンはプレートに乗ったバーガーを、ナイフとフォークで丁寧に分解し、全ての野菜を端に避けた後、蓋のパンから齧っている。確かに社会性は乏しそうだ。

 「どこで習って来たんだ?オデロンでギターの修理が出来るとこと言ったら」

 「いや、僕移民なんです。ロダから来ました」

 「移民」

  エルタイからの移民とは珍しい。何せ賃金も生活水準もあちらの方が遥かに上の筈だ。

 「はい、ロダのギター工房で八年ほどやって、去年こっちに」

 アドイノラいいとこですよね、凄く好きです、そう言ってシモンはにっこりと笑った。

 「元々ロダにいた時からアドイノラのスプルースを使ってたんです」

 「同じ木だろ」

 ツフイラ・ロダ市はエルタイ国の西南西の端に位置し、アドイノラの最北シトリ市とはヴァゴエイヴァルの森中で国境を別ている。

 「同じ木でもエルタイ産だと高いんですよ、アドイノラから買った方が安い」

 「うちは貧乏なんでな」

 「ツフイラの人間からしたら、アドイノラは羨ましい限りですよ。今じゃ、あそこは政府に怯えて暮らすだけの貧しい辺境の県です」

 「それは……ここも同じだよ」

 軍事力、政治力、技術、文化、大国の圧倒的な力に、この小国は何ひとつ敵わなかった。そう身を持って知った。それを知る為の代償は、自分にとって余りに大きかった。




 エルタイは正式名称をエルタイ連邦共和国と言い、一九三六年現在、十八の地方県と中央首都県であるエル・セントレを合わせた十九の県から成り立っている。嘗てはアドイノラもその県のひとつだった。

 各県には中央政府から派遣された管理官が置かれ、また、県民の投票で選ばれた議員達による県議会も存在している。しかし、議会の決定は管理官の承認なしには可決されない。要するに、物事を決めるのは県民の意思ではなく、エルタイ政府の都合なのだ。

  一九〇五年、オデロンで、セントレからの視察団を乗せた馬車が暴走し、歩道を歩いていた幼い少女を轢く事故が起こった。幸い命は取り止めたが、少女の父親は怒りの余り、露店に突っ込んだ馬車から這い降りた役人数名と御者をその場で殴り付け、駆け付けた警察官に現行犯逮捕された。

 これに怒ったのがアドイノラの住人達だ。

 逮捕されたのは少女の父親のみ、馬車の暴走は、その頃普及し始めた自動車のホーン音に馬が驚いた事による不可抗力とされ、御者は罪には問われず、視察団はそのまま予定の日程を終えると、詫びの言葉ひとつ残さずセントレへ戻って行ったのだ。

 西部地区は元より取り分け政府へ不満を持つ者が多い土地だった。アドイノラやツフイラは平地が多く、今も昔も酪農や農耕が主産業の、所謂田舎だ。いち早く工業化した東部や、海に面し、他国との交易が盛んな南部に比べ、西部の生活水準は低かった。そこにこの事故だ。募りに募った日頃の恨みの火は瞬く間にオデロンを焼き付くし、県全土に燃え広がった。そして遂には県各地から集まったデモ隊が議事堂、そして管理官の住む公邸を占拠し、エルタイ政府へ独立宣言を叩き付けた。時に一九〇五年四月八日、四月戦争の始まりだ。

 アドイノラに取って幸運だったのは、この頃エルタイは東方の隣国との関係が悪化し、国境警備の為に大多数の正規兵と兵器を国の東に展開させていた。アドイノラ鎮圧に充てられた兵は、たったの三千。幾ら訓練された兵達とは言え多勢に無勢、五万とも十万とも言われた、怒れる義勇兵を押さ込む事など出来る筈もなかった。

 その年の十月、エルタイはアドイノラの独立を認めた。これ以上事を長引かせれば、その隙に東方から攻め込まれかねない。金を産み出す工業都市を抱える東部と、何の産業も持たない西部、アドイノラひとつ切り捨てても痛手はない、そう判断したエルタイ政府と、形さえ独立させてしまえば民衆の怒りは収まる、さっさと畑を耕させ、税を徴収したいアドイノラの県議達、互いの利害が一致したからこその独立だと分かったのは、それから二十年以上後経った後だった。

 この戦争での義勇兵の死者は、二万とも三万とも言われている。同年八月末、最大規模の衝突が勃発したラーテ川岸には何千と言う両軍の遺体か散乱し、川の水が真っ赤だったと、昔酒場で出会った義勇軍の生き残りの男が話していた。

 そして、自分の親父もラーテ川に沈んだ義勇兵のひとりだった。もう、顔もうろ覚えだが。



 帰ったぞ、とビターゼの部屋をノックする。返事がない。そっとドアを開けると、ベッドから寝息が聞こえた。ちゃんと言い付けを守ったか、良い子だ。

 成りは大きくなったが、眠る顔は昔とそう変わっていない。少し赤らんだ頬を左手で撫で、枕元に、帰りに買ったタンジェリンの袋を置いた。さあ、静かな内にひと仕事だ。






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